「さっきの女。貞春の〝コレ〟か?」

「やめろよ。はしたない」


 ハンドルを握る張は、ちらと視線をよこしながら小指を立てて尋ねてきた。

 貞春の否定とも肯定ともつかない返事を聞き流して上機嫌に笑う。


「そう隠すな。せっかく恋愛も自由に楽しめるようになったんだ。とっくにやる事やってんだろ」

「張、あんまり下品な言い方はやめてくれ。彼女とはそんな関係じゃない」

「おいおい、春彦、まさか不能じゃあるまいな」


 そこまで驚かれるのも心外だが、やはり付き合っていて何もしないというのは普通ではないのか――顔が熱くなって窓ガラスの外に救いを求めるように視線をそらしたその時、路上で数人の米兵に絡まれている少女を見かけた。


 髪を二つに結んだおさげ髪に縦縞のモンペ姿で、四人の大男にかこまれ困り果てている様子で、どうしたのかと張に尋ねられている間にも少女ははぐんぐんと後方へ遠ざかる。


 敗戦後、米兵による暴行事件は後を絶たず、彼らを監督するMPも全ての事件を取り締まることは現実的に難しかった。いつまで経っても敗戦国の人間をモノのように扱う米兵が存在することを、警察は知りつつも見て見ぬふりを決め込んでいるのが実情である。


「悪い、来た道を戻ってくれないか」

「構わんが……ああ、そういうことか」


 バックミラーで何が起きているのか理解した張は、勢いよくハンドルを切った。

 体が大きく揺さぶられ、反対車線で走行していた出前中の自転車はブレーキが間に合わず、電柱に接触して派手に転倒していた。


 大声で何か叫んでいる配達人に、心のなかで謝罪をしている間にエンジンが唸り声をあげ、絡まれていた女性のもとに辿り着く。路上に止めてあったジープに無理やり引きずり込もうと、欲望の赴くままに嫌がる女性を手籠めにしようとする行為に腸が煮えくり返った。


「よりにもよって、相手は〝酔いどれジョンソン〟かよ」

「誰だよ、そいつ」

「常に大酒食らって、問題行動ばかり起こす不届き者だ。米兵専用のバーからも出入り禁止を食らってるって話で、とくにスケ絡みの問題は揉み消すのも限界だってダッジを譲ってくれた将校も嘆いていたな」

「そんな奴が、平気で外を闊歩かっぽしてるのかよ」

「それが敗戦国の運命さだめだ。それでどうするつもりだ」

「どうするって、助けるに決まってるじゃないか」


 別に張に手伝えと言うつもりはなかった。しかしこちらは徒手空拳なのに対し、あちらは腰にコルトM1917を携行している。それが四人で、腕力も勝負にならないだろう。戦力の彼我の差は、戦争末期の日本と米国を体現しているようで全く笑えない。


「はっきり言って、貞春一人が立ち向かったところで何一つ現実は変わらないぞ。それどころか自分の命を失うかもしれないんだぜ」

「それでも、俺は困ってる人を見殺しになんて出来ない」


 ドアノブに手をかけて半開きにすると、待てと張に手首を掴まれて身動きを封じられた。凄まじい力で、全力で振りほどこうとしてもうんともすんとも言わない。貞春より一回り太い腕には、注射痕がいくつも残っているのが見えた。


「何も止めようなどとは思ってない。俺もちょうどジョンソンに用があるんだよ」


 そう言うと、懐から何の変哲もない箱を取り出して蓋を開けた。中には数本の注射機が収められていて、そのうちの一本を取り出すと何の躊躇もなく腕に針を突き刺し中の液体を流し込んだ。


「ああ、これこれ」


すぐに目はとろけたように焦点が合わなくなり、恍惚の笑みを浮かべる――一言で言えば、尋常な様子ではなかった。


「張……お前、それってまさか」

「俺が突っ込んでとりあえず一人刺す。やつら襲うことには慣れてても、襲われることには慣れちゃいない。意識が俺に向いている隙に、あの嬢ちゃんを助けてやんな」


 貞春の問いかけを無視して、いつの間にか手にしていたジャックナイフを構えて血走った目で車外に飛び出していった。

 貞治も慌てて後をついていく。駆け寄っていく二人に気がついた一人が、張が手にしていたナイフに気がついて腰に手を伸ばすも、それより早く懐に飛び込んだ張は目にも止まらぬ速さでナイフを振るい米兵の太腿に刃を突き立てた。


 荒々しく引き抜くと、みるみるうちにズボンが赤く染まり、痛みに耐えかねた兵士は地面に倒れて玉のような汗を浮かべた。


 張を除いたその場にいた全員が、白昼堂々の凶行に一瞬気を取られたが、すぐに拳銃を引き抜いて構えた熊のような図体の男が、青白い顔で「DON't move」と声を上げる。張は血に濡れた刃を舐めながら、声を上げた大男に話しかける。


「Johnson. Did you think you could escape from me?」


 ジョンソンと名前を呼んだこと以外、何を話しているのか意味はまるでわからなかったが、張に対してやたら怯えていることだけはわかった。その証拠に幽霊でも見るかのように、青い目が泳いでいる。

 米兵相手に喧嘩かと、あたりは騒然となっていた。


「なにしてんだ。さっさと女を連れて逃げろッ」

「わ、わかった。さあ、逃げよう」


 張の声に我に返った貞春は、ただ推移を見守るしかできなかった女性の手を取って駆け出す。あまりの迫力に本来なすべきことを忘れてしまっていた。


 背後から早口で捲し立てる米兵の声が聴こえた。捕まったら終わりだと懸命に引っ張って、走って走って、追手が来ないことを確認して、住み慣れた上野にあと少しで着くところで初めて立ち止まって、肩で息をした。


 少女は蹲ると、苦しそうに咳き込んでいたので背中を擦ってあげると、小さく謝って顔を上げた。逃げるのに必死で顔もまともに見ていなかった貞春は、少女の透き通るような肌の白さと、汚れを知らないような澄んだ瞳に思わず見惚れてしまい、かける言葉を失った。

 

「あの、危ないところを助けてくれてありがとうございます」

「い、いえっ、正直僕一人じゃ、今頃酷い目にあったに違いありません」

「お連れの方は、大丈夫でしょうか」

「わからないです。だけど逃げ足は早いので、MPが駆けつける前に逃げてるはずですよ」


 もしも張がいなかったら――きっと少女を救い出すことはおろか、目の前で連れ去られたに違いない。何も考えずに一人突撃しようとした自分を止めてくれた張には礼を言わねばならないが、あそこまでする必要が果たしてあったのか。


 それに、車内で目にした注射器と腕に残っていた注射痕は、問いただすことができなかったが恐らく〝ヒロポン〟で違いない。戦時中から薬局で錠剤として販売されていたヒロポンは、倦怠感や眠気を取り除き、作業の効率を高める薬と宣伝されていた。


 体や精神を酷使するとき、徹夜作業のとき、疲労しているとき、そして二日酔いや乗り物酔いにも効果があるとされ、特攻隊員が高用量を服用していた話も聞いている。戦後になると日本国内に大量のヒロポンが流出し、敗戦の混乱で明日への希望を見いだせない人たちの間で急速に広がりを見せた。


 単なる医薬品というよりは嗜好品として大流行し、そのうち錠剤より効き目の強い注射薬が発売されると巷には副作用に苦しむ中毒者が増加して社会問題になりつつある。


「あの……大丈夫ですか?」

「はい。少し考え事をしてまして」


 よほど深刻な顔でいたのか、少女は心配そう声で貞春の顔を見つめていた。ふいに心臓のあたりが締め付けられるような痛みを覚えた。


「私は時任美智子ときとうみちこといいます。よろしければお名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「はあ、えっと、僕は生方貞春といいます。あの、よかったら少しお時間良いですか? この近くに行きつけの定食屋があるんです」


 自分で何言ってるんだと口にしたことを後悔した。出会ったばかりの女性に、それも助けた口実に誘うような真似をして穴があったら入りたいと赤面していると、聞き逃してしまいそうな声で「はい」と確かに頷いた。


 たったそれだけなのに、麗子さんには感じたことのない胸の高鳴りを感じて戸惑った。


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