十二

「ちょっと待ってよ! キミは一体誰なんだ」


 手首を引っ張っていた人物に声を掛けた。格好はそれほど変わらない子供で、なんど話しかけても反応を示さず出口に向かって、器用に人波を掻い潜りながら突き進んでいく。


 怒号飛び交う地下街のトンネルの内部は、逃げ惑う人々が出口に向かうことで鮨詰め状態となり、子供の鳴き声がいたるところから聴こえた。


 誰かが倒れた拍子に貞春たちは危うく将棋倒しに巻き込まれそうになり、既のところで回避すると苦悶の表情を浮かべて倒れる女性と視線があった。


〈助けてください〉と、声なき声が聞こえた気がした。心のなかで何度も謝りながら、申し訳無さに唇を噛み締め地面を蹴る。


 背後では警官に捕まったと思われる浮浪児達の叫び声が、ひっきりなしにこだましていていた。いったい何人の警官を刈り込みに投入しているのかも想像できないが、大人たちが本気で地下道から浮浪児を排除しようとする強い意思をひしひしと感じる。


 一度でも捕まってしまえば、養育院という名の収容所に連行されることだけは間違いない。ヒロヤンとシゲチーは無事だろうか――。貞春の心配事はつきない。最大の懸念は、運動神経がいいとは言い難い二人の安否だった。


 二人は一緒にいるのか、それとも三人バラバラになってしまったのか、それも把握できない以上、ただ無事に逃げ切ってくれと天に祈るしかない。


 無事に出口から脱出を図り、喜んだのも束の間――待ち構えていたのは別働隊の警官たちだった。先を走っていた浮浪児は瞬く間に両腕を拘束され、反抗する子供には容赦なく警棒を振るい暴力で黙らせている。


 待機していたトラックの荷台に押し込まれる子供たちを、安全地帯から嘲り笑う大人たちの醜悪さに貞春は怒りに打ち震えた。最初から警官たちは、二つある出口の両方を堰き止めていたのだ。どうしてそんな単純な罠に気づかなかったのかと、遅すぎる後悔に苛まれた。


 ――これじゃあ、魚の追い込み漁と何ら変わらない。一方向から追い立てて、逃げてきた浮浪児を労せず一網打尽に捕まえるつもりだったんだ。


 こんなところで捕まるのかと、全身から力が抜け落ちて崩れ落ちそうになったそのとき、貞春を出口まで導いていた少年はおもむろに右手を腰に伸ばした。そこはやけに膨らんでいて、何をするんだと見守っていると手のひらには拳銃が握りしめられていることに気がついた。


「な、何をするつもりだよッ」

「闭上你的耳朵!」


 なにか叫んだ少年は、頭上に向けて発砲した。辺りに轟く銃声に大人も子供も関係なく、その場に蹲って硬直した隙を見逃さなかった。「走れ」と、振り返って口にしたとき、ようやく顔を見ることができたのだが――。


「あッ、お前は!」


 少年の顔は忘れもしない。いつぞや貞春たちが鞍馬組に拉致された時に現金を受け取っていた少年だった。何でお前がここにと、訴える貞春を無視して駆け出す。


 言いたいことが山ほどあったが、とにかくこの混沌とした状況を切り抜かないことには何も始まらない。何発も撃鉄を鳴らして駆け出した少年の後を、ついていくほかに選択肢はなかった。


 少年の足は、とにかく早かったの一言に尽きる。学校に通っていた頃は誰にも走力で負けたことがなかったのに、まるで相手にならずぐんぐんと距離を離れていく背中を必死に追いかけた。

 脱出は無理だと諦めかけた包囲網を抜け出すと、心臓が破れそうなほど鼓動が高鳴っていた。


「おい。助けてくれたことは礼を言うけど、いい加減名前くらい教えてくれたらどうだ」


 上野駅を離れると追手が来る気配もなく、息も絶え絶えに立ち止まった貞春は少年に名を尋ねた。伊藤さんは以前、彼を引き揚げ孤児ではないかと予想していたが、ゆっくりと振り向いた顔は確かに、どことなく異国の血を思わせる面立ちをしている。


 体は痩せているというより、引き締まっていると言ったほうが正しい。余程喧嘩を繰り返してきたのか、拳の傷跡は平らに潰れていた。切れ長の一重の瞼が細まると、貞春をジロリと睨んで片言の日本語で初めて返事を聞いた。


「オマエを助けたわけじゃない」

「助けたわけじゃないって、じゃあ、どうして僕を外まで連れ出したんだ」

「ただの気まぐれだ」


 妙な発音は、やはり大陸から渡ってきた者特有のなまりに聴こえる。引き揚げ孤児なのかと尋ねると、突然胸ぐらを掴まれて凄まじい力で引き寄せられた。真っ暗な瞳は、自らの領域を侵された虎の目をしていた。


「詮索するな。不愉快だ」


 恨みをこめるように強く吐き捨てると、荒々しく襟首を掴んでいた手を離してその場を離れようとした。今度は貞春が少年の手首を掴んで引き留める。


「待ってくれ。まだ、友達が二人無事に逃げられたのかわからないんだ。無理を承知で頼むけど、もう一度地下道についてきてくれないか?」

「オマエ、正気か? せっかく助けたのに戻ったら捕まるぞ」

「それでも行かなきゃならないんだ。僕たちは三人で生きていくって約束したんだから」


 少年が言っていることは正しい。貞春は運が良かっただけに過ぎず、少年が拳銃を威嚇射撃していなければ、今頃警官が敷いていた包囲網を突破することもできなかったことを重々理解している。


 再び姿を見せれば、今度こそ捕まって養育院に連行されるかもしれない。それでも二人の無事を確かめない限り、明日はやってこない気がした。


 しばらく貞春を睨んでいた少年は、溜息を吐くと黙って進路方向を変える。


「仲間が警官に捕まっていたら、その時は諦めろ」

「……わかった」


 二人して駆け足で現場に戻ると、未だ浮浪児の捕獲に時間がかかっているようで、数台のトラックはエンジンを始動させたまま現場に待機していた。


 その周りを地下道とは無縁のこざっぱりとした装いの野次馬たちが、見世物小屋気分で取り囲みながら警官をはやしたてていた。


「日本人は同朋にも容赦ない。虫酸が走る」

「君だって、日本人だろ」

「ふざけるな。次一緒にしたら許さないぞ」


 泣きじゃくりながら荷台に詰め込まれる子供の姿を、指差して嗤う日本人の姿を見た少年は、「日本鬼子リーベングイズ」と罵った。貞春の目から見ても、同じ日本人の血が流れてるとはにわかに信じ難い姿に奥歯を噛み締めた。


 どうか無事でいてくれと祈りながら、雑踏の中に面影を探したが二人の姿はどこにも見当たらない。もしかしたら上手いこと地下道から逃げ出し、今頃僕を探してるのではと思った矢先に、何処からかヒロヤンの声が聞こえた気がした。


 導かれるように声が聞こえた方へ歩みを進め、人混みを掻き分けて最前列に顔を出す。すると、トラックの荷台に載せられていく浮浪児の中に、必死に抵抗しては殴られているヒロヤンの姿が目に飛び込んできた。


「ヒロヤンッ! 今助けるから待ってて!」

「馬鹿野郎ッ、何しに来たんだ! お前だけでも早く逃げろッ、シゲチーも捕まっちまった!」


 声に気がついたヒロヤンは、腫れた顔を上げると必死の形相で叫んだ。最悪なことに、やはり二人共捕まっていた。どうにかして助けないと――気が急いて混乱していた貞春に、誰よりも頭の回転が速いヒロヤンは貞春の隣に立っていた少年に顔を向け、大声を張り上げた。


「そこのあんたッ、何処の誰かは知らないが、貞春を連れて今すぐここから離れてくれ!」

「何言ってるんだよ! 離れ離れになるなんて許さないぞッ」

「大丈夫だ。直ぐにシゲチーと合流して、上野に帰ってくる。それまでの辛抱だ」


 何人もの警官に体の自由を奪われながら、無理して作った笑顔で答えるヒロヤンの姿が滲んで見えた。貞春たちの存在に気がついた警官の一人が、「捕らえろ」と叫んで足音が迫ってくる。


「限界だ。逃げるぞ」


 無情にも踵を返して離れていく少年に、涙を押し殺して黙ってついていく。

 いつの間にか上野の街が緋色に染まっていた。禍々しいほどの夕暮れだった。

 

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