二
最後にボンと仕事が出来てよかったと、瑞鳳苑を後にするゲンさんを涙ぐみながら見送ると、これまで胸に抱えていた大きな荷物をおろした気分になった。
軽くなった肩を回しながら、「夜も頑張るぞ」と気合を入れた瞬間に背後から声をかけられ飛び上がった。
「働き出した頃とは別人のようですね」
「うわっ、ビックリした。休憩中に声をかけてくるなんて珍しいじゃん」
一人だと思っていたから声を出して気合を入れたというのに、まさか後ろで見られていたなんて思いもしなかった。
「この前、私に蔵で見つけた絵の写真を見せてくれたこと覚えてますか」
「もちろん。それがどうしたの?」
「私、どうにもあの絵のことが気になって、昼も晩もずっと考えていたんです。そうしたら思い出したんです」
制服の着物の裾からスマホを取り出すと、少し弄ってから画面を向けてきた。
画面にはセピア色の写真が映し出されていた。写真館で写したような立ち位置で、家族と思われる被写体がこちらを見ている。父親、兄、妹、春彦の視線が中央の椅子に腰掛けた女性で止まると――我が目を疑った。
「これって、蔵で見つかった油絵の女性じゃないか」
「そうなんです。ちなみに、椅子に座ってるのは私の曾祖母にあたる女性です」
「ちょっと待って……まさか」
「にわかに信じ難いですけど、そのまさかです。一緒に写ってるお祖母ちゃんに尋ねたらビンゴでした」
写真に映る女性は年代的に二十代後半だという。線が細く、子供が二人いるとは思えないほど貞春の目から見ても十分美人だった。
髪型は変わっていたものの、油絵に描かれていた女性と同一人物であることは間違いない。日向子ちゃんはこちらの動揺をまるで気にもせず、話を続けた。
「曾祖母は清峰さんの曽祖父である貞春さんと、戦後の上野でお付き合いしていたようです」
「曾祖父ちゃんと、日向子ちゃんの曾祖母ちゃんが? そんな奇跡みたいなことがあるのかよ」
きっと、宝くじの一等が当選するより遥かに低い確率が眼の前で起こったことに春彦は言葉を詰まらせた。ということは――あの絵を描いたのは曽祖父なのか? だとすると、なぜ完成した絵が美智子さんのもとではなく瑞鳳苑の蔵の中にしまいっぱなしになっていたのか――謎は尽きることがなかった。
最初はあくまで祥子の気を引くためだけに始めた油絵の作家探しが、意外な形で明らかにされようとしている。
一度も過去を語ることがなかった曽祖父が、一体どんな気持ちでこの絵を書き上げ、そして手放そうとしなかったのか。
「日向子ちゃんの曾祖母ちゃんって、まだ元気なの?」
「ええ。足腰が弱くなってはいますが、今は東京の施設で元気に過ごしてますよ」
「そっか。それなら一つ、お願いがあるんだけど――」
✽✽✽
それから一週間後、貞春は神戸を離れることになり東京方面ののぞみに乗車していた。何も知らずに帰省を終えていたら、流れる景色に侘びしさを感じることもなかっただろう。
「気を付けて返りなさいね」と、新神戸駅まで車で見送ってくれた母に、伝えられずにいた想いを車中から降りてドアが閉まる直前に伝えた。
「俺、頑張るから」
母は「何を?」とキョトンとした顔で言うもんだから、恥ずかしくなって色々だよとぶっきらぼうに言い残すと勢いよくドアが閉まった。
新横浜駅のホームに到着してホームに降り立つと、ジメッとした湿度が貞春を迎える。関西では聞き馴染みのないセミの鳴き声が、お帰りと言うようにけたたましく鳴いていた。
連絡通路を通ってJR横浜線に乗り換え、快速列車で二十分。東京と神奈川の県境に位置する町田駅に到着すると、さらにバスに乗り換え三十分。車窓の外は次第に民家の数より緑の割合の方が多くなっていく。
ようやく目的地のバス停に辿り着くと、東京とは思えないほどにゆったりとした時間が流れていた。そよぐ風もどこか涼しげで、道幅の広い道路を走る車の数も少なく音らしい音が聞こえない。せいぜいが風に揺れる竹林の葉の擦れる音くらいだ。
バスが走り去ると、手のひらの中のスマホが震えた。
――準備が出来たら連絡ちょうだい。
春彦の計画に付き合ってくれた祥子からのラインに、もうすぐ施設に着くとだけ簡潔に返すと脇に抱えていた荷物を落とさぬよう、慎重に抱え直して歩き出す。
日向子ちゃんにも協力してもらい、美智子さん事情を説明してもらった上で面会に訪れていた。その際に曽祖父がまだ存命であることを知って、電話口で涙していたと後になって聞かされて春彦の涙腺も緩んだ。
美智子さんは現在、息子夫婦の実家が近いという理由で東京都町田市郊外に建つ有料老人ホームに入所している。
予定の時間ぴったりに訪れると、母と同世代だと思われるスタッフの方が出迎えてくれた。頭を下げて今回の提案を受け入れてくれたことへの感謝を伝える。
「突然このような形で無理なお願いをして申し訳ありません」
「いえいえ。今回はご親族の方の許可も下りてますから。まさか美智子さんに誰にも明かしていなかった過去があったなんて思いもしませんでしたけど、あの年代の方々は現代人では想像もできない人生を歩んできたんですよね」
「だと思います。僕も曾祖父から直接戦後の話を聞いたことはありませんけど、同じ時代を生きた親友の方の話を聞く機会がありまして、ただ生きていくことがどれだけ大変なことだったのか、初めて知りました」
隅々まで清掃が行き届いた廊下を進んでいく。レクリエーションルームに通された春彦は、美智子さんが来るまでの間、他の入所者の中に混じって待つことになった。
曽祖父と同世代か、もしくは歳下だと思われる人生の先輩方が、思い思いの時間を過ごしている。たった一人で待っている時間に、若干の居心地の悪さを感じていると一人のお婆さんが杖を突きながら声をかけてきた。
「あんた、みん顔じゃな。面会にでも来たんかい」
「えっと、面会と言えば面会なんですけど、大事な用事があって伺いました」
「へえ。若者が来るなんて珍しいから、てっきりワタシを迎えに来た死神かと思ったよ」
見た目は随分と高齢だが、
「名前は何だい」
「清峰春彦です」
「春彦……。なるほどね、アンタの顔を見たらやけに懐かしさを感じたもんで、声を掛けたんだが、そうかい、いい名前だね。親に感謝しなきゃいけないよ」
そういうと気が済んだのか、ゆっくりと転回してその場を離れようとした。まだお婆さんの名前を聞いてないことに気がついて声をかけると、振り向いて言った。
「三ノ輪麗子。バツ二で彼氏募集中じゃ」
ブイサインをして麗子さんはシワクチャの顔を綻ばせていた。
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