三
古くは日本書紀にも登場する有馬温泉の歴史は千四年前に遡る。春彦の実家は有馬温泉の一画で、四百年前から「
旅行ガイドブックに度々掲載されたこともあり、サイトではそれなりの星と口コミを獲得していて、常連客から人気の旅館であった。観光業全体に言えることだが、長期休暇や観光シーズンともなると瑞鳳苑で働く従業員は昼夜問わず忙殺され、両親も常に仕事に追われていた。
従業員数は季節に応じて若干の増減こそあったものの、平均二十人ほどで回していた気がする。幼い頃は春彦も自分に出来ることを手伝っていたが、親父もお袋も休暇も取らずに働き続けていたと記憶している。
近年は諸外国からの外国人観光客の割合も増加していので、夏休みに家族旅行に出かけることは勿論、実家を出る前も夕飯を家族でともにする機会は少なかった。
作り置きの夕飯を茉莉と二人きりで食べる夜を、淋しいと感じることも多々あった。
元は東京で銀行勤めだった堅物の親父は、先代の死をきっかけに地元に戻ってくると二十四歳という若さで瑞鳳苑を継ぐ決心をしたという。同じ職場で付き合っていたお袋と、こんな環境に嫁いでさぞ大変であったことに違いない。
幼い頃から旅館経営の裏側ばかり見ていた春彦は、若かりし頃の父が感じていたように絶対に、いつしか旅館の跡は絶対に継がないと心に決めていた。
心臓病を抱えていた先代とは違い、父は健康診断も問題ないようだったし、しばらくは社長業に専念できるだろうと踏んでいた。その間に跡継ぎを見つけるなりするだろうと目論んでいたのだが、帰省して二日後の夜――ようやく顔を合わせた父親の口から、とんでもない爆弾発言が飛び出た。
「実はな、最近体調が優れないんだ」
「夏バテじゃないの? 親父も年なんだし、あまり無理すんなよ」
対面に座る父におざなりの返事をした春彦は、缶ビールを呷りながらあいも変わらず祥子からの返信の通知が届かないスマホを指で弾いて、テレビを眺めていた。
画面には午前八時の平和記念公園が映し出され、数え切れないほどの喪服姿の人達が整然と並んでいた。
朝から最高気温が三十度を超える猛暑にも関わらず、老いも若きもハンカチを片手に涙して、総理大臣が発する言葉の一つ一つに耳を傾けている。
「そういえば、今日って広島に原爆が落とされた日だっけ」
「そんなことも知らないの? 日本人として恥ずかしくないわけ?」
ソファに寝転がっていた茉奈は、上半身を起こすと呆れた様子で春彦を罵る。
そんなこと言われても、何十年前の出来事じゃないかと心のなかで反論を試みながら、チャンネルを切り替えた。
それまでキッチンで背中を向けながら食器を洗っていた母が、前掛けで手を拭くと神妙な面持ちで父の隣に腰を下ろす。その瞬間――冷房がそこそこ効いているはずの室内に緊張が走った。ほろ酔いになっていた春彦の背筋を嫌な汗が流れ落ちる。
基本的に宿で寝泊まりしている両親が、二人揃ってマンションに訪れることは珍しい。こちらから瑞鳳苑に赴く予定がない以上、家事をしに一旦戻ってくる母は顔を合わせる機会があるとして、父とは一度も顔を合わせないまま東京に戻ることも十分有り得た。
それをわざわざ、夫婦揃ってマンションを訪れていたことに違和感を感じていなったといえば嘘になる。
次第に重くなる場の空気とは対照的に、バラエティー番組に出演している芸人の笑い声がリビングに響き渡る。
改めて父の顔に目を向けると、最後に見たときよりも頬がやつれたように窺えるのは気のせいだろうか。
――そういえば、体調が優れないって話してたよな。
下戸のくせに春彦を真似て、グラスに注いだビールを一気飲みすると重い口を開く。
「先月、受診した人間ドックを受けたんだが、大腸に腫瘍が見つかったんだ」
「は? 腫瘍って、まさか……」
「そのまさかだ。健康には自信があったんだがな」
肩をガックリと落とした父の身体は、これ程までに小さかったかと驚くほど生命力に乏しく見えてならなかった。
「父さんの大腸から見つかった腫瘍は、残念だけど悪性だったの。それもステージ3のガンみたい」
母は重い溜息をつきながらも、気丈に振る舞っていた。
「今後どうするか、一度家族会議をしましょう」
春彦の思考回路は停止し、これまで避け続けていた現実に頭を殴られるような衝撃で、椅子から立ち上がることも出来ずにいた。
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