五
太平洋戦争以前の日本の美術界は、昭和十二年の支那事変前後から、国民の戦意高揚を目的として積極的に戦争画を画家に描くよう求める機会が増えていたという。
彼らのような画家の大半は、昭和十八年に発足した日本美術報国会に属していた。何故ならこの会派に属さない限り、絵描きとして絵画制作に必要な画材の配給が受けられなかったからである。
もとより戦争に反対を表明していた画家は皆、国家権力の弾圧に苦しみ、
そのような時代に、生方喜八郎は戦争に真正面から反対を表明し、日本美術報国会に属することなく数少ない同志と手を組むと、自宅に併設されたアトリエを拠点に画材を分け合いながら西洋画を描き続けた数少ない画家の一人だった。
時代は進み、太平洋戦争が勃発すると緒戦こそ有利だった日本だったが、次第に泥沼に
国の統制下にあった画材を個人レベルで入手するということは困難を極めたが、どうにか伝手を頼って油彩絵具を手に入れてはキャンバスに向かい続けたという。
いつか訪れる泰平の世を願いながら――。
太平洋戦争末期に差し掛かったある日、一心不乱に筆を走らせていた喜八郎のもとに赤紙――いわゆる召集令状がついに届いた。この時既に三十後半に差し掛かっていた年齢から察するに、どれだけ軍が
それから一月も立たずに南方の激戦地に送られ、戦果を上げるわけでとなく数多の戦友とともに海に沈んだと記録されている。
「ちなみにこれが遺作になった絵」
一通りの説明を受けて、久しぶりに日本史の授業を思い出していた春彦は、祥子が突き出したスマホの画面を茉奈とともに眺めた。
画面にでかでかと一人の女性が椅子に腰掛け、見る者に深い哀愁を感じさせる視線でじっと見つめている。モデルは喜八郎の妻で、戦死する四ヶ月前に描いた作品らしい。
一糸まとわぬ姿で、辛うじて下半身は重ねた手で覆われてはいたものの、上半身は垂れた乳房があらわになっていた。一見するとエロティシズムを感じる姿でありながら、そう感じさせないのはモデルの
モデルの背景は敢えて黒一色で塗りつぶされ、素人目に見て喜八郎は美しさよりも、現実をリアルに描こうとしているような気がしえ見えた。
「なんだか、暗い絵だね」
茉奈が漏らした率直な意見に春彦も頷く。
「印象はだいぶ違うけど、春彦が見つけた絵の人物の描き方と、似てるように思わない?」
「言われてみると、確かに似てるかもしれない。あの絵の女の子はもっと可愛く描かれてたけど、筆のタッチはそっくりだ」
「さんざん美術館に連れてっただけあって、少しは見る目あるじゃない」
人を小馬鹿にするような態度で、ルージュが薄っすらついたグラスの縁を指で拭き取りながら、実はね、と話を続ける。
「今度うちの大学で戦争絵画の個展を開催することになったの。東京藝大レベルになると所蔵している作品も多いんだけど、うちみたいな大学だと数も少なくて作品を借りることも多いんだけど、教授がどうしても生方喜八郎の作品を展示したいって
「あ、それで祥子姉はお兄ちゃんに実物を見せてくれって頼んだのか」
「御名答。厄介なことに春彦が私の〝元カレ〟だって教授に知られて、なんとか実物を見せてもらえないかって頼み込んできて喧しいのよ。自分で頼めばいいじゃんね」
溜息を吐きながら愚痴る祥子に、春彦は下手な愛想笑いを浮かべながら教授とやらの小間使いに来ただけかよと内心で吐露した。一応親に聞いてみると返すと、肩の荷が下りたのかほっと胸をなでおろした様子でバッグを肩にかけると、「ここは私が払うから」と言い残してレシートを手に取り立ち上がった。
要件が済んだらおさらばかよ――。女は別れた男の記憶を上書きするというが、他人行儀が過ぎないかとムキになり、せめてここは俺が払うとレシートを奪い返そうとするも、するりと
「気にしないで。元カレに余計な借りを作りたくないだけだから」
踵を返すと、これからバイトがあるからとだけ言い残して祥子は帰っていった。
遠ざかる背中を見送った茉奈は、「お兄ちゃん」と一言呟きながら脇腹を小突いてきた――憐憫に満ちた目を実の兄に向けながら。
「なんだよ」
「一等の宝くじが当選するくらいの確率は期待してたけど、祥子姉との復縁は無理そうだね。完全にお兄ちゃんのこと、〝過去の男〟扱いしてるよ」
「う……そうだよな」
「あ〜あ。これで祥子姉がお義姉さんになる未来は絶たれたか〜」
錆びた
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