十月に入ると、戦後初の日米野球親善試合のために、サンフランシスコシールズ軍がアメリカプロ野球チームとして十五年ぶりに日本の地を踏んだ。


 マッカーサーの指示のもと、さながら戦勝国が凱旋パレードでもするように銀座を練り歩き、数年前まで彼らを鬼畜米英と罵っていた国民は、熱狂的な歓迎をもって迎え入れるという何とも奇妙な光景だった。


 同月十六日に、貞春は社長の勧めもあって麗子さんと二人で、後楽園球場にサンフランシスコシールズ対読売巨人軍の試合を観戦しに来ていた。とくに見たいわけでもなかったが、気分転換には良いかと思ってきてみれば、いざ蓋を開けてみると試合は米国のプロリーグのレベルをまざまざと見せつけられた内容だった。


 試合の途中で帰る観客も多く、十七対四の大差で負けた試合後に水道橋駅で乗車して帰宅していた車内で、麗子さんに尋ねられた。


「貞春さん。最近、少し様子が変ですよ」

「そうですか?」


 車窓の外を過ぎていく建物をぼんやりと眺めながら、ガラスに反射する自分の顔は確かに虚ろな顔をしている。


「どこか上の空といいますか、一緒にいても常に考え事をしているように見えますし、そんな貞春さんを見ていると心配になってしまいます。やはり、先日うちに訪れた刑事さんとなにか関係してるんですか?」

「それは……」


 口を濁して、早く電車が新宿に到着しないか祈った。

 先日、仕事中に二人組の警官が三ノ輪モーターズを訪れた。浮浪児時代から公僕の類にいい思い出がない貞春は、自然と身構えて対応した。


 一人は痩せぎすで一人は小太り。対象的な体型の二人で、最初こそ平身低頭で自己紹介をしていたが目だけは笑っておらず、少しの挙動も見逃さないといった執念を感じた。


 一体何が彼らをそうさせるのか――理由は小太りの刑事が話をして知ることとなる。


「張曜月。この男の居場所を知っているか」


 そう言うと痩せぎすのほうが、警察手帳に挟んでいた一枚の写真を貞春にかざした。そこには確かに張らしき男が、数人の丸刈りの男たちに囲まれて建物の中に入っていく場面を切り取っていた。

 静止画とはいえ肩で風を切って歩いている様子がよくわかる。


「さあ、いったい誰でしょう」

「しらばっくれなくてもいい。アンタと張が以前上野で知り合い、つい最近再会したことは調べがついてんだ」

「では、いったい何の用で?」


 首から提げていたタオルで顔を拭きながら、脳裏には張が腕に打っていた注射器の存在を思い出して、表向き平静を保ったまま返事をした。こちらの内心を探るように、じっと両目を離さないでいた小太りが口を開く。

 

「最近、巷で覚醒剤が蔓延してるのはご存知で?」

「ええ、ちょっとした社会問題になっていることくらいは」

「〝ちょっと〟なんて可愛らしいもんじゃありませんよ。大人だけにとどまらず、年端も行かない少年少女の間に広がって、二次被害も多発してるんですから」

「待ってください。それが僕と何の関係があるというんですか」


 要領を得ない刑事の話しぶりに、苛立ちが募った貞春は語気を強めて問いただした。今思えば、こちらをイライラさせるのも、有用な情報を引き出そうという刑事の常とう手段の一つだったのかもしれないのに、まんまと乗せられてしまった貞春にもう一枚の写真を突きつけた。


 今度は十かそこらの少年が、剃り込み頭の男性から何かを受け取っている写真だった。少年の背中が邪魔をして、何を受け取っているかまでは判別がつかない。


「この刈り込み頭の男は、ヒロポンの売人だよ」

「こんな子供まで買ってるんですか?」


 新聞でヒロポンの乱用による収容者が激増していることは知っていたが、まさか子供が自分の意思でヒロポンに手を出しているとは写真を見るまで信じ難かった。


「このヒロポンはな、辿れば張曜月がばら撒いてるんだよ。奴は斎藤辰吉さいとうたつよしという偽名を名乗って、今や元残留孤児を中心にした愚連隊のナンバーワンに就いている」

「そんな……張が? 変な冗談を言わないでください」

「ところがどっこい。この間、上野警察署管内で張が起こした傷害事件の場に、アンタも居合わせてただろ。そこで張に切りつけられた人間が二人いて、一人はジョナサンという米兵だった」


 そんなことまで調べが及んでいたのか――。なにを言ってもシラを切れそうにないと判断して素直に認めた。


「はい。確かにいました」

「素直でよろしい。このジョナサンという男がどうも酒癖が悪いことで有名らしくてな。騒動をMPに知られることを恐れたジョナサンは、なにを思ったのか最寄りの派出所に駆け込んで助けを求めたわけだ。当然日本の警察が米兵のいざこざに関与できるはずもないことは知ってるよな」

「はい」

「だが、そこでやっこさんが白状ゲロしたのさ。張からヒロポンを大量に購入してることをな。どうやら売り物のヒロポンの代金を支払わずにバックレていたらしい。アホな男だが、それから張が根城にしていた事務所に家宅捜索ガサ入れに出向いたら出るわ出るわ、証拠の山が」


 証拠の差し押さえを写した写真を見せられ、捕まってもなお口を固く閉ざしていた部下の一人がようやく白状し、張の組織的犯罪が立証されたと告げる。


「もう一度聞く。本当に張の居場所を知らないのか。嘘をついていたら犯人隠匿罪でアンタもお縄だぞ」

「いえ、本当に知らないんです」


 知らないものは知らないと言うしかできなかった。仮に張の居場所を知っていたら、思い切り殴りに出向いているところだ。


「そうかい。とりあえず今日のところはこれくらいにしておきます。近所の目もあるでしょうからね」


 その言葉を聞いて周囲に視線を向けると、貞春が刑事に事情を聞かれている様子を近所の住民が遠巻きに眺め、なにやらこそこそと話し合っていた。


 去り際に、もしも張が姿を見せたらすぐに教えるようにと釘を差されてようやく解放されたが、翌日から貞春の周りには常に刑事がつきまとうようになった。

 毎日顔ぶれは変わるが、だれもが貞春と張の関係を疑ってかかっている目は共通している。


 習慣になりつつあった野球観戦を麗子さんと観戦した日の午後――上野駅に到着した電車から降りて会社に到着すると、背後から声をかけられ振り返る。


 そこにはずっと後をつけていたのか、例の如く小太りの刑事が夏を過ぎてるというのに、扇子せんすを仰いで立っていた。


「今日もお二人で野球観戦ですか。良いですねぇ、私も野球には煩い口でしてね、戦時中の敵性語排除にはうんざりしてました。アウトが〝だめ〟でストライクは〝よし〟ですか、ちゃんちゃらおかしいですよね」

「それで、今日はいったいなんの用ですか」


 刑事の世間話を無視して、不安げな顔をしていた麗子さんを先に行かせる。自分のせいで降りかかるトラブルを、他人に背負わせることなんて出来ない。


「すっかり嫌われたようですな。まあ仕事柄恨まれるのには慣れっこですがね」

「張は見つかったんですか」

「いえ、残念ながら。目下警察の総力をあげて捜査にあたってますが、どうやら警察の内部に内通者がいないとわからないような情報を仕入れてるみたいで、のらりくらりと身柄ガラを躱されるんですよ」


 それを聞いて、不謹慎ではあるが張ならやりかねないと思った。昔から逃げるのが得意で、後を追いかける自分は一度も追いつくことが出来ずじまいだった。


 ――お前はいったい、今何処にいるんだよ。


「今日はね、上の指示でアンタの監視は解除することとなったことを告げに来た。だがな、俺は今でもアンタが怪しいと踏んでいる。いずれにせよ上の指示には従わなくちゃならないのが刑事なんで、一応は挨拶に来たまでです」


 決して諦めているように思えない捨て台詞を残して、刑事は足早に遠ざかっていく。変わって社長が事務所から顔を出し、貞春を呼んだ。


「なんでしょうか」


 嫌な予感がしながらも事務所に足を踏み入れると、机に座っていた社長は給料袋を引き出しから出して机の上に置いた。


「これは」

「少ないけれど、これを持ってうちを辞めてもらえないかな」

「……それは、決定事項ということでよろしいですか」


 本当にすまない、と深々と頭を下げる社長の頭の頂点は、薄っすらと頭皮が透けて見えた。過度な疲労――貞春と張の関係が刑事の口から近所に伝わり、野焼きのように広がりを見せると風評被害が顕著に売り上げに響くようになっていた。


 正直、自分から辞職を申し込むことも考えていたが、いつまでもうちにいなさいと励ましてくれる社長に甘えている自分がいたかとは確かだった。


 庇い続けるのも限界というわけか――。

 クビを突きつけられても案外冷静でいる貞春は、差し出された封筒を受け取ると中身も見ずに懐にしまった。


 二階に上がって、自分の痕跡を残さぬよう丁寧に掃除をした。思いのほか少ない荷物に、自分は三ノ輪モーターズにずっと身を置くことを想定していなかったことに今更気付いた。


 一度だけ畳だけとなった部屋にお辞儀をして階下に降りると、目を真っ赤にして涙ぐむ麗子さんが、「ごめんなさい」と何度も謝罪をしながら抱きついてきた。


「こんな形になってしまったけど、私は今も貞春さんのことが好きよ」


 まっすぐと貞春の目を見て告げた言葉に、嘘偽りは感じない。ここでもし、〝僕も好きです〟と応えれば、それは麗子さんに対する嘘になると思った貞春は、密着していた身体を突き放して背中を向けた。


「どうか、別の幸せを見つけてください」


 社長に頭を下げて、お世話になった三ノ輪モーターズに別れを告げた貞春は、二度と帰ってくることはなかった。 

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