七
消毒液の匂いが鼻を突く病院の廊下に、全力で駆ける靴底の音が反響する。
電話を聞きつけ営業時間中にも関わらず、急いでやってきた伊藤さんは息も絶え絶えに容態を訊ねてきた。とりあえずソファに座らせて、一般患者から隔離された部屋で今は眠りに落ちている美智子の様態を説明すると、壁を殴りつけ弱々しく呟いた。
「嫌な予感はしてたけど……まさか美智子ちゃんが結核だなんて。近くに結核の患者なんていなかったはずだろう」
「それが、結核菌はすぐに症状が出るわけでもないらしいんです。何年、何十年と発症しない人もいるようで、恐らくは結核で亡くなったお母様から感染してしまったのかもしれません」
「くそっ、神様ってやつはどうして善良な人間にばかり酷い仕打ちを与えるんだ」
数時間前に自宅で美智子が、夥しい量の鮮血を吐き出したため気が動転した貞春は、美智子を背負って夜中にも関わらず近くの診療所に駆け込んだ。
眠そうに対応した医師は美智子の様態を確認するやいなや、血相を変えて近隣の大学病院に一報を入れた。たらい回しにされる形で辿り着いた先で下された診断は、〝重度の結核〟であった。
「どうしてこんなに酷くなるまで放っていたんですか」
医師にきつく怒鳴られたときは返す言葉もなく、廊下で打ちひしがれていると遅れてやってきたまつ江さんから、「しゃんとおし!」と背中を強く叩かれて見が覚めた。
「あんたが落ち込んでどうするんだい。話は聞いたよ、美智子ちゃん結核なんだって? 近頃はあれ、なんだっけ……ストレイなんとか。あれが結核に効くんだろ?」
「ストレイプトマイシンですね。確かに効果的面らしいんですけど……」
「けど、なにさね」
「そもそも日本ではストレイプトマイシンは手に入れることが困難な薬みたいなんです。首尾よく都合がついても、一本一万円はくだらないと医者に告げられました」
日本では昭和二十年代に結核の特効薬として、ストレプトマイシンの輸入を切望されたが、極めて入手困難な薬の一つで密輸が横行するほどだった。
昭和二十四年には中国国営の海烈号から、大量のアメリカ製のストレプトマイシンを含む二〇万ドル相当といわれた密輸品が摘発される密輸事件まで発生するほどだった。
「一万。それなら、なんとか出せない額じゃないわよ。美智子ちゃんには支えてもらってるんですもの」
強気のまつ江さんに、追い打ちをかける言葉を続けなくてはならないことが、今は身が引き裂かれるほど悔しかった。
「それが、一回ではなく、複数回打たなくてはならないみたいなんです」
「一万円を、複数回……」
昭和二十五年当時の大卒初任給は平均四二三三円。牛乳は十一円九十銭、そばが十五円、コーヒーが一杯二十五円という物価の中で、一万という金額は庶民ではそう簡単に支払える額ではなかった。
それを定期的に複数回打たねばならないと知り、その場にいた三人は押し黙ってしまってしまった。翌日、陽光会に出掛ける予定があったがそんな気分にもなれず、一旦自宅に帰った貞春のもとに逢坂が現れた。
「やあ。姪との同棲生活はいかがかな」
「……急に何の用ですか。もう来ないでくださいと伝えたはずですが」
「そうかっかするな。今日は君にとって朗報を届けにきたんだからね」
そう話すと勝手に部屋の中に上がり、肩から掲げていたバックの中から無造作に親指ほどのガラス瓶を取り出し、絵具が散らばる作業台の上に置いた。
「なんですか、これは」
ラベルには英語でなにやら書かれていたが、あいにく意味を知ることはできない。
「それは君が喉から手が出るほど欲しがってるストレプトマイシンだよ。まだ数本ストックはある」
「なんで、あなたがこんな貴重なものを……。まさか密輸ですか?」
「さて、密輸品なのかどうかは君にとってたいした問題じゃないだろ。早く姪に打たせてやりたい、そうじゃないのかい?」
答えを誘導されている気がしたが、否定できずに頷いた。
「僕はね、今すぐにでもこの薬を今すぐにでも姪に打ってやりたいのが本音なんだよ。ただ、その前に君に課したい条件がある。いや、命令と言ったほうが正しいかな」
「なんですか。僕にできることなら何でも聞きますよ」
きっとろくなことにならない。わかってはいたが、今は逢坂の思い通りにするしかないと条件を尋ねた。
「もう二度と、姪には近寄るな。それを守りさえすれば、君の大好きな美智子は助かるんだよ。愛する者を救うためなら、自分の身が引き裂かれるくらいの覚悟は当然あるはずだろ?」
「それは……」
「なんだ、無理なのかい?」
君の想いはそんなものか――暗にそう言われているような気がした。
「少し、時間をください」
「ふん。仕方ないね。最後の情けで三日猶予を与えよう。そうこうしている間に様態は酷くなっていくばかりだけどね。では、また後日良い返事を待ってるよ」
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