昭和二十一年①

 昭和二十一年二月十七日。飢えと寒さに苦しむ国民に、追い打ちをかける決定が日本政府から下された。

「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」の二本の矢である。


 日本銀行券預入令は、それまで流通していた日本銀行券――即ち日本円が指定の期日をもって効力を失うというものであり、公布の日から二週間後の二月二十二日を迎えると、十円以上の紙幣は所持していても尻を拭く紙屑かみくずにしかならないという悪魔のような法令だった。


 そのような事態を回避するには二週間以内に金融機関へと預金をしなくてはならず、殆どの国民は血相を変えて最寄りの銀行や郵便局に駆け込んだ。

 期日の二月二十二日を迎えると五円券までもが対象に追加されたのだが、前者の金融緊急措置令が新円切替と預金封鎖がセットになっていたこともあり、多くの国民から時の政府は顰蹙ひんしゅくをかうこととなった。


 金融緊急措置令の最大の問題点は、一旦預け入れた金を引き出すには制限がかかる点につきる。

 新たに発行された〝新券〟を引き出すのに世帯主は三百円、世帯員は一人当たり月額百円までしか引き落とせない制限がつけられたことで、数字上どれだけ預金残高があろうとも一定額以上は引き落とせないという事態が起こる。


 国に財産を没収されたに等しい法令に不平不満が出ないわけがなかった。昭和二十年の年末には物価がものすごい勢いでインフレーションを起こしていて、例えば米一升の公定価格が五十三円なのに対し、闇市では七十円。塩は一貫二円に対して四十円。砂糖に至っては一貫七十五銭が千円と、供給が追いつかない闇価格の上昇に多くの国民は翻弄され続けていた。


 遅々として進まない配給に頼っては生活することもままならず、法を犯していると知りつつも闇市を頼るしかない生活が続いて国民は疲弊しきっていた。


 三月に入っても寒さはなお続き、上野地下街に住む浮浪児の顔触れもだいぶ変わっていた。誰かが亡くなれば空いた場所に右も左もわからない新入りがやってくる。

 抜け出せる者から順に抜け出して日常生活に戻っていくのだが、地下街に住む人数は以前よりかなり増えていたように思える。


 疎開先で馴染めなかった者、復員したもの、地下道をねぐらに職を探している者、地下生活に慣れきった怠惰な者、雑多な連中で地下道は常に溢れかえっていた。


 社会の最底辺のような場所でもヒエラルキーは自然発生するもので、無法地帯にも無法地帯なりの規則ルールが存在していた。特に〝食べ物〟や〝お金〟に関する会話は余計ないさかいを生むからと禁句になっている。


「お腹が減った」と口にすれば何処から舌打ちが聴こえ、最悪顔も知らない人間に殴られることもあるので、口を滑らせないよう神経質にならざるを得ない。

 万が一、喋る場合にはよほどの小声か、隠語を用いて会話する必要があったほどだ。


 上野公園で焚火屋の焚火を借りていた春彦とシゲチーは、熱々に炙ったザリガニの身を頬張りながら暖を取っていた。


「不忍池もすっかり子供達が増えちゃったね。これまでみたいにザリガニも取れなくなるかも」

「あの勢いで獲ってたら、春には食べ尽くしてもおかしくないだろうな」


 口にする身は泥臭いうえに調味料もないが、ぷりぷりした食感だけは格別で度々冬眠中のザリガニを捕まえては三人で食べていた。この時期の不忍池は、食糧難から夏になると青々とした葉を茂らせる蓮田から水が抜かれ、足首まで浸かる高さの水田に様変わりしていた。


 一部の浮浪児の間では、不忍池はザリガニが捕まえられる場所だと知られていたのだが、あまりにも認知されすぎたせいで多くの浮浪児が乱獲するようになり、春までに食べ尽くされるのは目に見えていた。


 食わなければ死ぬ。生きるとは即ち食べる事。貞春を含め、改めて世間に強く思わせた記事が新聞の片隅に載っていた。その記事には、東大卒の東京高等学校教授が、「闇市に手を出すものは国賊だ」と訴えて、最後には餓死した内容が書かれていた。


「教育者たるもの、裏表があってはならない」として、配給と二坪からなる庭で取れる野菜だけで妻と六人の子供を養っていた男は、自分は僅かな食料のみで我慢し続けた結果が栄養失調による極度の飢餓――。


 国が飢餓に対する施策を講じないのであれば、自衛として闇物資に手を染めざるを得ないことを強く認識する一報だった。


「またザリガニ食ってんのかよ。そのうち手からハサミが生えても知らないぞ」


 物思いにふけっていると、私用で離れていたヒロヤンが姿を見せて、自分も炙っていたザリガニを一匹手にとると殻を剝き始めた。このザリガニが食べれなくなるのは、やはり少し名残惜しい。


「ヒロヤンってば僕たちに何も告げずにどこ行ってたの」

「俺か? 話してもいいが場所を変えよう。どこで聞き耳立ててるやつがいるかわかんないからな」

「おいおい。まさか危ないことに首突っ込んでるわけじゃないだろうな」


 甘い言葉に誘われて道を踏み外す子供を多く見かけた。ヒロヤンも悪い人間に騙されてやしないか勘ぐっていると、鼻で笑いながら一蹴された。


「馬鹿言うな。この時代に危なくなんかない橋があるっていうなら、俺に教えてくれよ」


 綺麗に食べ終えて残った殻を地面に投げ捨てたヒロヤンは、それ以上多くを語らないまま、「ついてこい」とその場を離れた。貞春とシゲチーもと後についていく。

 いつの間にか西に沈んでいく夕陽が燃えるように緋色に染まる。

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