過去 12
獣の疾走は十分は続いた。
瞬く間に元いた場所から離れていく。これほど全力で疾走した友達の姿を見たことはなかったから、正確にはどれ程の距離をこの速さで走れるのか私は知らない。ただ、猛烈な風を切る中での私の呼吸がぎりぎり可能な範囲で、目も開けていられない疾走をしばらく続けた後、ようやく獣が止まった時には周囲の景色は様変わりしていた。
鬱蒼と木々が生い茂り、密集していた先程の場所よりも、視界が広い。巨大な体躯を傷つけることも厭わずほとんど木々を薙ぎ倒しながら走ってきた獣は、崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ。
「――っ、085番!」
咄嗟に呼びかけた識別番号に、荒い呼吸の獣が薄らと瞳を開ける。縦長の瞳孔をした金色と目が合った途端、横倒れになっていた獣が俊敏に跳ね起きた。ばっ、と視界が塞がれ、私はのし掛かってきた塊に目を見開く。
グルウウウウウウッという喉奥から絞り出されたような唸り声。
―――金眼と白い毛並みの獣。
それは、
だが、何かがおかしい。はぐれる数日前とは異なる印象に、私は焦りを覚える。
元々この状態となった獣――彼の理性は不安定だ。獣となった彼に職員が近付く時は、必ずあらかじめ部屋に薬物を散布して意識を酩酊させてからの念の入れようだった。そのことを知っている私――私と彼は、子ども達の間でほとんど個人的な関わりのない施設内で、例外的な関係だった。
「どうし……っぁ!」
ガウッ、ガッ、と荒い呼吸のまま獣が口を開く。肩口を噛まれて反射的に目を瞑ったが、しかし、想像よりも痛みはなかった。獣は何度も何度も頭から肩口にかけて、牙を立てずに甘噛みしてくる。それがただのじゃれ合いでないことは、咥内から滴り落ちて服を濡らす唾液によって理解できた。
「――わたしの声が聞こえる?」
返事の代わりに、ぼた、と唾液が落ちてくる。
爛々とした金色の目に理性は見えない。私はすうっと息を吸って、先程能力を使った疲労によって痺れの残る眼球に、力をこめた。
「なら、わたしの眼が、見える?」
赤く燐光が散る。ばちばち、と弾けるような感覚。次の瞬間、頭を呑み込もうと口を開いていた獣の目に、理性が宿った。
「――……ガ、グ、ゥァアアアアッ!」
「085番……ッ!」
苦しげな一声を吠え立てて、がくりと崩れ落ちる。膨れ上がった白い毛並みが、みるみるうちに萎むようにして消えていく。その体を抱き抱えるように触れて、べったりと手につく液体にはじめて気づいた。
「怪我して……」
言いかけて、いや、と気づく。
確かに獣の体は傷ついていた。だが、それは先程木々を薙ぎ倒しながら疾走した時についたような細かい傷ばかりだった。ここ数日の深林での時間によって薄汚れてはいるが、目立った大きな傷はないことを触れ回して知る。
ならば、この血は。
先程ははっきりと視認する余裕もなかった。開けた場所でその姿を確認すると、徐々に消えていく毛並みを滴り落ちる血に気づく。それは、完全に獣の姿が縮んで、崩れ落ちてきた少年の薄い体にもべったりと付着していた。
金がかかって光輝くような白い髪。色素の薄い睫に縁取られた、金眼がゆっくりと持ち上がる。
「っごほ、は、あ……っ」
「08……大丈夫? ゆっくり息できる?」
先程と同じように番号で呼びかけかけて、直前で別の言葉にする。
私達に名前はない。名前の代わりに呼ばれる番号は、あまり好きじゃない。中途半端に外の知識を知っている私達は、それが人間の扱いではなく食事に出される肉を管理するために保存袋につけるようなものだということもわかっていた。それでも周りが皆番号で、それが当たり前の環境だから、疑問に思うというほどのことはなく。ただ、番号を拒絶する限り、自分も人間であるように思えると、今こうして苦しげに体を折る友とも話したことがあった。
「は、はぁ……っ、きみ……」
「うん。わたしだよ……っ」
どれほど能力を使ったのか、冷や汗が額に浮かんでいる。額に張り付いた白金の髪を手でよけながら、まだ昂奮にぎらぎらと金色の光を放っている瞳と目を合わせる。
血塗れの姿に動揺した気持ちを抑えつけて、胸中を静けさで満たす。
その状態で能力を使って、瞬きもせず至近距離で視線を交錯させた。
閉じられることのない瞳から生理的な涙が溢れ始めた頃。喘ぐように息をして、友達である少年が顔を背けた。
「っきみ……きみっ」
「こ、ここにいるよ」
「僕から離れてはいけないと言った!」
怒鳴り声に反射的に肩が跳ねる。その拍子に、瞳の縁に溜まっていた涙が一粒滑り落ちた。目の前の少年――血塗れで土に塗れながらも、生来の気品がある姿をした少年。度々理性を失う『獣』に変ずる能力とは裏腹のその外見に印象通り、本来の性根は大人しい彼が、声を荒げた。
『僕から離れてはいけない』
数日前に聞いた言葉だというのに、既に遠い過去のように感じられる記憶。はぐれる前に、手を繋ぎながら走っていた時に、確かに彼は私にそう言った。僕から離れてはいけない。決して。離れてはいけない。そうでなくては。
「……きみが、無事、で、よか……っ」
よく見れば、その体は小刻みに震えていた。その姿を見て、私は自分がいかにこの数日幸運であったことを打ちのめされるように理解した。
「……ごめんね、ごめん……」
蒼白になった頬を両手で挟んで、額を合わせる。今は能力は使えなかった。動揺しきった心を同調させることになってしまう。だから代わりに、きっとこの数日ずっと心配してくれていたであろう彼に、感謝と謝意が伝わるように熱を共有する。
きっと彼は、私の友達は、私の生死さえもわからなかったのだろう。この数日、どのような気持ちで一人でいたのだろうか。その一端は、血塗れでぼろぼろになった彼の姿から見て取れた。
自分が、友達を一人にしてしまった時間の、残酷さを思った。
元々、この少年の超能力である変身能力は、能力者への負担が大きい。超能力の分類の中でも、体を根本から作り替える変身能力は、別格であるために反動も大きかった。
この超能力を持った施設の子ども達の中で、唯一この年まで死亡せずに残ったのは彼だけだった。その彼も、今よりも小さな頃には、度々理性の手綱を見失って『獣』の状態で暴走していた。
「……きみも、無事でよかった。わたしも、探していたんだけど……」
「―――うそ。さっきの奴」
「え?」
「誰だ」
鋭い眼光に息を呑む。今までこの友達からこんなふうに厳しい視線を向けられたことはなかった。いつの間にか肩に置かれた手が、ギリギリと食い込む。痛みに思わず眉を顰めたこちらに気づく余裕さえなく、彼はこちらを覗き込んでいた。見れば、その瞳孔は僅かに変身の兆候を示して、獣時のように縦長に変化している。
まだ獣時の興奮状態を引き摺っているのだろうか。戸惑いながらも、私は答える。
「きみも知らないの? 私も会ったのはこれ……実験が始まってからだよ」
「あれは、近づいてはいけない。そのような匂いがする」
「……匂い?」
「おぞましい感覚だ。きみがまだ生きて僕の前にいることが信じられない」
「落ち着いて。わたしは生きているよ」
「ああ。……ああ」
そこでようやく少し落ち着いたのか、深呼吸をする少年の背に手を伸ばす。呼吸がしやすいように撫でようとして背に触れた瞬間、ぴくりと反応した彼が目にも留まらぬ速さでこちらを抱き締めた。
「――温かい。生きている……」
「うん、うん、生きているよ」
私は彼を一人にしていたことへの後悔を痛感した。
私の唯一の友達。彼自身はとても賢かったが、彼を振り回す能力はいつも不安定で、宥める存在を必要とした。私が唯一の理性が消えた状態の彼に食い殺されなかった例となる前。彼の能力をコントロールしようとした大人達の試みによって、多くの同じ境遇の子ども達を食い殺させられてきた彼にとって、かつてを思い出すこの状況はどれだけ恐ろしかっただろう。
変身能力を使いさえしなければ、私とほとんど変わらない薄い体を抱き締め返す。彼が自分を必要としていたにもかかわらず、すぐに見つけてあげられなかったことが不甲斐なかった。
「きみこそ、この血、一体何があったの?これまでどうしていたの?」
「……それは……」
心配の気持ちのまま問いかけて、歯切れの悪い返事に口を噤む。先程彼が私を攫う直前、子ども達の悲鳴が聞こえたことを思い出したのだ。なんて酷いことを聞いてしまったのだろうと思った。私が襲われていると思ったであろう彼に助けられておきながら、私には自分が無力だという自覚が欠けている。
「……とにかく、きみが無事で本当によかった」
言葉に窮してしまった少年との間を埋めるように、その髪を手で梳く。いつもなら指通りの良い真っ直ぐな髪は、今は血を被ってところどころ凝固していた。白一色だったその服もまた、濃い赤とのまだらとなっている。
「探してくれて、迎えにきてくれてありがとう。迷惑をかけてばかりで、申し訳ないんだけど、ひとつお願いをしてもいい?」
「……なに」
「さっきの場所にいた男の子を見つけに行きたいの」
ばっと勢いよく身を起こした少年の瞳に驚愕が映った。次いで、戸惑いと激しい怒りが浮かぶ。それは先程の言葉を覚えていてさえも尚、意外に感じられるほどの激情だった。
「僕の話を、」
「聞いていたよ。でも、きみとはぐれてから助けられて、それからずっと一緒にいたの。確かにすごく強い能力を持っているけど、でも、一人にしておけないよ」
「絞め殺されそうになっていたのに」
私は思わず口を噤んだ。彼の言葉を否定することもできなかった私に、彼は畳みかけるように言う。
「きみはわかっていない。今までがどうであれ、僕がいる今、あれは近付いたら僕達を殺す」
「でも」
「今まではきみが一人だったから。……きみ一人ならどうにでもできると思っていたから、すぐに殺さなかっただけだ、きっと。僕と一緒に戻れば、あれは僕を殺す。きみのことも」
私には咄嗟にその言葉を否定することができなかった。
そもそも、私は彼――この数日間、共に時間を過ごしてきただけの彼のことをほとんど知らない。掴み所のない性格で、気分屋であり、それが彼の持つ能力のことを考える時にあまり安全とはいえない傾向であることくらいしか、察せることは何もないのだ。
自分だけならまだしも、私の存在――正確には『眼』だが――がなければ、不安定になる友達を置いてはいけなかった。だが、置いてきてしまった彼のことも気にかかる。衝動的とはいえ、先程彼に向かって言ったことは本心だった。
私達が皆、生き残る手段があるとしたら。
はっとなって私は顔を上げる。逃げよう。そうだ、ここから。
この実験場のフィールドは、恐らく施設の敷地内にある。施設が外の世界で言えばどの程度の場所にあるのか、詳しくは知らない。たまに漏れ聞こえることのある大人達の会話から、ここが頻繁に雪に埋もれる地域であることくらい。
どこへ逃げたらいいのかも、逃げたところでどうにかなるのかもわからなかった。けれど、逃げるだけならば。残っている子ども達の力を合わせれば、可能かもしれない。
現実的でないことがなんだというのだろう。私達にとっての現実とは、常に私達の意志によって定められることではなかった。だが今は、少なくとも大人達はここにいない。何もかもを覆い隠す白い壁に阻まれてもいない。
「いっしょに……」
私は息を吸って口を開く。だが、その言葉が最後まで言い終わることはなかった。
「085番、097番。両手を後ろにして、地面に膝をつきなさい」
私よりも早い反応を見せた少年が、ガンッという音の後に蹲る。咄嗟にそちらを見た私は、その脚が的確に撃ち抜かれているのを見た。何度か同様の光景を見たことがあるからわかる。麻酔銃だ。
こちらへ向かって呼びかけたのは、大人達だった。施設の白い職員服が自然の中で浮いている。
私は心底から絶望的な気持ちになるのを堪えなくてはならなかった。同時に、彼らが今こうして姿を表した意味を考える。
私の友達は、即効性の麻酔銃で撃たれたというのに必死に意識を持ち堪えるようだった。しかし動くことはできないのか、その瞳は焦点が合っていない。
「……きみ、僕の、後ろに……ッ」
自分のことよりも私を優先して心配した彼の心情は理解できる。だが、私は首を横に振って、大人しく背中に手を回すと膝をついた。
恐らくだが、彼らは恐らく私達を処分するつもりはない。この時点では、まだ、という留保はつくが。
確かにそうと確信していても、背筋に冷やが滲んだ。近付いてきた職員の一人が、背後に回ると腕を掴んだ。冷たい金属の感触が手首に嵌る。
「085番、ならびに097番を確保。施設に回収します」
抗いきれずに意識を落とした少年を横目で窺いながら、黙ったまま大人達の会話を盗み聞く。
「今回残ったのは……」
「彼らを含めて4人です。既に一人は確保済み。特異例のほうはGPSで居場所を確認しています。今、回収に大部分の人員を割いて向かわせています」
「予想通りではあるけど、予定よりも減りすぎだ……介入が遅れたな」
特異例とは、彼のことだろうか。首を絞められた感触を思い出す。
私達はこれからどうなるのだろう。彼はこれからどうなるのだろう。4人。私と友人を含めてたった4人ということは、先程会った子ども達は。
「待ってください。通信先のほうで、なにか……」
「うわあっ!? ぎゃ、あああ!!」
突然悲鳴が静寂を掻き切った。驚いて上げた顔に、びしゃりと生温かい液体がかかる。べったりとかかって唇まで飛んだ液体を、動かない手の代わりに無意識に舌先で舐めた。血の味。
「オオカミもどきがうさちゃんかっさらってったと思ったら蟻どもまでゾロゾロゾロゾロ……」
私は、血塗れで放心していた。唖然と瞳を見開いた私の上に影が落ちる。
先程別れたばかりの少年が、ぽっかりと空いた闇のような瞳でこちらを見下ろしていた。その背後に、いつも冷戦沈着な大人達が緊張を滲ませて立ち竦む姿が見えた。
「おれの獲物なのに」
大人達のほうを見もしない。その大きな瞳に背筋に、背筋に本能的な震えが走る。
「――早く確保しろ!」
はっとなったように声が上がった。我に返ったように周囲の喧騒が戻ってくる。
「無意識下の暗示催眠はかけてるんじゃなかったのか……!?」
「解放前に薬物投与による重暗示をかけています! 普通なら解けるわけ、」
「なら、なんで……っうあああ!?」
何が起こっているのかわからなかった。
それくらい圧倒的な力の発露が目の前にある。後ろを振り返りもしない少年の背後で、目に見えない竜巻が荒れ狂うように人が千々に飛ばされ、あるいは傍目にはわからない変化によって涎を零して蹲る。外的な能力と内的な能力を同時に使っているのだ、と呆然とする頭にそれだけがわかった。そんなことは不可能だという論理的な感覚が目の前で捻じ伏せられていく。
――――殺される、と思った。
何故そう直感したのかはわからない。だが、佇む少年の前で跪く私の頭には、確かにその予感があった。
「―――どうやって逃げるの?」
「……え?」
大人達が叫んでいる。その地獄絵図を作り出している張本人とは思えないほど静かな眼差しで、少年は私を見つめていた。
「考えたこともなかったな。変なの」
それでどうなの、と急かすように言う。
私はそれで止まっていた頭をフル回転させた。
「はっ」
感情の窺えない黒目を見つめて叫ぶ。この阿鼻叫喚の中かき消されないような声で。
「話し合い、とかで!」
「……………ばっ」
後になってから、彼はこの時の自分の失態を私のせいだと言った。
私があまりに馬鹿げた返事をしたせいで、一周回って真剣に呆れたせいで、背後に気をやるのを忘れていたのだと。
「かじゃねーの……?」
ズドンと耳を劈いた銃の音が、少年の背に直撃した。
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