美智子さんに約束した手前、中途半端な作品は許されないと意気込んで筆を取っては見たものの何をテーマにしようか最初の段階でかなり悩んだ。


 開店一周年記念に相応しい絵とは、一体何だろう――。自宅に帰ると安く手に入れたイーゼルに立てかけたキャンバスの前で腕を組み、空が白み始めるまで悩む日々が続いていたが、不思議と疲労感はなくむしろ充実した日々を送っていた。


「実は、まだ絵のモチーフが決まらないんです」


 ある日、美智子さんに壁にぶつかっていることを打ち明けると、しばらく考え込んで伊藤夫妻を描いてはどうかとの助言を受けた。


「だって、お二人の人柄があってこそ滋養軒がここまでの繁盛店になったんですもの。記念として描くには最適だと私は思いますよ。あ、素人がしゃしゃり出てごめんなさい」

「いえ、お店のことばかり考えて、お店を作るのは人であることを失念してました。すごく参考になりました」


 助言を受けたその日から、これまで絵筆を取っていなかった分のブランクを取り戻すため、睡眠時間を削って一つの作品を作り上げることに没頭した。父も類稀なる才能を有していながら、一度キャンバスと対峙すると時には睡眠不足で倒れるほど、集中していた。


 ただ問題がなかったわけではない。

 幼い頃に父の側で油絵を観察していたとはいえ、直接技術を教わったこともなければ立派な美術学校を出ているわけでもない。だからこそ、筆を進めれば進めるほど、記憶の中の父という理想が壁として立ちはだかり、苦悩する夜が続いた。


 かつて、父が画家になりたいと言った貞春にかけた言葉が蘇る。


「画家という生き物は、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた奴こそ、独自の世界観を創り上げるもんだ。もしも本気で画家を目指すのであれば、死んでしまいたいと思う苦境から絶対に逃げ出すな。それすら呑み込んで、作品に昇華しろ。それが画家という人間の生き方だ」


 父が残した言葉の意味を、初めて理解できた気がした。筆を置いて、八割ほど描き進んでいた絵を破り捨てて床に投げ捨てる。


 新しいキャンバスをイーゼルに掛けて自分の半生を思い返す――。辛かったことも楽しかったことも、悔しかったことも泣き出したかったことも。自分が見てきた喜怒哀楽のすべてを筆に乗せて、一気呵成に筆を進める。


 半月ほど経った頃、ようやく今自分に描ける最高の作品が出来上がった。

 自分の生きる道筋が、開けた瞬間だった。


       ✽✽✽


 筆を取って二週間後。正確には開店記念一年と一月になって、ようやく完成した二十号サイズの油絵を伊藤夫妻に手渡すことができた。


 まさか絵心があるなんて、と二人して驚く顔をしていたものだから、美智子さんの依頼を受けてよかったと心から思うことができた。


 自分が描いた作品をここまで喜んでもらえるなら――何処に飾ろうかと、楽しげに相談している二人を見て、意を決した貞春は本心を包み明かさずに伝えることにした。


「僕、実は昔から画家になりたかったんです」


 画家になりたい。そう思うに至るまで経緯を全て二人に伝えると、胸につかえていた石が取れたように軽くなった気がして隣に立つ美智子さんへ顔を向けると、にこりと微笑んで小さく頷いている。


 美智子さんには一足先に絵を披露していた。その際に「こんなにお上手なら〝画家〟を目指してみてはどうか」と勧められ、生まれてはじめて自分の夢を伝えた。


「そうか……。だが、いろいろと金がかかるんじゃないのか? 俺はそっち方面は門外漢だが、美術の学校にだってちゃんと通わなくちゃいけないだろ」

「四年生の美術系専門大学や二年制の専門学校に通う人がほとんどです。ですが僕には入学金も払うことは難しいので、洋画研究所に通おうと考えてます」


 世の中に洋画研究所なる団体が存在することを知ったのは、つい最近のことだった。その研究所の専門とするものによって毛色は変わるが、貞春が目をつけた陽光会という研究会は油彩画、水彩画、版画などの研究創作を奨励している。


 平たく言えば月に複数回の研究会を開いたり、展覧会に出展をしてプロの芸術家を目指す登竜門である。


 都内に複数の団体があるようで、調べた限りでは定期的に行われる作品研究会、各種実技講習会、個展への出展料など参加するためには多少のお金が必要となるみたいだが、それでも学校に通うことを考えれば桁違いに安上がりなのは間違いない。


 なにより入所には性別も年齢も関係なく、志を同じくするものが集まって切磋琢磨に励むところが気に入った。陽光会の所在地は上野がある台東区のお隣、文京区本郷と近場であったことも好材料となった。


 研究所とはなにか聞かれたことを答え、しばらく腕を組みながら聞いていた伊藤さんは、まだ開店前のがら空きな客席に腰を下ろした。


「それって、ようは本腰を入れて挑むって話だろ」

「はい。そのつもりです。あ、でもできる限りお二人に迷惑がかからないようにするつもりです。なるべく滋養軒で働きますので」


 貞春が抜けると言うことは、最少人数で回していた仕事が伊藤さん一人に伸し掛かることを意味している。ただでさえ人気店へと成長している滋養軒の厨房を、伊藤さんでも一人でこなせるとは到底思えなかった。


 そこでできる限り、創作とアルバイトの両立を図る努力をすると誓った貞春に、伊藤さんは面白くなさそうな顔で答えた。


「俺の立場では、賛成とは言えないな」

「そんな、何故ですか?」

「なんでもだ!」


 普段ろくに目も通さない朝刊を広げて、顔を隠すと会話を有耶無耶にしたまま口を固く閉ざしてしまった。その態度に苦言を呈したまつ江さんは、反対に賛成だと言ってくれた。


「ウチの旦那だって、別に貞春の夢にケチをつけてるわけじゃないわよ。どうせ跡継ぎにしたいとか勝手に目論んでたんだろうさ。誰にだって夢の一つや二つあることを忘れちゃってね」

「えっと……そうなんですか?」


 広げられた新聞がわずかに揺れていた。

 まつ江さんの指摘がズバリ的中したことを示している。


「ああそうだよ。まつ江が今年中には二号店を出したいって言っててな。俺の体は一つだし、同時に店を切り盛りできるほど器用じゃねえから、貞春に任せようかと思ってたんだよ」

「だから、それが勝手なのさ。自分の人生なんだから、恩義を返すとかそういう事に縛られる必要はないんだよ。『かけた恩は水に流せ、受けた恩は石に刻め』って言うじゃいか」


 言い合いでいつも負かされている伊藤さんは、黙って立ち上がると厨房に逃げこんで不貞腐れてしまった。申し訳無さを感じつつも、そこまで頼りにされていたことがわかって素直に嬉しく思えた。



 

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