昭和二十一年度の国家公務員初任給が五百四十円という時代に、貞春たちの店は一日に一万を超える売上額を叩き出すことも珍しくはなかった。


 他店の店主が自分にも同じ品を売らせてほしいと頼み込んでくることもあった。売れ行きが悪い商品も、飛ぶように売れるウチの商品と抱き合わせにしてしまえば、一緒に売れて儲けになるとふんでのことだろう。


 だが、そういった依頼は全て断るようあらかじめヒロヤンから言われていた。


「そんな事をしなくても十分売れるし、なにより他所で取り扱ってないからこそ、付加価値が生まれるんだ」


 断る理由をヒロヤンはそう話していた。

 ある日の晩、カーバイトの明かりが灯る屋台で、三人横並びになりながら支那そばをすすっているとき、ヒロヤンから思いがけない打診を受けた。


「担ぎ屋をやらないかだって?」

「これまで俺たちに闇物資を卸していたブローカーから、突然担ぎ屋を辞めると連絡が来たんだ。置き土産にコレを残してな」


 そう言うとズボンのポケットから、照明の光を反射して鈍色にびいろに光る鍵を台の上に置いた。

 担ぎ屋とは、闇市の各店に統制品を卸すブローカーの別称で、〝闇屋〟とも呼ばれていた。担ぎ屋を自称する人間は上野だけでも相当数にのぼっていたが、扱う品には雲泥の差があるのが実情で、当然希少性の高い品や舶来物の品を扱う担ぎ屋に金が集まるのは自明の理。


 ある意味、先見の明があるヒロヤンに向いてなくもない職業ではあった。


「この鍵は?」

「その担ぎ屋が闇物資の保管に利用していた倉庫の鍵だ。まだ商品がたんまりと残ってるらしい。これを機に露天商なんてチンケな商売から鞍替えしようと思って、お前たちに相談したんだ」

「それって、もっと稼げるってこと?」


 一足先にスープを飲み干したシゲチーが、縁の欠けた器を置いて尋ねた。

 

「ああ。それにブツの流通経路も引き継いでいる。これまで店頭で汗水流してたのがバカらしくなるほど、左団扇の生活を送れるぞ。なんせ右から左に商品を動かすだけで大金が手に入るんだからな」

「ちょっと待て。その話、なんだか怪しくないか? 金の成る木をタダで手放すヤツがいるとは考えにくいんだけど」


 持ちかけられた話に胡散臭さを感じた貞春は、率直に思ったことを伝えると一笑に付された。


「なんでも否定から始まるのは貞春の悪い癖だぞ。いいか、こんな時代だからこそなんでも出来るし、何も持っていない奴が伸し上がれる絶好のチャンスなんだよ。いちいち疑って立ち止まってたら、伸し上がるチャンスを取り逃がすぞ。いいか、そのチャンスが今、俺達の手のひらの中にあるんだ」


 以前なら、三人の中で誰より物事を深く考える性格のヒロヤンは、人が変わったようにリスクを背負って、どこか生き急いでいるように見えてならなかった。


「だけどさ、俺たちはもう十分稼いだと思うんだ。これ以上はとてもじゃないけど、身の丈に合わないよ。時々思うんだ、いつか天罰が落ちやしないかって」

「僕も貞春に賛成。いい話だとは思うけど、欲をかきすぎてもいいことはないって死んだおばあちゃんが言ってたし」


 薄いスープに映る己の顔は、本当にこれが欲しかった暮らしなのかと訴えているようだった。つい去年までは、土埃と汗に塗れながら惨めな地下道生活から抜け出したいと思っていた。


 ――それが今では、腹が減れば好きな時に空腹を満たすことが出来るなんてな。


 シラミとは無縁の清潔な身体で、排泄物の臭い漂う地下道を離れた三人で木賃宿きちんやどを借りて寝泊まりをしている。背後にピタリと張り付いていた死の影は、いつの間にか姿を消していた。

 それでもなお、ヒロヤンは物足りないらしい。


「十分だって? バカも休み休み言えってんだ。いいか、今が俺たちの人生の分岐点だと思え。ここで大金を手にして成り上がるか、それともチャンスをふいにして、戦争孤児の物売りで終わるかの三叉路さんさろだ。オヤジ、カストリを一杯くれ」


 貞春たちの迷いを切り捨てるように、カストリを注文したヒロヤンは眼の前に置かれた慣れないアルコールを一気に飲み干した。


 年端も行かない浮浪児が煙草も酒も売り買いする時代とあって、とくに驚くには当たらないが、酒は売っても自ら飲むことはなかったヒロヤンが顔を赤くして語気を荒らげる様を見ていると、地下道で共に苦楽をともにしていた頃と雰囲気が変わってしまったことに一抹の寂しさを感じた。


「……わかった。そこまで言うんだったら、僕も手伝うよ」

「えっと、貞春が手伝うなら、僕も」


 根負けした貞春に、ヒロヤンは顔を綻ばせて喜びをあらわにした。


「お前たちなら話を理解してくれると信じてたよ。オヤジ、二人にも一杯ずつやってくれ。景気づけに飲み明かそうぜ」


 それまでの態度とは打って変わって、陽気な笑顔を見せるヒロヤンの誘いを無下に断ることもできず、それまで一度も口にしたことがない酒を恐る恐る口にした。


 ほんの一口で消毒液のような臭いと、喉から胃袋まで熱く焼けるような刺激が走って顔をしかめた。大人はよくこんな飲み物を有難がって飲むなと、隣を見ると同じようにしかめっ面のシゲチーと視線が重なって、互いに苦笑いをした。


 夜も更け、足元が覚束ないほどに酩酊したヒロヤンは一人で歩くこともままならず、仕方なくシゲチーに背負ってもらって木賃宿までの夜道を歩いていた。


 遮るものがない夜空には、今にもこぼれ落ちてきそうなほどの星が瞬いている。

 まだ戦争が身近ではなかった頃、自宅の窓から見える星空を父は指差し、たくさんの星座を教えてくれた。今も晴れた夜空を見上げると、自然と教えてもらった星座を目で追う自分がいる。

 

「ねえ、貞春」


 感傷に浸っていると、シゲチーが小声で話しかけてきた。いや、小声というより声を潜めたといったほうが正しい声量に、ただならぬ雰囲気を感じ取った貞春は小声で聞き返した。


「どうした」

「勘違いならいいんだけど、さっきから誰かに後をつかれてる気がするんだ」

「本当か? 気のせいなんじゃ」

「ううん。気のせいなはずがない」


 人一倍臆病なシゲチーは、屋台を出た直後から嫌な視線を感じていたと話す。

 生唾を飲み込んで、ゆっくりと背後を振り返って確かめると、電柱の影にさっと何かが隠れたように見えて、思わず叫び声をあげそうになった。


「も、もしかして、お化けかな」

「東京で十数万人も死んでるんだ。誰かが化けて出てきたっておかしくはないだろうけど、それにしては足がちゃんとついてるみたいだぞ。よく聞いてみろ、足音が聞こえないか?」


 なおも歩き続け、背後に神経を研ぎ澄ませる。すると付かず離れずの距離を保った何者かが、ザッ、ザッ、と貞春たちの後を追いかけてくる雪駄の音が聴こえ、二人して声も出さずに震え上がった。  

 こんなときでも暢気に人の背中で寝ている親友の図太さが羨ましくも思う。


 店を開けていると、ヤクザ者に絡まれることが何度もあったが、その時とは別物の恐怖で足が竦んだ。もしかしたら、掏摸スリか強盗かもしれない――。何度も後ろを振り返りながら警戒し、宿につく頃には不審者の気配も消えていた。

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