十三

 普段は喧しく感じる闇市の賑わいが、何処か違う世界のように虚しさを覚える。すれ違う露店の店主に、二人は一緒じゃないのかと問われて、うまく言葉が出てこなかった貞春はあてもなく上野を彷徨い歩いていた。


 一人でいることが、これほど心細く、心許なく感じるのは初めてのことだった。


 いつも隣には二人がいるのが当たり前になっていて、誰かが欠けることなんで考えたこともない。時には知恵を絞って、時には困難を乗り越えて、焼け野原となった東京の地で共に過ごしてきた親友が消えてしまうと、よすがを失った自分という人間は月も隠れたの大海原に放り出されたように無力で、ちっぽけな存在であることを思い知らされる。


 別れ際に、ヒロヤンはシゲチーと合流して必ず戻ってくると言っていた。

 今はその言葉を信じて待つ以外に、散り散りに乱れた心を繋ぎ止めておくことはできなかった。こんなことなら自分も一緒に捕まってしまえば良かった、と距離を空けてついてくる少年に振り返る。


 いつの間にか少年の手には、似つかわしくない皮の財布が握られていた。


「どうしたんだよ、それ」

「金持ってそうな奴からスッた。いいカモだ」


 平然と答える少年に、呆れてものも言えなかった貞春は宙を舞う財布から視線をそらした。掏摸スリ自体はなんら珍しくもない犯罪だったが、ごく平然とやってのける人間は大人でもそういやしない。

 子供なら尚更だ。


 いったいどれだけの悪事に手を染めれば、呼吸をするように他人の財布を抜き取ることが出来るのだろうか。

 たとえ生きるためには仕方がないとしても、罪悪感を感じなくなってしまえば其の瞬間、人は人でなくなってしまう――貞春は自らをそうやって律してきたというのに。


「なんだオマエ、オレのことバカにしてんんのか」


 未だに自分を助けてくれた理由もわからず、そのくせ後をつけてくる少年は語気を荒らげながら理不尽な怒りを示した。


「別に。そうでもしなけりゃ生きていけなかったんだろ」

「その目でオレを見るな。勝手にオレを憐れむな。これは、氷の血が流れる日本人への復讐だ」


 ふくらはぎに少年が蹴飛ばした石コロが直撃する。


「随分とささやかな復讐だな。そんなに日本が嫌なら、帰ってこなけりゃ良かっただろ」

「日本になんて、帰ってきたくなかった。ただ、日本が戦争に負けて、向こうに居場所がなかった。進んで帰ってきたわけじゃない」


 たどたどしい日本語で、苛立ちを込めて吐き捨てると一軒の屋台に近づいて店主の老婆の油断している隙に、並んでいた商品の蜜柑を籠ごと奪って走り出した。


 その躊躇のなさと一瞬の出来事に目を奪われていると、遅れて盗まれた事に気がついた店主と目があった。


「そこの坊や、ここに並んでいた蜜柑を知らないかい?」

「い、いえ……」


 思わず知らないフリをしてしまい、必要のない罪悪感を感じながら視線を少年に向けると、既に背中が小さくなっていた。


 関わるとろくなことがないと思いつつ、店主に嘘をついてしまった謝罪の意味も込めて蜜柑を買うと、見えなくなった背中を追いかける。


 見つからなければそれでいい。戻ってくるのかも定かでない二人のことを考え続けるのは精神こころがすり減る。一時でもいいから別のことに意識を向けられたらと、迷い猫を探す気分で少年の姿を探していると、いつの間にか夏の虫が鳴く上野公園の敷地内に立ち入っていた。

 

 上野公園の西郷像の付近には、和装洋装問わず派手な原色の服に身を包んだ〝男娼〟が点々と立っている。やたらと肩幅が広がったり、身長がゆうに六尺を越えていたりするし、不自然な化粧を施した顔や体型は、弱々しい光を放つ街灯でも違和感を完全き隠しきれてはいない。


 貞春に熱い視線を送ってくる男娼から逃げるように奥へと進んでいくと、清水弁天堂の階段で一人蜜柑を食べている少年の姿を見つけた。向いた皮を境内に投げ捨てる少年と目があうと、これでとかというくらいに目を見開いていた。


「まさか、ずっとオレを探してたのか」

「そういうつもりじゃない。ただ、なんとなく聞きたいことがあってさ」


 買った蜜柑の一つを投げ渡すと、キャッチした少年は怪訝な顔をしててのひらの中の蜜柑を見つめていた。


「誰かに、食い物もらったのは初めてだ」

「そもそもお前が盗まなきゃ、買わずに済んだんだけどね」


 距離を空けて少年の隣に腰掛けた。今宵は満月で、境内の玉砂利が月光を白く照らしている。


「僕の名前は生方貞春。君の名前は?」

「……張だ。張葉月チャンヨウケツ。どうせしつこく聞いてくるだろうから先に言っておくが、オレは日本人と中国人の混血だ。海を渡る前に、日本名は満州に捨ててきた。あと自己紹介しなくてもオマエの名前は知ってる。瀬下に情報を売ったからな」

「あっ! やっぱり僕たちの後をつけていたのはお前だったんだな。なんであんなことしでかしたのか聞きたかったんだ」

「ふん。オマエたちみたいな仲良しこよしを見てるのが、腹立たしかったんだよ」


 姿の見えない不審者の正体は張だったようで、新橋の倉庫の在り処も一人で突き止めると、現在刑務所の中にいる瀬下に金と引き換えに情報を売ったという。

 反省の色も見せずに蜜柑を口の中に放り投げて張は話を進めた。


「で、他になにを聞きたい」

「何故、張はあのとき地下道にいて、僕を助けたんだ」

「そんなことか」


 興味もなさそうに夜空を見上げた。

 真っ白にはち切れそうなほど膨らんだ満月が夜空に浮かんでいる。


「今日地下道に一斉摘発が行われることは、事前に知っていた。男娼に入れ込んでる警官に、密告されたくなければ日取りを教えろと強請って聞いていたからな」

「警官を強請るって……恐喝で捕まったら、感化院か少年院行きだぞ」


 風紀を取り締まる側の警官が、率先して風紀を乱していることが公になれば、警察はただでさえない信用を地の底まで失墜させることに繋がるのは明白だった。とはいえそれをネタに公僕相手に恐喝をする同年代の子供がいるとは、にわかに信じ難い。


「あの場所にいたのは、たまたまオマエたちが地下道に入っていく瞬間を見かけたからだ。偽善を振りまいて、満たされない心の穴を塞ごうとしているオマエたちが、いざ刈り込みにあったらどんな本性を見せるか、特等席で見たくなったんだよ」


 露悪的に話してはいたものの、自分を助けた理由にはならないと反論すると、頭を掻いて「オレもしらない」とそっけなく答えた。


「オマエ、残留孤児がどんな目に遭ったか、知っているか」

「いや、詳しくは知らない」


「オレは、日本の移民政策で満州を訪れていた父と、満州で暮らしていた母の間に生まれた。物心つく頃には混血というだけで無用な差別に苦しんださ。集団で殴る蹴るは当たり前――向こうの悪ガキ、日本のチンピラよりタチが悪いからな。いつも俺は泣きながら顔を腫らして家に帰った。いよいよ日本軍が劣勢に立たされると、父は関東軍に召集されてソ連軍に殺された。残されたオレは母と二人で暮らすことになったが、当時大本営は満州の北部棄てて南へと後退していた。放棄した地域にはオレたち家族住んでたのにだ。わかるか? 民間人を守るはずの軍人は勝手に逃げて、武器を持たない一般人が迫りくるソ連軍や現地人からどんな扱いを受けたのかを」


 一気に捲し立てて話した張は、一呼吸置いてその後の惨状を説明した。

 突如襲いかかってくる暴漢に、為すすべもなく現地の日本人は略奪や性暴力を振るわれたという。


 女性は自身が標的にならないように泥で顔を汚すまでして難を逃れようとしたが、飢饉や伝染病の蔓延、越冬による凍死、更には集団自決や自死で、子供を含む日本人の命が多く奪われていく。


 半分日本人の血が流れている張も他人事ではなく、息子の身の安全を危惧した母の手で孤児院に引き取られることとなった。

 中国と日本の間で板挟みになっていた母は、別れ際に「誰のことも恨まないで」と張を胸に抱き寄せて泣いていたと、暗い顔で語っていた。


「日本が無条件降伏をした翌年になって、ようやく集団引き揚げが始まった。オレは第一陣で日本に帰ってきた。母から無くしてはならないと受け取っていた戸籍謄本やお守りが入った木綿の袋は、寝ている隙に誰かに盗まれていた。博多で降ろされて新しい孤児院に連れてかれたが、また混血であることを職員にバカにされて散々な目にあった。夕食は一人だけ抜き、陰湿なイジメ、まだ殴られたほうがマシだった。だからオレは脱走した。それから行くあてもなく、気がついたら東京に流れ着いてた」

「そんな、大変な思いをしてきたんだね。なのに、日本に帰ってこなければよかったのになんて、無神経な言葉を口にしてごめん」


 なぜだかわからないが、貞春は自然と零れ落ちてくる涙を堪えきれず、垢で黒く汚れた手を取って頭を下げた。張がどうして身の回りの全てを恨んでいたのか、ようやくその苦悩の一部を知ることができて、泣かずにはいられなかった。


「チッ、今日は柄にもなく話しすぎて疲れた。オレは寝床に帰るから、オマエもさっさと帰れよ」

「待ってよ。良かったら家に来ないか?」


 舌打ちをして立ち上がった張は、石段を一気に飛び降りると別れの挨拶もなく立ち去ろうとした。その背中に声をかけると、足を止めて振り返った。


「誰が泣き虫と一緒に寝てやるもんか」


 再び歩き出した張は、「蜜柑、ありがとな」とだけ言い残して闇の中に消えていった。

 

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