昭和五十年六月。滋養軒はめでたく開店一周年を迎えた。貞春は簡単な調理を任されるようになり、かつての伊藤さんがそうであったように炒飯作りに悪戦苦闘をしている。


 日常は慌ただしく過ぎていき、朝日が顔を出していない時間から日付が変わっても働き続け、使う用途のない給金だけが貯まる一方だった。


 美智子さんとは流行していた洋画を観に行ったりしていたが、それ以上仲が深まるわけでもなく未だに手すら握ったことがない。二人の関係を、「見ていて肌が痒くなる」とまつ江さんは信じられないといった顔で語っていた。


 この時既に、貞治の心はしっかりと美智子さんに対する好意を認識していた。

 だからといって口にすることなど考えられず、間取り三畳のアパートに帰宅するたびに一人悶々と過ごす夜が続いている。


「いらっしゃい!」


 鍋を振るいながら、引き戸が開いた音に反射的に声を張り上げると、一人の女の子が立っていた。どこかで見覚えのあるような気がし、少女の後ろに立っていた両親と視線が合うと深々と頭を下げられた。


「あ! やっぱりクレヨンのお兄ちゃんだっ」


 少女は貞春の顔を見るなり、満面の笑顔で声を張り上げた。クレヨンと言う単語に、それまで記憶の底に沈んでいた過去が蘇る。


「君は、確か闇市でクレヨンをあげた子だね」

「うん。わたしの名前はツネだよ。あの時はありがとうね」

「そっか、大きくなったんだね。お父さんもお母さんも、良かったら席空いてますので、どうぞおかけください」


 こんな再会もあるんだな、とかつて闇市で働いていた頃に出逢った少女との再会に胸が暖かくなった。


 目の前のカウンター席が空いていたので両親に勧めるも、すぐに上野を出発しなければならないらしく、やんわりと断られてしまった。


 どうやら少女の家族は東京から関西へ引っ越すことが決まり、貞春が滋養軒で働いているところを目撃した少女が親を連れてクレヨンを貰ったお礼を伝えに店までやって来たらしい。


「これね、私が描いた絵なの」


 肩から斜めに提げていた鞄の中から、丸めた画用紙を取り出して貞春に差し出してきた。広げてみると、余白がないくらいに色とりどりの鳥や蝶や花が描かれ、家族と思われる三人が手を繋いで微笑んでいた。


 よく見ると、白衣を着た貞春と思しき男性も隅に描かれている。稚拙だが、平和を望む気持ちがよく表現されている絵だなと素直に感心していると、この絵をあげると差し出された。


「いいのかい? 大事な絵なんだろ」

「いいの。あのね、お兄ちゃんから貰った絵なんだけど、今も大事に取ってあるの」

「そっか、ありがとね。僕もこの絵を大事にするよ」


 満足したのか、大きく手を振って去っていく少女を見送り店内に戻ると、美智子さんに絵が得意なのかと尋ねられた。


「実は父が画家だったもので、たぶんその影響が強いんだと思います」

「そうだったんですか。実は、折り入って相談したいことがありまして」

「相談ですか? ええ、構いませんよ」

「よかった。では、次の休日にお時間を頂いてもよろしいですか?」


 伊藤さんでもなく、まつ江さんでもなく、自分に持ちかけてくる相談とはなんだろうか。内容はともかく頼られているようで悪い気はしなかった。


 一週間後に美智子さんの提案で、一度は訪れてみたかったという浅草花屋敷に出掛けて楽しんだいた。

 江戸時代末期に牡丹と菊細工を主とした花園として誕生した花屋敷は、明治時代に遊戯施設を置かれ、その後に震災や戦禍によって閉園を余儀なくされた時代を経て昭和二四年に遊園地として再建した。


 とはいっても当初はビックリハウス、豆汽車、射的、鬼退治等、規模は小さかったが、入園料が無料ということもあり娯楽に飢えた子供を連れている家族が多く訪れている。


 貞春も子供の頃に父に連れてきてもらったことがあり、久しぶりに訪れた花屋敷で一通り遊び回った二人は、ベンチで休憩をしながら心地よい風に打たれていた。


 眼の前を腰より低い身長の子どもたちが、無邪気な笑顔で通り過ぎていく。まるで戦争を知らない世界のように、穏やかな時間が流れていた。


 六月に朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争は、かつて鬼畜米兵と日本国中で叫んでいた米軍にたいして補給物資の支援、戦車や戦闘機の修理請負などを日本が受け入れ、その結果輸出や貿易外受取が増加したことであれほど苦しんだ戦争によって、奇しくも戦争特需を受ける形となっていった。


 特需景気は一年足らずで終わるが、潤沢になった民間資金はビル建設などの設備投資に向けられ、電源開発促進法の制定によりダム建設が盛んになるなど公共工事も急速に増加していった。


 この好景気によって日本経済が第二次世界大戦前の水準まで回復し、後に高度経済成長期への足がかりとなる神武景気へと発展していく前段階にあった。


「弟も、連れてきたかったな」

「え、貞春さんってご兄弟がいらっしゃったんですか?」


 ふと漏らしてしまった一言に、美智子さんが興味を示す。


「はい。ですが戦後間もなく上野で……」


 自ら進んで過去を語ることは少なかった。いい加減癒えたと思った傷も、吐露することで容易にかさぶたが剥がれ落ちて化膿した傷口があらわになってしまうから。


 だけど美智子さんを前にすると、自分のことを知ってもらいたいという欲求が芽吹いていつの間にか浮浪児時代に経験したすべてを語っていた。


 もしかしたら嫌われてしまう――そんな可能性に怯えていた貞治を、黙って話を聞き終えた美智子さんは貞春の手を取ると、力いっぱい握りしめてきた。


「誰だって、人に言えないことの一つや二つはあると思います。だけど、心のうちに秘めた過去を打ち明けることができる人は、なかなかいないと思います。私は全て教えてくれた貞春さんのことを尊敬します」

「こんな、僕をですか?」

「はい。私だって、皆さんにお伝えしていないことがありますもの」

「美智子さんにも、言いにくい過去があるんですか?」


 誰からみても真面目で嘘がつけないと思われがちな美智子さんが、自ら隠し事をしていると明かしたことに貞春は少なからず驚かされた。同時に、美智子さんをまつ江さんに紹介した際に言われた言葉を思い出すも曖昧な微笑みを返すだけで、それ以上話題が膨らむことはなかった。


「話がだいぶそれてしまいましたね。相談したいことなんですけど、実は貞春さんに絵を描いていただきたいと思いまして」

「僕に、絵を?」


 思いがけない申し出に肩透かしを食らった気分だった。


「はい。滋養軒の開店一周年記念に、なにかプレゼントを差し上げたいと考えていたのですが、なかなか妙案が思い浮かばなくて……。悩んでいたときに貞春さんが絵が上手であることを知りまして、よかったらお店の絵を描いていただけないかと思ったんですが、いかがでしょうか?」

「僕なんかで良ければ構いませんけど、画材によってはなかなか手に入りにくいですよ?」

「それなら気にしないでください。貞春さんへのプレゼントの意味もこめて、絵具屋さんで買ってきましたから」


 鞄の中から取り出したのは、父もかつて愛用していた油絵具として有名なクサカベ絵具のものだった。


「こんな高価なものを……本当に良いんですか?」


 美智子さんは微笑みながら頷いた。

 戦後五年を経ても、原材料は未だ乏しくまだまだ市場に出回っている量は限られているはず。にも関わらず画家でもない美智子さんが手に入れられたことは奇跡に近い。


 値段も決して安くない貴重な絵具を手渡された貞春は、蓋を開けて中に収められているチューブを手に取った。不思議と、キャンバスに向かう父の姿が脳裏に浮かんだ。


「そうだった。すっかり忘れていたよ。僕は父のような画家になりたかったんだ」

「そうだったんですか? 夢を忘れてしまうほど、生きるのが大変だったんでしょうね……」


 そうだ。生きることに必死だった過去の自分。生活の基盤を作る日々に明け暮れている現在の自分。

 自分の夢なんて抱く暇もなかった。だけど、ようやく思い出した。

 自分は、父のような画家になりたかったんだと。

 絵具をもとに戻して、美智子さんに依頼を受けることを約束した。


「本当ですか? 嬉しいです!」


 弾ける笑顔が見れて、心からうれしかった。今この瞬間をキャンバスに残しておきたいほどに。

 

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