現代④
一
春彦が実家に留まる時間も残りわずかとなっていた。〝やらされていた〟旅館の仕事を自ら率先してこなしていくうちに、従業員から頼りにされる機会が増えて、自ずとやりがいも感じるようになっていた。
それでようやく、両親が背負っていた気苦労の一旦に触れた気がして今では自分の至らなさに恥じるばかりだった。
ある日の午後、慌てて玄関に向かうとそこには田舎に帰ったはずのゲンさんが立っていた。手には大きな西瓜が入った網が握られている。
「ヨウ。久しぶりやな、ボン。ちゃんと仕事に精出しとるか」
「ゲンさんじゃないですか。なんでここに?」
「いやな、田舎に帰ったはええんが一度も瑞鳳苑の皆に挨拶出来ひんかったのが心残りでな、改めて別れの挨拶を告げに来たんや」
よいしょ、と上がり
年老いた身での親の看護は、相当気苦労が多いことが窺える。
「あら、ゲンさんじゃないですか。今日は一体どうしたんですか?」
誰にも今日瑞鳳苑に来ることを伝えていなかったらしく、奥から着物を着たまま小走りでやってきた母も春彦と同様に、ゲンさんの姿を見るなり驚いていた。
「サプライズや」と、似合わない単語を口にしてわざわざ持参してきた西瓜を貞春に手渡すと、最後に仕事を手伝ってもいいかと母に尋ねた。
もう辞めた人間に仕事を任せるのはどうかと思うが、単純に人出が増えることを喜んだ母はたいして悩みもせずに承諾した。
「まさか、ゲンさんとこうして仕事をする日が再び訪れるとは、夢にも思いませんでした」
「よく言うわ。最初はあれほど嫌がってたやないか」
懐かしさすら感じるやり取りが、大浴場の壁に反響する。デッキブラシを握るゲンさんの腕は、ブラシの柄と同じくらいに細い。瑞鳳苑を長年縁の下から支えてきたにしては頼りなくすら見える両腕に、春彦は近頃ようやく筋肉がついてきた自分の生白い腕と見比べた。
「なんや、随分と変わったなあ」
「へ? どこかおかしいですか?」
考え事をしながら石タイルを磨いていると、ゲンさんの感心するような声が春彦に投げかけられた。
以前は容赦なくデッキの柄で殴られたり水をかけられたりと理不尽な目に遭ってばかりだったが、そのような仕打ちは一度もない。
「いや、前はいかにも甘ちゃんな考えで仕事しとったが、今はしっかり自分に向き合って仕事しとるのがよくわかる。この短期間になにがあったんや」
「えっと……それはですね」
ゲンさんの言うとおり、これまでの自分は与えられた環境に慣れきっていて、自分で道を切り開く努力を完全に怠っていた。
蔵で見つけた絵から始まった一連の出来事を交えながら、自分の愚かさを伝えるとしばらく沈黙したあとに、デッキブラシからホースに持ち替えてタイルを水で流しながら語りだした。
洗剤の泡が排水口へ勢いよく流れていく。
「恥ずかしい話なんですけど、未だに自分がしたいことがハッキリとわからないんです。親父は勤めていた銀行を退職してまで瑞鳳苑の跡を継いだっていうじゃないですか。ハッキリ言って俺が同じような境遇だったら、社長業なんて重責背負えるかわからないし、そもそもそんな自信もないですし……」
前屈みの姿勢で浴槽の中を丹念に磨きながら、正直に思ったことを伝えた。
悩みを打ち明けるというのはこれほど恥ずかしいことなのか。意を決して伝えたというのに、ゲンさんは何故かおかしそうに笑っていた。仕事中に笑い声を上げるなんて初めての光景だった。
「何がおかしいんですか」
「ここだけの話、実は社長も大学生の頃はフラフラとしとったんだよ」
「親父がですか?」
「今からじゃ想像もできひんやろ。先代とは衝突してばっかやったし、不慮の病で先代が急逝してしまったときも、すんなり跡を継いだわけじゃないんやで」
何もかも初めて聞く内容で、今の父からはとても想像がつかなかった。
「今のボンみたいに小さいことで悩みに悩んどったよ。だけどな、いつの時代も強いのは女や。その頃付き合うとった女将――といってもまだ二人とも社会に出たばかりのヒヨッコやったけど、随分悩んどった社長に向かって、『私が女将になって支えるから二人で瑞鳳苑を盛り上げよう』って啖呵切ったんやで。そないなことよう言えんやろ。まあ、両家揉めに揉めてボンが生まれてもなお禍根は残ったさかい、順風満帆とは言えへんけどな」
「一度もそんな話、聞かされたことありませんでした。教えてくれてもよかったのに」
「そら言えへんやろ。本人からしたら自慢話にもならへんからな。よく言えば美談に聞こえるかもしれへんけど、ワシは散々二人が親類やら古株連中からよう陰口を叩かれとる光景を目にしていたもんやから、あえて誰かに語る真似はせんかったんや」
思えば、両親から「瑞鳳苑の跡を継げ」と直接言われたことは一度もなかった。
普通に考えれば長男である自分が後継者になるのは当然の成り行きで、実際清嶺家の長男が代々継いできた長い歴史がある。
仮に男子が生まれてこない場合は婿養子を社長の椅子に座らせるほど、後継ぎは重要視されていた。
大学を卒業目前に控えたこの年になるまで、ただの一度も話題にならなかった原因を、老舗旅館の跡取りを任せられるほどの才覚を持ち合わせていないと早々に諦められていたからかだと、勝手に思いこんでいた。
そのことをゲンさんに伝えると鼻で嗤いながら一蹴する。
「なんや、そんなことをウジウジ考えとったんかい。ええか、社長も女将も、なんだったら先代も先々代も、初めから卒なくこなせたわけあらへんで。なんべんもなんべんも失敗を繰り返して、汗水流して周囲から一目も二目も置かれるようになって、そんで初めて一人前と認められたんや」
春彦から見たらいずれも尊敬に値する人物だったが、そばで見てきたゲンさんだからこそ誰よりも苦労を知っていた。
それに比べて何も始めようとせず、勝手に限界を決めつけて世の中を知った気になっていたことに、穴があったら入りたいほどの羞恥心に襲われて頭から水を被って冷やした。
ゲンさんは笑わずに見てくれている。
「そういった苦労を知ってるさかい、ボンに跡を継いでもろうたら嬉しい反面、これまで続いてきた因襲を押し付けたくないと思うとると違うか」
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