「はあ!? なんで俺が働かなくちゃいけないんだよ」

「だって、あんたこっちにいる間、暇なんでしょ? 祥子ちゃんと別れたって聞いてるわよ」

「な、なんで、そのことを……」

「私が祥子ちゃんから聞いてママに伝えたの。馬鹿だね、あんなにいい人なんてそうそういないのに」


 なんでお前が知ってるんだ――そう口にしようとした瞬間に茉莉は祥子の連絡先を知っていることを思い出した。

 もしも茉莉に別れたことを知られれば、家族ぐるみで付き合いのある母にの耳に伝わらないはずがない。


「そういうわけだから。あんたも滅多に実家に帰ってこないんだし、少しは家業を手伝ってくれたって罰は当たらないでしょ」

「はいはい……わかったよ。手伝えばいいんだろ、手伝えば」


 なし崩し的に雇用契約を交わされた翌日。飽きもせずに予備校へと向かう茉莉と別れた春彦は、労働意欲がまったくと言っていいほど上がらないまま瑞鳳苑へと向かった。


 タイミング悪く故障したエアコンの修理は、今年の猛暑が原因でひっきりなしに予約が立て込んでるため、早くても二週間は待つという宣告を受けた。


 怠惰な生活を送ってきた大学生が、まさか冷房無しで熱帯夜を堪える精神力を持ち合わせているわけもなく、リビングで寝泊まりするのと瑞鳳苑で寝泊まりするのを天秤にかけ、やむを得ず後者を選択した。


 状況に流されるがまま『瑞鳳苑』に辿り着くと、風に葉を揺らす楓の木が春彦を出迎えた。秋になると紅葉が美しく映える楓は、春から夏にかけて若々しい青葉を茂らせる。幹にしがみついていた蝉も苦しそうに鳴く猛暑の中、もくもくと箒を掃いているゲンさんの姿を見つけた。


「あ、あの……お久しぶりです」


 恐る恐る声をかけると、箒を掃いていた手がピタリと止まり、枯木の樹皮のような顔が振り返る。深いシワが縦横に走っていて、数百年を生きた妖怪を思わせる雰囲気を放っていた。

 

 以前はまだらだったはずの白髪が、完全に総白髪へと変化していたことに時の流れを感じる。春彦の顔をしばらく睨みつけると、「ボンか」と春彦自身忘れていた呼び名を口にした。


 ゲンさんの眼は年老いてもなお、以前と変わらず眼光が鋭いままで、悪さをする度に散々怒鳴られ殴られた記憶が嫌でも蘇る。


「聴いとるぞ。旅館の仕事を手伝うんやろ。とうとう跡を継ぐ気にでもなったんか」

「え? いやいや、今回はあくまで緊急避難と言いますか、夏休みのアルバイトだと思ってください」


 大袈裟に頭を振って否定すると、途端に不機嫌になり眉間にシワを寄せた。


「なんや、社長の急病に心入れ替えたんと違うか。まあええわ、ここで立ち話もなんやし、さっさと荷物置いて着替えてこい。あとこれな」


 あからさまに態度を変えると手にしていた箒を手渡たされた。


「……これは?」


 ぽかんと口を開けて受け取る。事前に両親から聞いていた話では、初日は仕事に慣れるために仲居さんについて一通りの仕事を見て学ぶはずだった。


「ええか、敷地内をくまなく掃除するんやで」

「いやでも、まだ荷物も置いてきてないですし……そもそも玄関掃除をやれなんて一言も聞いてないですよ?」

「ごちゃごちゃと煩いやっちゃな。ええか、口答えせんとさっさと荷物置いて戻ってこんかい。言うとくがボンの面倒はワシがみると女将さんには伝えてあるさかい、客商売は何たるかをこの機に叩き込んでやるから覚悟しときや」


 ゲンさんの言葉は誇張でもなんでもなく、制服に着替えてくると「遅い」と一喝され、本当に旅館の隅々まで掃き掃除をさせられた。猛暑であるにも関わらずだ。


 箒の構え一つとっても、「腰が入っていない」やら「真面目にやらんかい」と昭和の理不尽な根性論に殴られながら作業を続け、一通り与えられた仕事をこなした頃には旅館に到着して二時間が経過しようとしてた。


「たく、掃除もろくに任せられんとはの。ワシは別の仕事しとるから、ボンは次の掃除を頼むわ」

「あの……今の時間って〝中抜け〟ですよね? 俺も少し休みたいかなぁ、なんて」


 中抜けとは宿泊客を見送ってから夕方のミーティングが始まるまでの間の、いわば従業員にとって自由時間のようなものである。拘束時間が長くなることで人手が集まらない要因の一つにもなっているのだが、いずれにせよ働くしか道がない春彦にとって中抜けとは、空調の効いた室内でダラダラと過ごせる唯一の安心材料のはずだった。


「アホ言うな。そういうのは一人前に働けるようになってから言わんかい。そうやな、これからボンには蔵の掃除でもしてもらおか」

「蔵って、あの中庭のを、俺一人でですか?」


 瑞鳳苑の敷地内に、明治時代の頃に建てられた土壁造りの蔵が、今も現存している。太平洋戦争末期に神戸を襲った空襲にも堪え、壁を覆う白漆喰の一部に今も当時の痕跡が残っている。


 重厚な扉には成人男性の拳より大きな南京錠で施錠され、一点数百万からなる茶碗や掛け軸といった骨董品の数々が収められていると聞いたことがあるが、父も一度としてその錠前が開いているところを目にしたことはないので真偽のほどは定かではない。


 最後に扉を開けたのは、今年で御年九十二歳になる先々代――春彦の曽祖父で間違いないのだが、現在認知症が進行して特定施設に入居させられている。


 昔は家族に内緒でお小遣いをくれた優しい曽祖父は、今や家族の名前と顔も一致しない。蔵の中になにがあるか尋ねても、恐らく蔵の存在自体忘れていてもおかしくはない。

 

「社長言うとったで、『元気なうちに、いくら資産を残せるか把握しておきたい』てな」

「親父がそんな事を……」


 長年、家族よりも仕事が優先だった父の発言とは思えず、柄にもなく言葉に詰まっていると古めかしいデザインの鍵を突き出された。


「鍵は渡しとくから、終わったら声掛けてくれ」


 そう言い残すと踵を返し、猿のような軽やかな足取りで去っていった。

 

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