十一

 八月に入ると日本列島を覆っていた梅雨が明け、空に重くのしかかっていた雨雲は姿を消したものの上野の街を行き交う人々の顔は皆一様に暗く淀んでいた。


 弱者の味方であるべき警察は、GHQの指示に盲目的に従い、八月一日を迎えると本格的に闇市の〝浄化〟を開始したのだ。


 これまで闇市を仕切っていたテキヤを含む非合法の組織が、広く蔓延った状況は真に民主化を目指す日本にふさわしくないという言い分らしい。物資の横流しによって正規の流通が阻害されては安全面や衛生面にも問題が生じるといった理由から、闇市の規制は強化されていく。


 警察は法律を盾に無断で土地を使用している店を次々に閉鎖に追い込み、上野だけではなく全国で栄えていた闇市は、たった数年で姿を消していくこととなる。


 馴染みの店は殆どが閉店し、土地の所有者が確認できる店と警察が許可を出していたマーケットが辛うじて残りはしたが、闇市を追われた人々は再び食うに困る生活に逆戻りすることは、誰の目にも明らかだった。


 多くの国民は食うに困って仕方なく闇市で働いてるというのに、これまで散々国民に無茶な戦争への協力を求めていた国は一切の援助もなしに切り捨てていく。


 街のはずれに目を凝らせば、未だに瓦礫が堆積している光景が目につく。街を彷徨い歩く浮浪児の数もいっこうに減る兆しがない。間もなく終戦から一年が経つというのに、復興への道のりはまだまだ遠かった。


 貞春たちは、誰にも頼る術のない浮浪児に定期的にイモ飴や飴菓子を配り歩く活動をしていた。資金は当面は続けることにした担ぎ屋の売上金から捻出している。


 以前のように利益を追求して危ない橋を渡ることはせず、〝真っ当な〟ルートから仕入れて価格を抑えて卸すことで、豪華な暮らしは送れずとも慎ましく暮らしていけるだけの稼ぎは得ることができたので三人は十分だった。


 そこで得た売上の一部を、浮浪児に分け与えるイモ飴や飴菓子の購入代金に充てていた。すぐに三人の顔は浮浪児の間に知れ渡ることになり、何度か繰り返しているうちに実の兄のように慕ってくれる子どもたちも現れた。そのうちの一人が、飴を口にしながら、「今後、地下道の近くには立ち寄らないほうがいい」と話していた。


「近頃は浮浪児刈りが多いんだ。仲間も何人も連れてかれて戻ってこない。兄ちゃんたちも出来るだけ地下道付近には来ない方がいいよ」


 刈り込みの怖さは三人も知っていた。無用なトラブルは避けたかったし、普段は地下道付近に近づきすぎないように意識していたのだが、その日は忠告を忘れて地下道を訪れていた。


 食料を探し求めて外に出かける浮浪児がいる一方、自力で動くことが難しいほど体力を消耗した子供や、生きていく術をまだ知らない歳幼い子供たちもたくさんいる。


 そういった浮浪児たちの助けになればと地下道に足を伸ばしていたのだが、久しぶりに訪れた上野駅の地下道は相変わらず糞便の臭いが立ち込めていて、思わず顔しかめてしまった。


 なまじ生活水準が向上していた三人の嗅覚は、耐え難い臭気にしばらくの間使い物にならなくなり、口で呼吸をするほかなかった。地面には行く宛のない人達で埋め尽くされていて、後に続くシゲチーは歩くだけでも難儀していた。


 あまりに小綺麗な格好だと地下道では悪目立ちしまうため、あえて薄汚れた装いで訪れた三人を一瞥した浮浪者は、関心もなさそうに視線をそらす。


「さあ、お食べ」

「ありがとう。お兄ちゃん」


 子供を見つけては隠れて飴を渡し、奥へ奥へと進んでいく。すると、なにやら騒々しい声が壁に反響して、三人は揃って出口の方向に目を向けた。


 薄暗い照明の下、数人の浮浪児が血相を変えて駆けてきた。床で寝ている人もお構いなしに踏みつけながら、罵声を浴びせられても無視して貞春たちの横を通り過ぎていく。


 後に続いて駆け出す人が増えていき、つられて逃げ出す人の悲鳴がコンクリートの壁に反響して、地獄の底から聞こえる亡者の怨嗟に聞こえてならなかった。


 事態を飲み込めずに立ち尽くしていると、一人の浮浪児が突然しがみついてきた。誰かと思えば、先日地下道に近寄るなと警告していた子供だった。


「兄ちゃん、こんなところで何してんだよ!」

「飴を配りにやってきたんだけど、それより一体何の騒ぎだ」

「何って、刈り込みだよッ! 今回は警官の数がめちゃくちゃ多いんだ。兄ちゃんたちも早くここから逃げたほうがいいよ」


 そう言い残すと、慌てて人波の中に消えていった。「刈り込みだッ」誰かが叫ぶ声に、周囲は弾かれたように奥へと一目散に駆け出していく。


 同時に出口の方角からも怒声が響き渡り、瞬く間に地下道はパニックに陥った。貞春は人波に揉まれて身動きが取れずにいて、辺りを見回すと一緒にいたはずのヒロヤンとシゲチーの姿も見えない。


「シゲチー? ヒロヤン?」


 呼びかけても二人の声は聞こえない。我先にかけていく浮浪者に飲み込まれるようにして、貞春の体は意思とは無関係に奥へ奥へと流されていく。体を圧迫されて呼吸ももままならないなか、突然何者かに手首を捕まれて引き寄せられた。


 誰だと問いかける間もなく、人波を掻き分けて地下道から逃げ出すと、背後から警官のものだと思われる声が迫っていた。

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