四
四月も上旬を過ぎると春めいた気温になり、上野公園の桜の木の
騒々しい叩き売りの口上に引き寄せられた客が、新紙幣を手に商品にむらがり戦利品を大事そうに抱えた人が通り過ぎていく。路傍で子供とともに寄付を募っていた中年男性は、片脚の膝下が義足で、片手は肘から先を失った傷痍軍人だった。
貞春たちは用心棒という後ろ盾を失い、自分たちだけで店を出すことになった。最初は子供三人で営んでいる店を興味本位で覗き込む客がちらほらいたものの、肝心の角砂糖を買っていく客は少なかった。
まさかホンモノの角砂糖など置いているはずないと侮られていたのか、目の前を通り過ぎていく人たちの反応は芳しくない。
なかには「これは偽物だ」と怒鳴りつけ、とんでもない低価格で砂糖を買い叩こうとする輩も現れたりして闇市での商売の難しさを肌で感じていたある日、貞春は頭上から薄紅色の花弁が一枚ひらりと落ちるのを見て、とあるアイデアを思いついた。
ある日の夕間暮れ、貞春は新たに購入した
決まった立ち位置は彼女の縄張りで、咥え煙草に真っ白な肌にくっきり浮かぶ真っ赤な口紅。胸元が大きく開いたワンピースの上から厚手のコートを肩にかけて、一際存在感を放っているまつ江さんは貞春の存在に気がつくと口元を綻ばせて挨拶をしてきた。
「おや貞春じゃないか。今日はどうしたんだい?」
「あの、実はお願いがありまして」
上野の街娼たちは親を失った孤児に等しく優しい。戦争孤児を溝鼠のように扱う大人達とは対称的に、互いの心にぽっかりと穴を埋め合うように困ったことがあれば助け合う間柄だった。また、彼女たちは仲間意識が強いことでも有名で街娼たちが結成した
街娼という仕事の性質上、どうしても仲間がトラブルに巻き込まれてしまう場合がある。その際には徒党を組んで愚かな客の元へ押しかけ、下手なヤクザよりも苛烈な制裁を加える話を貞春も耳にしたことがあったが、その夜宵組の頭がまつ江さんだった。
まだ貞夫が自分の足で立てていた頃、二人で残飯でも落ちていやしないか上野の街を歩いていた時に、客待ちをしていたまつ江さんから声をかけられたのが出会いのきっかけだった。
腹と背中がくっつきそうなほど飢えていた二人に、「ついてきな」と声をかけると事情も聴かず闇市の屋台に連れてってくれた。当時闇市で流行っていたラーメンをご馳走してくれ、それだけでなく帰りにお土産にとハーシーと英語で記されたチョコレートまで持たせてくれた。
後で聞いた話では、〝お得意さん〟に進駐軍の将校がいるらしく、相手をする度に一人で食べきれない量のお菓子や洋服をプレゼントされるらしい。
その一件以来、貞春はまつ江さんを見かけると自分から声をかけ、まつ江さんも貞春を含めシケチーやヒロヤンのことを、実の弟のように可愛がってくれていた。
「あら、坊やもそういうことに興味を持つ年齢なのね。でも、まだ少し早いんじゃないかしら」
額を指先で小突かれると、何を言ってるのか遅れて理解した貞春は大袈裟に首を横に振りながら否定した。
「違いますよ! そうじゃなくて、まつ江さんに僕たちの商売の手伝いをしてもらいたくて声をかけたんです」
「手伝いだって? そういえば仲間内で噂になってるよ。アンタ達がどこから仕入れたのか見当もつかない怪しい砂糖を闇市で売ってるってね」
「僕たちは偽物なんて売ってないです」
不貞腐れて語気を強めると、頭に手を置かれて優しく撫でられた。
「わかってる。アンタ達がそんな真似出来っこないことくらいね。だけどいくら止むに止まれぬ事情があったとしても、人様を騙すような
「わかってますよ。だから証拠として今日は持参してきたんです」
背負っていた背嚢を下ろしながら、ちらと視線は赤いヒールに向く。
出会ったばかりの頃、仲間の街娼にしつこく絡んでいた客の金的に、鋭い蹴りで一撃をお見舞いした光景を思い出して下半身が竦み上がる。あの日以来、下手な嘘をつくのはご法度だと肝に銘じていた。
透明のセロファンから一つ角砂糖を取り出して手渡すと、暫く眺めて口の中に含んだ瞬間、まつ江さんは付け睫毛で大きくなった目をさらに大きく見開かせて、驚いたと一言呟いた。
「確かに……これは正真正銘の砂糖のようね」
「お願いというのは、まつ江さんに〝サクラ〟をお願いしたいんです」
「アタシにサクラだって? どういうことだい」
それから貞春は、まつ江さんに思いついたばかりのアイデアを伝えた。
「なるほどね、アタシ達が坊やたちのお店で砂糖を褒めたてれば、警戒心も失せるって算段ね」
「はい。まつ江さんみたいな綺麗な女性がお墨付きをくれたら、お客もきっと安心して買ってくれるはずです」
「あら、随分と嬉しいこといってくれるじゃない。いいわ、言う通り手伝ってあげる」
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