三
それからしばらく待っていると、レクリエーションルームに貞春を案内してくれたスタッフの方が、車椅子を押しながら戻ってきた。
椅子の上にちょこんと座っていた人こそ、春彦が神戸からはるばる会いに来た美智子さんその人だった。
歳の割にボリュームのある白髪を綺麗にセットして、どうやらおめかしを済ませてきたらしい顔はファンデーションで白く塗られていた。
「お待たせしました。あまり長時間のお話は美智子さんが疲れてしまうので」
「はい。なるべく手短に伝えます」
美智子さんが到着するまでの間、貞春は祥子に事前に伝えていた計画を進めるようラインで連絡していた。
課題で忙しいことはわかっていたが、何度も頼み込んで、東京に向かう自分に代わって神戸の施設に入所している曽祖父のもとに向かってもらっていたのである。
再びラインが届く。
いつでも始められるよ。
それを見て、正面に座る美智子さんに自己紹介から始めた。
「初めまして。僕は清峰春彦と言います」
「まあ、日向子から聞いていたけど、あなたが……」
美智子さんは口に手を当てると、数秒間春彦から視線をそらすことなく黙っていた。
「貞春さんは、元気かしら?」
「幸いにも病とは無縁で、ですが認知症が進行してまして、現在は家族の顔も忘れてしまってます」
「そうなの……お互い、もう年ですもんね」
少し寂しそうな顔で、膝の上で組んだしわくちゃな手のひらを見つめていた。春彦は傍らに置いていてケースを持ち上げると、蓋を開けて中に収めていた絵を取り出す。
そっと美智子さんに手渡すと、キャンバスの中で過去の美智子さんが、幸せそうに微笑んでいた。
「この絵は、もしかして貞春さんが描いたのかしら?」
「曽祖父にこの絵の写真を見せて確認したら、きっとお覚えてたんでしょうね。言葉にはしなかったものの涙を流していました。七十年以上経っても忘れられなかったんだと思います」
それから春彦は、曽祖父の過去を余すことなく美智子さんに伝えた。長く住んでいた東京を離れたこと――神戸の三宮で働いていた時代に瑞鳳苑社長の一人娘である曾祖母と出会ったこと――戦後経営が傾いていた瑞鳳苑を支え、文字通り身を粉にして働いていたこと――語りたい話は山ほどあった。
まるで自分が隣りにいなかった時間を取り戻すように、口を挟むことなく聞き入っていた美智子さんは、自分の生い立ちも聞かせてくれた。
「私は、かつて貞春さんを心から愛していました。死ぬまでずっと添い遂げたい――。右も左も分からない小娘でしたが、若いなりに真剣にそう想っていたんです」
そこで大きく息を吸って、苦しそうに吐き出した。
「ですが、私の体は知らないうちに結核に蝕まれてました。気がついた時には医師も匙を投げてしまうほど容態が酷かった私に残された選択は、当時高価だった治療薬を使うか、それとも空気が綺麗な田舎に帰って静養するかの二択でした」
「失礼ですが、曽祖父はその時一体何をしていたんでしょうか」
春彦の問いに、美智子さんは小さくかぶりを振った。
「春彦さんが、私のために頭を下げてお金を工面してくれていたことは知ってました。貞春さんは人一倍優しかったから、きっと私のためなら何でもするに違いありません。目指していた画家の道を絶たれようが、私のことを助けようとするだろうと思った私は、愛する人の足手まといにだけはなりたくないと思って、別れの挨拶も告げぬまま私を連れ戻しに来た叔父に従い郷里に帰ったのです」
それから美智子さんの様態はじょじょに回復し、近所に住んでいた幼馴染の男性と結婚したという。
二人にそんな過去があったのかと、春彦は溢れてくる涙を堪えきれずに話を聞いていた。引き裂かれた二人が当時どれほど苦しんだことか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
「きっとこの絵は、曽祖父が去っていった美智子さんを想って描いた絵なんでしょうね」
なんの根拠もないけれど、それ以外に理由がないと思った。
「曽祖父は画家になるという夢を諦めました。ですが、心の何処かで美智子さんのことは諦めきれずにいたんだと思います。記憶の中でいつも笑っている美智子さんを描くことで、なんて言えばいいかわかりませんけど、離れ離れになってしまう美智子さんに向けた、精一杯の祈りが込められている気がしてならないんです」
事実は全て曽祖父の胸の中にある。
勝手に記憶の蓋を開けて
「その絵は、美智子さんに差し上げます」
「まあ……本当に、貰っていいの?」
「はい。きっと曾祖父もそれを望んでいるはずですから」
もしも自分が蔵を掃除しなければ、この絵に興味を持つことがなかったら、訪れることのなかった未来に立っている。
偶然といえばそれまでだけど、そのような雑な言葉でこの奇跡を一括りにしたくはない。きっと二人は、長い時を経て再会する運命だったに違いない。一枚のキャンバスに込められた祈りは、ようやくここに成就したのだから。
「実は、もう一つプレゼントがあるんです」
そう言って、祥子のスマホにテレビ電話を繋いだ。画面の向こうに天井が映ると、カメラの向きが変わって緊張が伝わる顔がアップで映り込んでいる。
美智子さんに自分のスマホを手渡すと、しばらくの間、言葉を忘れたように二人とももじもじとして、止まっていた時間が動き出す。
これ以上聞くのは野暮だと、席を立とうとした春彦の目に、真白なワンピースを着て微笑んでいる女性が見えた。
✽✽✽
曽祖父の葬儀は故人の意向に従い、身内と少数の関係者で執り行われた。参列者は皆押し並べて肩を震わし、中には斎藤博文と息子の姿もあった。
喪主を担っていた父は術後の経過もよく、無理はしないという約束のもと現場に顔を出すまでに回復していた。
「色々お疲れ様でした」
その声に振り返ると、喪服姿の日向子ちゃんが立っていた。美智子さんの写真を大事に胸に抱いている。曽祖父と再会を果たした美智子さんは、それまで元気だったのが嘘のように、翌月になると静かに息を引き取った。
それから二ヶ月後、医師も首を傾げるほど認知症の症状が一時的に改善していた曽祖父も、美智子さんの後を追うようにして息を引き取った。二人とも最期は苦しまずに逝けてなによりだった。
認知症患者は新しい記憶は覚えられなくても、過去の記憶は残ってる場合が多いと医師が語っていたことを思い出す。もしもあの油画が引き金となって、昔を思い出したのであれば、どれだけ嬉しいことか。
「あの時は色々と手伝ってくれてありがとね」
近くの自動販売機でホットコーヒーを二つ買う。一つを手渡すと、しばらく見つめて「これは彼女さんに渡してください」と言って突き返された。
直後に自分を呼ぶ声が聞こえて、寒そうに体を抱きすくめながら手を振っている祥子が、白い息を吐きながらやって来た。
「それでは、またいつかお会いしましょう」
「うん。それじゃあ、またね」
少しの未練もなさそうに火葬場をあとにする日向子ちゃんを見送ると、肩をたたかれ鋭い目の祥子に睨まれた。
「あの子が例の日向子ちゃんだっけ? 随分と可愛らしいじゃない。私と違って」
「何いってんだよ。祥子だってかわいいだろ」
「……なんか、春彦変わったよね。昔なら絶対そんな事言わなかったじゃん」
春彦の言葉に目を丸くして、そっぽを向いた祥子に突き返されたコーヒーを手渡す。無言で受け取るとプルタブを開けて、小さな口でちびちびと飲んでいた。
「あのさ、別に今日くらい泣いたっていいんだよ」
「なんだ、気遣ってくれてるのか? 初雪でも降りそうだな」
どれだけ口が悪かろうが、いざとなれば励ましてくれる優しさに心が暖かくなる。
思えば彼女の顔を、想いを、目を逸らさずに真正面から見つめ返したことが、付き合っていた頃に一度でもあっただろうか。
不器用な気遣いを態とらしく突っぱねて、飲み干した空き缶をゴミ箱の中に投げ入れる。
「泣くもんかよ。だって、二人とも幸せな最期を迎えることが出来たんだから」
「だよね。愛し合った二人がやっと再会できたんだもん。今頃天国で仲良くやってるんじゃないかしら」
「だといいけど、そうなるとお互いのパートナーが嫉妬しちゃうだろな」
「あ、それもそうだね」
他愛もない会話で笑いあった。これほど心安らかに向き合えたのはいつぶりだろうか。
空を見上げながら、祥子にずっと気になっていたことを聞いてみた。
「そういえばさ、あの〝アキラ〟って男のことだけど。今付き合ってるのか?」
「はあ? ちょっと待って。なんで私とアキラが付き合ってることになってるのよ」
「だって、両親のいない実家に泊まったり、一緒に出かけてたりしてたんだろ?」
「バカ言わないでよ。アキラは女だし。確かに背も高いし声も低めだし髪も短いけど、ただの友達だから」
まさかの真実を聞かされ、一体何を悩んでいたんだと肩を落としていると、首筋に冷たさを感じた。
「あ、これって初雪じゃない?」
春彦の悩みなど気にもとめず、初雪に夢中になっている祥子の横顔を見てホッとしている自分がいた。
「あのさ、祥子」
手の甲で目の縁を拭って、まっすぐ見つめながら告げた。
「俺たち、やり直さないか」
一世一代の告白に、祥子は考える間もなく「今は無理」と素っ気なく答える。
「そっか、そうだよな……って今は無理って言ったのか? てことは」
「少なくとも、一生離れ離れになんてならないよ」
はにかみながら口にした。
初雪はどこか暖かかった。
屋内に向かう背中を追って隣を歩く。
焦ることはない。希望は手の届く範囲にある。
この祈りが君に届きますように きょんきょん @kyosuke11920212
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