ゲンさんから解放されたその日の夜。春彦は二歳年下の我妻日奈子あずまひなこ――日奈子ちゃんと勝手に呼んでいた――と共に、二人一組で客室に料理を配膳する係を任されていた。


 春彦が任されていたのは、基本的に客とは接することのない裏方作業ばかりだったが、ここにきて母が頼りにしていたベテランのスタッフたちが、相次いで体調を崩すという不幸に見舞われたため、急遽春彦にもお鉢が回ってきたというわけだ。

 人員不足の深刻さが窺い知れる。


「しっかし、配膳も楽じゃないね。客が食べるペースに合わせなきゃいけないんなんてさ。一度に全部運んだほうが効率的でいいと思わない?」

「今は勤務時間中です。余計な私語は慎んでください」


 お盆の上に載せられた料理に細心の注意を払いながら、春彦は先を歩く日奈子ちゃんとの会話のきっかけを探っていた。

 今年で二十歳になる日奈子ちゃんは、高校を卒業後に瑞鳳苑で働き始めて、今年で二年目になると口が軽い仲居さんから情報を入手している。


 卒業後に進学は考えなかったのか尋ねると、「すぐに働きたかった」と素っ気なく返されたのでそれ以上会話は続かなかったが、あまり触れてくれるなという空気を感じてその場は退いた。


 自分が同い年の頃は何をしていたのか振り返ってみると、勉強に励むわけでもなく馬鹿な同級生とともに学生らしく夏を謳歌おうかしていた記憶しか蘇らない。

 それも楽しかったかといえば、首を傾けてしまう程度の思い出に過ぎないが。


「さっきの爺さんだってさ、お客は神様だからって、なにしてもいいと思ってる老害だよ。ああいう客は出禁にすべきだね」


 先程訪れた客室で、酒に酔った老人に管を巻かれるというトラブルに巻き込まれて腹の虫が収まらずにいた春彦は、話題を変えたいのと同意欲しさに話しかけた。


 その客は年に一度の頻度で、奥さんと瑞鳳苑に宿泊常連客らしいが、今年は一人で訪れていると事前に日奈子ちゃんから聞いていた。客のプライベートに興味などないが、粗相のないように一応は気を配りながら仕事にあたっていた春彦だったが、配膳を終えてその場を離れようと背を向けると、呂律の怪しいしゃがれ声に襟首を掴まれて引き止められた。


「おい、そこの若造。酒が不味くなるから、つまらなそうな顔で仕事をするな」

「……はい?」

「いつからこの旅館は客を敬わなくなったんだ。お客様は神様だろうが!」


 顔は酔いが回って紅潮し、目はすっかり据わって焦点が定かではなかった。

 この令和の時代に、まだ前時代的な考えの持ち主がいるんだなと呆れてものも言えなかった。黙って引き下がってしまうと老人の言い分を受け入れてしまったようで、それはそれで腹立たしかったが日向子ちゃんに無理矢理頭を下げさせられたせいで、言い返すことが出来なかったが。


 廊下を音を立てずに歩いていく日奈子ちゃんの後ろで、語れば語るほど苛立ちが蘇っていく――。

 すれ違う宿泊客に道を譲り、丁寧に頭を下げる日奈子ちゃんに追従して春彦も形ばかりのお辞儀をすると、人を軽蔑するような目で睨んできた。


「仮にも旅館で働いている人間が、お客様もいる場でそのようなことを仰らないでください。そもそもあの程度の絡み方なんて大したことはありませんよ。お客様の中には酔いに任せて手酌を強要してくる方や、それ以上の行為を申し出てこられる方もいらっしゃいますから」

「はあ? なにそれ。ここをキャバクラかなにかと勘違いしてんじゃないのか」

「苛立ちもしますけど、少し我慢すればいいだけのことですから」


 自分に言い聞かせるように呟いた日奈子ちゃんは、次の客室に辿り着くとすぐさま接客モードに切り替わり、踏込ふみこみで草履を脱いで襖の前で正座をする。

 その隣で春彦も膝をついて、同級生には聞かせられない高い声で引手に手をかけた。


        ✽✽✽


「あのさ、ゲンさんって前からあの調子なの?」


 配膳作業が一段落ついて休憩室で休んでいて春彦は、距離を開けて椅子に腰掛けていた日奈子ちゃんに聞きたかった質問をぶつけた。


 スマホに落としていた視線が興味なさげに春彦を向けられると、卓上の菓子器から年齢にそぐわない煎餅を手にとって食べだす。


「あの調子とは?」


 バリボリと音を立てて噛み砕いている正面に移動すると、椅子に腰掛けて会話を続けた。


「だからさ、パワハラのことだよ。よく誰も不平不満を漏らさずにやってられるよね」

「ああ、そういえば清嶺さんは特別〝可愛がられて〟いますもんね」

「いや言い方よ」


 小腹が空いて同じ煎餅に手を伸ばす。瑞鳳苑の従業員の間では、春彦がゲンさんに日々怒鳴られ足蹴にされていることは周知の事実だった。実の親で女将でもある母は、今のところ静観しているようで現場に口出しする様子は見られない。


「私もまだ瑞鳳苑で働き始めて日が浅いですけど、なんの経験もない初心者の私がわからないことを尋ねても、嫌な顔一つせずに親切に教えてくれましたよ」

「へ? 日奈子ちゃんはゲンさんに怒られたことないの?」

「はい。そもそも他の方が怒鳴られている場面も見たことはありませんね。恐らく怒られてるのは清嶺さんだけなのではないでしょうか。だってヤル気が感じられませんし」

「いやいや、日奈子ちゃん。俺が思うにベテランの従業員は別として、日奈子ちゃんが怒られないのはちゃんとした理由があるはずだよ」

「理由って、なんですか?」

「どうして俺より年下の日奈子ちゃんが怒られないのかというと、それは〝若くて〟〝可愛い〟女の子だからに決まってるよ。ウチの教授にもいるんだよね、女子ってだけで鼻の下伸ばして簡単に単位あげるオヤジがさ」


 春彦が在籍している学部の教授は、女子生徒に対して常習的なセクハラ行為をすることで有名だった。権威主義を振りかざし、特に男子生徒相手には単位を餌に脅迫とも取れる言動が目立つ。


 教授との間に子を授かった女子生徒もいるとの噂が流れ、多額の手切れ金を手渡された末に堕胎させられた末に大学も自主退学に追い込まれたと、まことしやかに流れている。


「ゲンさんはそんな人ではありませんし、他人を知った気になって語るのはやめたほうが良いですよ。見ていて不愉快です」

「いや、そんな本気に取らないでよ」


 てっきり同調してくれるかと予想していたが、言葉の端々に滲む負の感情にたじろいでいる隙に席を立った日向子ちゃんは、休憩時間を残して先に部屋から出ていってしまった。


「なんだよ、冗談が通じない女だな」


 一人不貞腐れて背もたれに体重をかけると、テーブルの上のスマホが振動していた。

 




 

 

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