終戦から僅か三日後、関東尾津組組長の尾津喜之介が、「新宿より光あり」と宣言して復興の先駆けとなる新宿マーケットが誕生した。


 とき同じく上野でも闇市が誕生する。上野駅から御徒町に続く高架沿いは戦前まで〝小便横町〟と呼ばれていたように、民家や商店が軒を連ねていた。


 戦時中は空襲による火災の延焼を防ぐ目的で、建物の取り壊しが全国各地で盛んに行われていた。小便横町も近隣に変電所があったことから周辺の建物は軒並み取り壊され、空き地となっている。


 その空き地を利用して最初に商売を始めたのが、戦時中に不当な差別を受けていた在日外国人――主に朝鮮人や中国人だった。


 彼らは終戦を機に〝解放国民〟と位置づけられ、政府からの保証も一切なしで野に放たれることとなったのだが、統制物資の売買や違法行為の取締りの対象にはならず多くの日本人を嘲笑うかのように堂々と商いをすることができた。


 扱う商品は、どれも国が定めた公定価格の何十倍という法外な値段にもかかわらず、配給の遅配に困窮を極めていた人々で上野の闇市は連日賑わっていた。


 とうとう日本人も警察に摘発を覚悟の上で店を開くようになると、秋を迎える頃には山手線のガード沿いにゴザや木の板一枚の上に商品を並べた店が、ずらりと並ぶようになる。


 どこかから日本人と朝鮮人が口汚く罵り合う声が聴こえ、あちこちから腹の虫を刺激する匂いが漂ってきた。すいとん。蒸かし芋。おでん。なかには大陸の珍しい料理までずらりと並んでいる。


 そのなかに一際長い行列ができているかと思うと、みな〝栄養シチュー〟を求めて並んでいるようだった。名前だけ聞くと豪勢だと思うかもしれないが、その実態は進駐軍の残飯を丸ごと鍋にぶち込んで煮込んでいると貞春は耳にしたことがある。


 稀に煙草の吸殻や靴紐が入っていたり、なかにはが紛れていたりと、米軍の関係者から見ればおよそ人間が食べる代物ではないことは確かだった。


 それでも肉と野菜をどろどろに煮込んだ濃厚な香りは、敗戦で荒んでいた国民の原始的な食欲を刺激するに十分だった。

 貞春も一度だけ口にしたことがある。おかしな話だが、その一口で日本が米国に負けた理由がわかった気がした。それだけ衝撃的な味だったのを覚えている。


 警官の取締りを恐れ、早朝の時間帯から営業していた闇市には一円でも安い商品を探している人々でごった返していた。

 戦時中に蔓延していた行き場のない閉塞感を一気に解き放ったような活気で、アーケード街は異様な熱気に溢れている。


 連日氷点下の最低気温が続いていた上野の街には、大陸から引き揚げてきた傷痍しょうい軍人の姿を多く見かけた。

 片手片脚を失って松葉杖をつく者。ケロイド状にただれた顔半分を包帯で覆ってる者。両足の太腿ふとももから先をなくしてゴザの上でじっと座っている者。


「傷痍人者更生基金募集」「戦傷」「祈平和」と書かれた白い募金箱の傍らで、身動ぎ一つせず項垂れている者まで。なかには民間人でありながら軍人を装い、募金を募る不届き者まで続出していた。


 年が明けて迎えた一月――貞春、シゲチー、ヒロヤンの三人は、焚き火で暖を取りながら今朝発行された天皇の詔書を回し読みしていた。かじかむ手を焚き火で温めながら、特にヒロヤンは語気を荒らげて、読み終えたばかりの詔書を炎の中に投げ入れる。瞬く間に黒く燃え尽きた。


「クソったれ! 自分たちで勝手に始めた戦争だってのによ、今更『自分は神様ではありません。ごめんなさい』ってか? ふざけるのも大概にしろってんだ!」

「ヒロヤン。あんまり大声で言わないほうがいいよ」


 シゲチーに諭されると、ヒロヤンこと足立博文あだちひろふみは舌打ちをしながら、炭へと変わりはてた紙片を親の敵のように眺めつけていた。それでもなお怒りは収まらないようで終始イライラしている。


 昭和二十一年一月元旦――天皇を現人神あらひとがみとするのは架空の概念で、他の民族より優れているというのは根拠のないデタラメだと宣言する内容にヒロヤンが憤るのも無理はなかった。


 定春も学校では天皇陛下は現人神だと当然のように教え込まれてきたし、都電で皇居の前を通過するときには脱帽してお辞儀するのがしきたりだった。


 授業中に不敬だと見做されれば、「海軍精神注入棒」と名付けられた太い樫の棒で、思い切り尻を叩かれる時代に往復ビンタなど体罰のうちにも入らない。


「だったら、なんで戦争なんか始めたんだ。ありもしない神話と伝説を信じて、振り回された国民を馬鹿にしてるとしか思えない。何より許せないのは、戦争孤児なんざ最初ハナからいないみたいに扱いやがる大人たちの姿勢だ。自分たちの食い扶持だけはしっかりと確保して、あとは『めいめい勝手に品よく育て』ときたもんだ。そんな馬鹿な話があるかってんだよ」


 ヒロヤンは貞春の肩くらいの身長でありながら、通信簿はいずれも「優」ばかりだったらしい。

「いつかこの腐りきった日本を変えてやる」と、内に秘めた熱量は体格に似合わず活火山のようで、とても頼りがいのある男だった。


 元は大阪出身らしいが、疎開先で実家が大空襲に巻き込まれたことを知り飛んで帰ったものの、既には生家は消失して一家は行方不明になっていた。その後は東へ東へと移動しながら路上生活を送っているうちに、こうして貞春達と行動を共にしている。


「貞春。シゲチー。お前らはこの国の未来をどう考える」


 上昇気流に舞い上がる火の粉を見つめていると、ヒロヤンは唐突に尋ねてきた。


「うーん。難しいことはよくわからないけど、平和が一番だと思う」

「そうだな……。せめて僕たちみたいな飢えに苦しむ子供が一人もいない世の中になってはほしい。貞夫みたいな死は、もう二度とお目にかかりたくないからね」


 上野駅の地下道では、凍死者と餓死者が続出していた。昨晩まで隣で寝ていた者が翌朝冷たくなっていることもザラだった。

 死体に慣れていたせいで誰も驚かない。驚かないということは、死者をいたむ気持ちも薄れていくもので、せいぜい気付いた者が顔に新聞紙をかけてやるのが関の山。


 貞夫も新年を迎える数日前に、母親の名を延々と呟きながら二度と目を覚ますことはなかった。最後は極度の栄養失調で意識が混濁し、彼岸ひがん此岸しがんを行ったり来たりするような状態で、水すら受け付けないほどの衰弱ぶりだった。


「俺は将来必ず政治家になる。日本を戦争とは無縁の国に変えるつもりだ。貞春も自頭は悪くないんだから、一緒にこの腐りきった国を建て直さないか」 

「いやいや、今を生きるだけで精一杯だし、そんな壮大な夢は描けないよ。なにより今日生きるのに必死だしね。シゲチーはどうなの?」


 優等生のヒロヤンに認められると素直に嬉しい反面、〝本心〟を明かすのははばかられた。凡人である自分には過大な期待に感じ、シゲチーに話題を振って誤魔化す。


「うーん。実は……二人に話したことはなかったけど、将来野球選手になりたかったんだ」

「嘘だろ。その図体で野球選手ってもったいなさすぎだろ。どうせなら関取を目指したほうが確実じゃないか?」

「いや、シゲチーは巨漢相手に背中を見せて立ち会いから逃げ出すに決まってる」

「二人とも好き勝手言い過ぎだよ」


 気がつくと、三人は笑い合いながら話に花を咲かせていた。未だ敗戦のショックから立ち直れない日本に笑顔は少なく、貞春自身も他愛無い会話で笑ったのはいつ振りだろうかと振り返るも、記憶は大火に呑まれて迂闊に手を出そうものなら、目尻から涙となって溢れてしまいかねない。


「貞春……どうしたの? 具合でも悪い?」

「いや、大丈夫だよ。灰が目に入っただけだから」


 泣き顔を覗き込むシゲチーに、目尻をこすりながら答える。下手な言い訳にシゲチーもキクヤンも聞かぬふりを決め込んでくれたことに感謝した。

 まだ、昔を振り返るには早すぎる。






 

 

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