五
駆け足で会社に戻ったのだが、既に休憩時間を過ぎていて珍しく社長に叱られてしまった。
「あまりこういうことは言いたくないんだけれど、悪い風体の輩に来られるとちょっとね」
「すみません。以後気をつけます」
確かに嫌でも目立つアメ車に、堅気には見えない張が仕事場に訪れたりすれば、三ノ輪モーターズにとって良くない噂が広まるかもしれない。
近所に噂が広まってしまえば経営に影響が出ないとも言えず、社長の言ってることは間違いないと自分に言い聞かせて深々と頭を下げたのだが、無意識に作業着のズボンを強く握りしめている手に気がついた。
確かに張は善人とは言えないかもしれないが、それでも何も知らない人に悪く言われると自分を貶められている気がして不快感を感じる。
「お父さん。別に貞春さんが悪いけじゃないでしょ。文句があるんでしたら、あの男の人に言ってください」
麗子さんが助太刀に隣にやってくる。
「あれ?」
一人娘に反抗されて、居心地悪そうに社長が離れていくと二人きりになった工場で、麗子さんは春彦の体の匂いを嗅ぐように鼻を近づけてきた。
「えっと、春彦さんってあのあとどちらに行かれたんですか?」
「へ? えっと、あれから車で昼食を食べに行って、そうそう、上手い定食屋があってね、そこに行ってきたんだ」
「そうなんですか……なら気の所為かしら」
顔を遠ざけると、午後もがんばってくださいねと言い残して奥の事務所に消えていった。緊張したせいで額から滲み出た汗を拭き取る。
何度も作業着の臭いを自分で嗅いでみたが、車のオイルの臭いがするばかりでおかしなところは感じない。
米兵にちょっかいをかけられていた美智子さんを助け、上野まで走って逃げた貞春はそのあとに彼女を誘って、高麗軒を訪れた。
突然見知らぬ女性を連れてやってきたことに伊藤さんもまつ江さんもたいそう驚いていたが、事情を説明すると理解してくれて暖かく迎え入れてくれた。
まつ江さんは仕事の合間にやたらと美智子さんに話しかけて、やれ何処に住んでるのか、仕事はどうしてるのか、と矢継ぎ早に質問をぶつけていた。
美智子さんはというと、奥ゆかしいというか何というか、まるで草食動物のように見ていると可愛らしくもあるのだが、目を離せない危うさを秘めているように感じてた。庇護欲をかきたてられる言ってもいい。
お腹を鳴らしていた美智子さんに伊藤さんが注文にない大盛りの炒飯を作ってあげるも、出された皿になかなか手を付けようとしなかった。膝の上に置いた手はモンペをぎゅっと握りしめている。
「えっと……生まれは東北の方で、何か仕事がないかと出てきたばかりなのです。ですので仕事は、まだ見つかってません」
「なんだ、そうだったのかい」
「それで、あの……お恥ずかしい話なのですが、上野に到着するまでうたた寝をしている間に、その、荷物を全部盗まれてしまいまして、お支払いできるお金がないのです」
「そんな事があったのかい。それは災難だったわね。でも安心して、特別にタダにしてあげるから」
そっと耳打ちをすると、初めてレンゲに手を伸ばして小さな口に運んだ。
ほおっと、溜息をつくように何度も噛みしめて飲み込んでいく。一つ一つの動作から目が離せない――いったい自分はどうしてしまったんだ。戸惑っていると、まつ江から手招きされて店の外に出た。
「貞春。あんた麗子さんという人がありながら、なんて上玉連れてきたんだい。街娼時代でもあんな別嬪さんはそうそう見たことがないよ」
「なんというか、事の成り行きと言いますか……」
「頼むから女絡みでアタシを泣かせないでちょうだいよ。あ、あとあの子のことだけど、何やらきな臭くないかい? 地方から職を探して東京に来るって言ったって、今は誰もが仕事にあぶれてる時代だよ。それに、汽車の中で居眠りしてる間に荷物を盗まれたって? そんな危機感のない女が一人で東京に来ると思うかい」
「それは……聞いてて確かに思いました」
店内を見るとよほどお腹を空かしていただろうに、食べる所作はどこぞのお嬢様かと思ってしまうほど姿勢正しく食べていた。
だけど、人を欺こうとする意思は感じられないと訴えると、まつ江さんもそこは同意してくれた。
「そういえば、職を探してるって言ってましたよね。高麗軒で募集はしてないんですか?」
「そうねえ……。そろそろ人手が欲しいとは思っていたけど、あの子をウチで雇えと言うのかい」
「駄目ですか?」
しばらく目を瞑って考え事をしていたまつ江さんは、試用期間を設けて判断すると言った。
「いくら人手が欲しいとはいえ、使いもんにならなきゃ話にならないからね。その前にまずはお嬢ちゃんの意思を聞いてみないと」
店内に戻ると、シゲチーなら三杯は平らげるであろう時間で、まだ半分ほどしか食べ進めていなかった。食べながらでいいからと、まつ江さんから働く際の条件を提示されてた美智子さんは首を縦に振って即答した。
よほど嬉しかったのか、まだ食べ終えていない皿にレンゲを置くと立ち上がって頭を下げた。
「あの、今日からよろしくおねがいします」
「今日はまだいいよ。働いてもらうのはそうだね……明日からにしようか」
そこで厨房に立つ伊藤さんに話を振った。
「あんた、この子住むところもないらしいから、二階の空き部屋貸してもいいわよね」
「そんな、わざわざ部屋まで貸していただくなんて、畏れ多いです」
「何いってんの。あんたみたいな小娘を上野にほっぽりだしたら、何されるかわかったもんじゃないよ。ねえ、貞春」
「あ、うん。そうだね。僕も危ないと思う」
突然尋ねられて、大げさに同調していると不意に美智子さんと目があった。曇り一つない瞳に見つめられるだけで、体の奥底が熱を帯びて胸が苦しくなる。
「貞春さん。あの……本当にありがとうございました。貞春さんに手を引っ張ってもらったこと、一生忘れません」
「そんな、自分に出来ることをしたまでです。それじゃあ、そろそろ戻らないといけないんで」
名残惜しかったが、美智子さんに別れを告げて会社へと戻った。
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