昭和二十四年
一
昭和二四年五月七日になると、戦時下から販売統制下にあった酒類の販売が認められるようになった。同時に昭和二十二年七月に制定された悪しき〝飲食営業緊急措置令〟がようやく廃止となり、時代の変化を祝うように六月一日にキリンビールが、銀座、新宿、渋谷の二十一店舗のビアホールの営業を再開した。
カストリの値段がコップ一杯五十円、日雇い労働者の日当が二四〇円の時代に、ビール一杯が一三〇円から一五〇円と当時の物価にしてはかなり高額な値段設定だったにも関わらず、客席は連日満員御礼だったという。
伊藤さんは働いていた突如閉鎖に追い込まれ、一時は希望を失い荒れた時期もあったが、隣でいつもまつ江が叱咤し支えていた。いつしか二人は貞春の知らない間に逢瀬を重ね、春を迎えるとめでたく夫婦となると、ほどなくして緊急措置令が解除される。
それからすぐに一念発起し、主にまつ江さんが街娼時代に貯めていた貯金を切り崩して、上野の地に念願の定食屋『滋養軒』を開店することが決まり今日に至る。
念願の
滋養軒の開店祝いに駆けつけた常連客の前で、伊藤さんが選挙運動よろしく店頭で抱負を宣言していた。
「俺はこの店で、これからの日本の復興と成長を担う国民の胃袋を支えてやりたい。どんな奴がやってきても追い返すことなどせず、暖簾をくぐったやつは全員客として接っするつもりだ。いつ何時だって、心にも体にも滋養のあるメシを安くたらふく食わせてやる」
「血気盛んなのはいいけれど、仕事は待ってくれないんだからね。ちゃっちゃと厨房に立ちな」
既に尻に敷かれていた伊藤さんを店内に押し込んで、自分は貞春の元にやってきた。四年前は見上げていたまつ江さんだったが、今では立場が逆になっている。
「わざわざ工場を抜けてまで、うちの開店祝いに来てくれてありがとね」
「いえいえ。ちょうど休憩の時間でしたので。あの、これ開店祝いにどうぞ」
「これは?」
手渡した木箱の蓋を開けると、伊藤さんとまつ江さんの名前が彫られた万能包丁が収められているのを見て、たいそう驚いていた。刃に映る顔がオイル塗れだった事に気がついて、慌てて首から下げていたタオルで拭い取る。
「ずいぶんと立派な包丁ね。値段も相当張ったんじゃない?」
「これから長く使うものですから、末永く滋養軒が繁盛するようにと奮発しました」
感慨深げに包丁を眺めていたまつ江さんは、ありがとうと言って頭を下げた。その後ろには大きな文字で、暖簾に刺繍された滋養軒の文字が風を受ける帆のようにたなびいている。
伊藤さんが名付けた店名に、まつ江さんはもっと洒落た名前を考えていたみたいで当初はなかなか首を縦に振ろうとしなかったが、貞春は概ね賛成だった。
何より「滋養」という言葉が胸にすっと染み入る。
あの日以来、戻ってくることのない親友達に想いを馳せた。刈り込みにあったシゲチーとヒロヤンの消息はいまだにわからずじまいで、姿を消して一週間、一月、一年、そうこうしているうちに三年の月日が経っていた。
これだけ時間が経ってしまうと、新天地で新たな人生を送っていると考えるのが現実的なのかもしれない。もしも二人が滋養軒の暖簾を見たら、きっと自分のことのように喜んでくれるに違いない。それ以前に、伊藤さんがまつ江さんと結婚してことのほうが衝撃的だろうな――。
開店初日にふさわしい青空を仰ぎながら、目元をオイル塗れのタオルで目頭を強く擦った。
「いつか二人にも、滋養軒の料理を食べさせてあげたいわね」
「……はい。僕も微力ながら、お客さんに滋養軒の宣伝をしてどんどん店名を広めたいと思います」
いつかここにはいない二人のもとに滋養軒の名が届くように――願いを込めて口にした。誰もが当たり前のように平和を享受できる時代が訪れたら、ふらっと二人が暖簾をくぐってやってくる。そんな未来を思い描く。
上野の焼け野原を彷徨い歩いていた浮浪児の頃は、およそ考えもつかなかった未来に自分は立っている。そして、道はまだまだ長く、瓦礫の上に続いている。
「そうね。やるからには一番にならなくちゃ。二人の耳にも届くくらい有名な店になるように頑張らないと」
「その意気です。では、僕はこれで」
頭を下げて一礼すると、名残惜しそうな顔で引き止められた。
「もう帰っちゃうのかい? 昼時ならうちで食べていけばいいのに」
「すみません。実は先約がありまして」
「あ、もしかして麗子さんと
「まあ、そんなところです」
頭を掻きながら答えると、ニヤニヤしながら肩を叩かれた。
「やるじゃないか。雇われ先の社長の一人娘と
「やめてくださいよ。僕は一人前になるまで結婚なんて考えてないんですから」
現在勤めている三ノ輪モーターズは、主に自動車修理を生業にしている。自動車といっても二輪や三輪が殆どで、庶民の移動手段は専ら徒歩の時代なのだが、いずれ一家に一台、四輪自動車が当然の時代が来ると社長の健作さんは語っていた。
健作さんは大変気さくな性格で、困っている人間がいれば誰でも手を差し伸べる人情味溢れる人だった。定職を探し求めていた貞春は縁あって彼と知り合い、境遇を聞かせるうちに突然泣き出されて、「うちに来ないか」と誘われた次の日には現場で働くことになった。
名残惜しさもあったが、三人で暮らしていた木賃宿を離れて、現在は三ノ輪モーターズの二階にある一室を借りて住み込みとして働いてる。
仕事と住む場所を与えてくれた社長には大変感謝していた。ただ一点――一人娘の麗子さんを貰ってくれないかと、執拗に迫ってくるのだけは勘弁してもらいたい。
まだ十八の自分には結婚など考えられないと、遠回しに断っても今すぐに答えは出さなくてもいいと詰め寄られ、なし崩し的に付き合うようになっていた。
最初は健作さんの都合で付き合うことに申し訳無さを感じていたが、とうの麗子さんは満更でもなさそうで、いつも明るい笑顔を振りまいて貞春に接してくれる。
未だに女性に対して好意を抱くことがなく、男としてどうなんだろうかと思い悩む夜もあるが、二人でいると悪い気はせず休みになるとデートに出かけることもしばしばあった。
仕事に戻るまつ江さんと別れ、麗子さんと落ち合う予定の有楽町へと向かう道中、自分の身なりを確認すると作業着姿のままであることに気がつきさすがにこれではまずいと、急いで着替えに戻り改めて有楽町へ足早に向かう。
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