二
上野公園の下の石垣の前には、日が昇っている間に靴磨きをしているシューシャインボーイたちが、ずらりと横一列に並んでいる。同じ場所でも夜になると派手な装いに身を包んだ女性たちが、等間隔に立ち並んですれ違う通行人に声をかけていた。
頭にスカーフ、咥え煙草、闇夜でも浮かぶ真っ赤な口紅をひいて人目を惹く彼女たちを、世間は〝パンパン〟と呼んでいる。まだその単語の意味を理解してなかった頃、ひろやんから〝街娼〟のことだと教わった時は、顔から湯気が出るほど恥ずかしかった。
終戦までは「男女七歳にして席をおなじゅうせず」という思想が世の中に浸透していて、国民学校の三年生以降は同年代の女子と触れ合う機会が殆どなかった。
異性との交際なんてもってのほかで、道端での立ち話でさえ近所の人に見られようものなら、白い目を向けられ咎められてしまう時代だった。
そんな時代に育ったためか貞春は女性に対して免疫がなく、パンパンと呼ばれる女性達が視界に映るだけで顔が熱くなり緊張してしまう。
太陽が西に沈んで群青色に変化していく空の下、本来の役目を果たすことなく立ち尽くしている街灯が点々と立つ不忍池を右手に歩いていくと、公園内の樹々の暗がりから睦み合う男女の声が風に乗って聴こえ、気不味くなって早足で通り過ぎた。
文京区三丁目湯島一帯は、空襲の被害が比較的軽微で肩を寄せ合うようにして古い木造家屋が残されている。家族の声と思しき声が漏れ聞こえる
急勾配の石段を登り切ると、学問の神様として有名な
境内を歩いていくヒロヤンは梅には目もくれず、一人さっさと本堂へと向かう。いい加減痺れを切らした貞春は、語気を強めて尋ねた。
「なあ、いい加減教えてくれよ。わざわざ僕達をこんなところまで連れてきて、いったいなにを見せたいって言うんだ。まさか道真公に参拝に来ただけなんてオチはないだろ」
「あいにく俺は神仏の類を信じてないもんでね。だけどここに用があるってのはほんとのことだ。俺はここに、とあるブツを隠してんだよ」
「とあるブツ?」
貞春の問いかけには答えぬまま境内を直進すると、正面に構える本堂の裏手に回って床下を覗き込んだ。おかしな行動をひとまず見守ることにすると、子供でも屈まないと入れない狭さの隙間に器用に潜り込んでいく。
何分経った頃だろうか――夜風に体が冷えてくしゃみを一つすると、頭に蜘蛛の巣を絡ませて四つん這いで出てきたヒロヤンの両手に、ミカン箱と同じくらいの大きさのダンボール箱が抱えられていた。
「これが二人に見せたかったブツだ」
音を立てて地面に落としたダンボールのフタを開けると、ポケットから貴重なライターを灯して中の〝ブツ〟の正体を二人の前に晒した。
「これは――」
薄明かりの中に揺らめくそれは、赤い箱に白字のアルファベットが刻印された箱だった。手にとって恐る恐るフタを開けると、雪のように白い真四角な角砂糖が、セロファンに覆われてぎっしりと隙間なく詰められている。
同様の箱がダンボールのなかに幾つも収められている。貞春はブツの正体に気がつくと、生唾を飲み込んでヒロヤンに問いかけた。
「おいおい、おだやかじゃないな。まさかとは思うけど……ヒロヤン〝倉庫破り〟でもしてきたんじゃないだろうな」
「え、ヒロヤン倉庫破りしたの!?」
「バカッ、大声出すなよ。そんなわけないだろ」
シゲチーの口を塞いで黙らせたヒロヤンの目は、月明かりが反射して妖しく光っているように見えた。
「だってこれ、砂糖でしょ」
「砂糖? ヒロヤン、本当に?」
シゲチーは声を裏返させながらヒロヤンに詰め寄った。
「お前ら勘違いするなよ。これは俺がとある
そう言うと包装を剥がした砂糖を二人にそれぞれ手渡す。恐る恐る口に含んだ次の瞬間――舌の上に広がる甘味が電流となって体中を駆け巡った。
久しく忘れていた甘みの衝撃に、自然と頬を涙が伝い、さらに一つ口に投げ入れて確信した。この砂糖が嘘偽りない本物の砂糖であることを。
「それにしても……これだけあったら、闇市で売れば一財産になるんじゃないか?」
「この一箱で四百八十グラムだ。それが四十箱。合計一万九千二百グラムになる」
「ええと、つまりこの一箱で……いくらになるの?」
「一箱五千百六十円ってところだな」
指折り数えるシゲチーにヒロヤンは淡々と答える。国によって厳しく統制されていた砂糖は、一貫三円七五銭が相場にであるにも関わらず闇価格では一貫千円に達する高級品で、一般庶民にとって高嶺の花だった。
この頃、
戦争には膨大な物資が必要となり、掻き集めるために相場を無視してまで予算の投入が行われた結果インフレも高まったのだが、無条件降伏を宣言した時点で実は日本側には十分な武器弾薬を含む大量の物資が残されていた。
軍部はこれらの物資が敗戦後に米軍側に没収されることを恐れ、食料を含む軍需物資を計画性もなしに処分した結果、大半の行方が分からずじまいとなっていたのである。
隠匿場所を知るかつて軍人だった人間が、仲間を集めて襲撃する事件が表沙汰にならない数を入れると相当数に昇っていて、世間は軍や財閥の隠退蔵物資摘発に躍起になっていた。
次第に隠匿物資を摘発することが正義の味方として最も輝かしい功績だとする風潮すら漂っていた。
「出処を話すことは出来ないが、実はこの他にまだ五箱隠してある」
「五箱だって!? すごいな、一軒家でも建てられるんじゃないか」
「まあな。これを元手にあの地下道を出て、人間らしい暮らしをしようぜ」
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