三
九月も下旬にさしかかると、早朝はすっかり秋めいてきて薄い布団では心許なくなっていた。地下道で暮らしていた頃は、四方に風除けの壁があるだけで有り難かったというのに、辛酸を舐めさせられた時代を忘れて平和を余すことなく享受している。
階下から朝食の匂いが漂ってくると、起きぬけの腹が間抜けな音を鳴らしたので階段を降りて台所に向う。台所で味噌汁の味見をしていた麗子さんと目があい挨拶を交わす。
「おはようございます。麗子さん」
「おはようございます。貞春さん」
「いつ見ても新婚夫婦みたいで、微笑ましいじゃないか」
「もう、よしてよお父さん。あんまりからかうならご飯抜きにしますよ」
先に起きていた社長は、卓袱台の前に腰を下ろして新聞を開きながら、いつものごとく貞春たちをからかって楽しんでいた。奥さんは麗子さんが幼い頃に亡くなっていて、家事全般はいつも麗子さんが率先して行っている。
「僕も手伝いますよ」
「いえいえ、それには及びません。男子厨房に入らずと言うでしょ?」
「そんなのは悪しき習慣ですよ。男がやらない理由にはなりえません」
「言ってるそばから見せつけれてくれるじゃないか」
先月二人で映画を観に行ってから、麗子さんは宣言通りに好意を直球でぶつけるようになっていた。
内でも外でもそれは変わらず、どことなく他人行儀だった距離が縮まった貞春たちをみた社長は、いたく感激したようで二代目の目処がついたと近所に言い触らしている。
おかげで道を歩けば見知らぬ御婦人から、「三ツ輪モーターズの二代目じゃない」と既定路線とでもいうように声をかけられることがしばしばあった。
はっきり言って何不自由ない生活であることに間違いない。仕事にありつくことが出来ない人間なんて歩けばぶつかるほどみかける。少年は靴磨き、少女は花売をして糊口をしのいでいる有り様だ。
それに比べて、自分は黙っていれば周囲が囃し立てるように、社長の跡を継いで三ノ輪モーターズの二代目に就くことも夢ではないだろう。しかし、このまま流れに身を任せていいのだろうかと思い悩む自分もいる。
三輪自動車の下に潜り込んで、滴り落ちる汗と一緒に余計な雑念を拭い取る。
すると、社長が貞春の名前を呼んでいる声が聞こえて返事をした。
「なんですか? 社長」
背中を載せていた台車を滑らせ、顔だけ車体の外に出して用件を伺おうとすると、逆さまに映る不安気な顔の社長が立っていた。
「あの人、貞春くんの知人だって言ってるんだけど、本当かい?」
「知人ですか?」
体を起こすと工場の入口で、興味深そうに修理道具や
ハンチング帽を目深に被っているせいで顔はわからないが、只者でない雰囲気が漂っているのは確かだった。いつの間にか奥の事務所から麗子さんも心配そうに様子を見ているのを視界の隅に捉える。
裏稼業の人間と関わりを持った覚えはないが、右手にスパナを隠し持ち立ち上がると、来訪者が初めて帽子を取って見覚えのある顔が
「もしかして……張か!?」
「ようやく気がついたか。右手にそんな危ないモン持って、飛びかかってきたらどうしようかとおもったぜ。お前の居場所をだいぶ探す羽目になったんだからな」
「それは申し訳ないけど、張こそ、いったいこの数年どこに行ってたんだよ」
三年前に地下道で刈り込みに遭った貞春は、張によってギリギリのところを助けてもらった。その日からの二人は、仲が良好とは言えなかったかもしれないが、顔を合わせれば共にメシを食べる程度に親睦を深めていた。
貞春の想像を絶する少年期を歩んできた張は、その人格もまた複雑で度々犯罪を犯しては姿をくらます生活を送っていたのたが、ある日を堺に忽然と上野の街から姿を消してしまった。
親友を二人同時に失った貞春は張の安否も気にしていたものの、一度も姿を見かけることはなく時間だけが過ぎていった。
「えっと、貞春くんのお友達ってことでいいのかな?」
おずおずと話しかけてきた社長も、力仕事を生業にしているだけあってそこらの男性より体は鍛え上げられているが、数年ぶりに対峙した張の成長は目まぐるしく髪の色さえ違えば、憲兵と遜色のないガタイに成長していた。
置いてけぼりの社長に事情を掻い摘んで説明すると、一応は納得してくれたみたいで早めに休憩に入らせてもらえることになった。昼食には早いが、メシを食いに行こうと外へ連れ出されると、表には三ノ輪モーターズには縁のない緑色のアメ車が停まっていた。
以前は車に興味などなかったが、社長のもとで働くようになって以来自然と車種は覚えるようになっていたので、そな車の車種もおおよそ検討がつく。
「ダッジかよ。しかもこれ、去年出たばかりの
「さすが修理工場の社員なだけあって詳しいな。小金が入ったからMPの将校に譲ってもらったわけよ」
手のひらでダッシュボードを叩きながら自慢げに語る。アメ車の購入代金もそうだが、またぞろ危ない橋を渡っているんじゃないかと不安になりながらも助手席に乗り込もうとすると、工場から飛び出してきた麗子さんと視線が交わった。
「大丈夫ですから」
それだけ伝えると、貞春を載せたダッジは白煙を上げて凸凹の路面を走りだす。
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