現在 25


 まだこの世に生を受けて三つ数えたばかりの、幼子の頬を突く。

 つい先程までアイリスとユウジュに半ば取り合われながら遊んでいたというユディトは、今はガラス張りの部屋の中で眠っていた。施設にある部屋はそのほとんどが視界の良いガラス張りとなっており、操作によって薄曇りのスモークがかかるようになっている。全室がシャワー室のような様相のため、より一層壁や床の白さが目に染みるようだった。


 ユディト。

 口の中で名前を転がすように呟く。

 ユディト。ユディト。ユディト。You did。

 アジャセが名付けた、私の子。


 その存在の特異性を一目で露わにする瞳は、今は閉じた瞼の向こう。

 振り返ってみれば、すべてが慌ただしく起こったせいで、連れ帰った先の施設で一通りの検査を通してデータを取られているはずのその瞳を、私はまだゆっくりと見る機会はなかった。

 降って湧いたような話だと奇妙に感慨深くなる。

 唐突に自分の子だと言われても、当然のことながら実感はなかった。

 もとより、家族という存在自体に縁がない。あえていうのならば、施設が破壊された後に身を寄せ居合いながら共に生き延びてきた『超能力者』達が、私にとっては一番近い。そう考えれば、施設に連れ帰ることを決めた時にはもう、この子の保護を通して家族となることを決めていたのだから、このことについては改めて考えることはないのかもしれないと思った。


 結局、悠長な仕事振りを急かして出してもらった検査結果で、確かにユディトと自分に血縁関係があることは判明した。

 完全にあの科学者の判断能力が狂っていない限り、この状況で彼が嘘をつく理由もない。なにより、動かしがたい検査結果を提示されれば、これ以上疑いなど持ちようもない。唯一疑わしいのは、アジャセの正気だった。


「ユディト」


 起こさないよう、そっと囁く。アジャセが望んだ瞳に、今までこの子は何を映してきたのだろう。

 私や、他の人間にも誰一人として例外はないように、この子にも産みの親はいる。生物学上の話で言えば確かに私の遺伝子を継いでいるのかもしれなかったが、つい先程その事実を知ったばかりの私が急に親振るのもどうだろうか。

 アジャセの意図はわからない。今も昔も。だが、この子の存在が今の今まで露見しなかったのは、ひとえにアジャセがそう望んだ結果だ。

 施設に着いてからの検査やテストの結果を見ると、ユディトの状態は一般的な三歳の平均から大きく外れてはいなかった。言語には多少遅れが見えたが、この年齢であれば今後に支障も出ないレベルだ。最低限の衣食住を与えることはできても、流石に自身で教育を施すことはアジャセには難しかったのだろう。やり方がわからないことはできない。施設に残った私達とは異なり、アジャセがまともな教育を受ける機会があったのかも謎だった。

 健康状態にも特段の異常はない。ヤクモ・アキグサのような協力者の存在があったとしても、アジャセがそうして誰かの世話を焼くことができるとは思ってもみなかった。

 あの頃から、何一つ変わらない姿をしたアジャセ。

 確かにあの頃から時間は流れて今日へと至っているのに、アジャセはどうしてかつてのままなのか。既に何度も反芻した疑問が、再び頭をもたげる。6年前から凍結していた時間が、氷が溶け始めるように動いたきっかけは、なんだったのか。偶然と片付けるにはアジャセはあまりに作為的だった。この状況はアジャセが仕組んだものだ。

 眼球を集めていたアジャセ。

 私の眼に執着をしていたアジャセ。

 私と血を分けた子どもまで作ったアジャセ。

 それなのに、私の眼は抉ることなく消えたアジャセ。

 わざわざ誘い込み、自らヒントを口にし、協力者も自分で作った特別な瞳の子どもも置いて消えた。その行動には何か目的と理由があるはずだ、

 ユディトを見つめながら、ゆっくりと深いところに沈もうとしていた私の思考は、だが、唐突に上から降ってきた声によって中断される。


「イム」


 その瞬間、私は現在自分が覚えている懸念の一つが自ら足を動かしてやってきたことを知った。


「サラ・ソウジュ」


 顔を上げると、いつの間にか背後にいたサラ・ソウジュがこちらを見下ろしている。左右で微妙に色の異なる金色の眼は、私の後ろにいる赤子をまるで視界に入れていない。


「出てきたんだね。具合はもういいの」

「イム」


 こちらの言葉が聞こえていないかのように名を繰り返され、口を噤む。

 サラ・ソウジュの様子を眺めて、まだ早かったのでは、と内心で思った。


「どうしたの。サラ。また頭が痛い? それともお腹が空いた?」


 さり気なくユディトの眠るベッドから遠ざけるように、サラ・ソウジュをガラス戸のほうに向かって押す。サラ・ソウジュと共に私も部屋を出るつもりでの行動だったが、押した胸板はぴくりともしない。もとより私の力では身体強化が甚だしいサラ・ソウジュを動かすことなどできないが、いつもならば私の意図を察して自ら動くはずの男は、底光りする金眼をこちらへ向けたまま動かない。囲うような腕が、気づけば腰に回っている。

 私は沈黙し、サラ・ソウジュを見上げた。

 やはり、いつもの様子ではなかった。

 その理由を、次の言葉で理解する。


「アジャセのもとへいくな」


 私は目を瞬いた。

 サラ・ソウジュの凍えるような眼差しが私を通り越した先、ユディトの上へと落ちた。不穏な雰囲気に私はにわかに緊張を覚えた。サラ・ソウジュの目は、まだ三つの子どもを酷く忌々しく思っているかのように仄暗い感情に鈍く燃えている。


「その子どもの話が漏れ聞こえてきた。アジャセが作った、イムとの子だと」


 そこでようやく、私はこんな精神状態のサラ・ソウジュがここにいる理由を把握した。

 サラ・ソウジュの能力は彼の感情の起伏に左右されやすい。長年の感情抑制のための投薬と制御訓練によって、歳を重ねるごとに感情表現の希薄化と共にほとんど暴走はなくなったが、それでもやはりサラ・ソウジュが激しく感情を揺さぶられた際、能力は制御を欠く。サラ・ソウジュも自ら感情を抑制できない自分の性格について理解していたため、そうなりそうだと彼か周囲の人間が感じた時は、一定期間隔離室へと閉じこもるのが常だった。バイタル状態を常に監視された中で、落ち着いたと確認できれば解放される。大抵は私が赴かなければ時間がかかったので、後で寄るつもりだったが、それより先にサラ・ソウジュは職員の立ち話を聞いてしまったようだった。どういった方法を使ったのかはわからないが、一時的に自傷行為などで感情を抑制し、バイタルサインを誤魔化したのかもしれない。

 別に私自身が聞かれて困るような話ではなかったが、サラ・ソウジュに関して言えば、確かにユディトのことは懸念だった。

 どの道、この施設で過ごす以上事情の説明はいずれ避けては通れないことだったが、今はタイミングがあまり良くない。ただでさえ、アジャセと折り合いが悪かったサラ・ソウジュは、アジャセが消えた後はまるでアジャセなどいなかったかのように口の端に上げることもなかった。アジャセ以上にこの目に執着している男がいたことを、忘れていたわけではなかったが思い出して、私はとりあえず身を起こそうとした。


「サラ、離れて」

「いかないといって。それとも、アジャセがそんな子どもまで作っていたと聞いて、奴に同情したのか? 執念に危機感を抱いた? 助けを求められたのなら応えたいと思っているんだろう。きみはいつもそう。いつもいつもいつもそうだ。自分に伸ばされた手を全部握り返す」

「サラ。大丈夫だよ。話を聞いて」


 眠っているユディトを気にして控えめになった宥めるような口調が、かえって激昂したサラ・ソウジュの気に障ったらしかった。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫! ああ、きみは大丈夫だろうさ! 大丈夫じゃないのは、いつだって僕だ。きみがいない時はいつだって獣に戻りそうな恐怖に怯えているのも、きみが僕だけのものじゃない嫉妬に身を焼かれるのも、いつも僕だけだ! 昔ならまだしも、今のきみにとって僕なんかいないほうが良いんだろう!」


 その言葉に私は驚き、次いで悲しみを覚えた。

 過去の施設にいた頃から、私とサラ・ソウジュは一番の友達だった。確かに私達は寄り添い合うことで生き延びてきた。サラ・ソウジュは私の力によって獣性を抑え、私は貴重な『超能力』を持つサラ・ソウジュが私を必要としたから庇護された。

 アジャセが私の脳内で覗いた記憶の通り、それは私達二人のどちらの身も助けたが、だからといって私は、サラ・ソウジュを目的のための手段と考えたことは一度もなかった。


「サラ・ソウジュ、私を信じてくれないの」


 途方に暮れたような声が出た。

 サラ・ソウジュはぐっと喉を動かすと、精一杯感情を抑えつけているのだとわかる震える声で怒鳴った。


「信じられるわけないだろう! きみが僕の傍から離れないでいてくれたのだって、僕が君がいなければ死ぬとわかっていたからだ。アジャセが今そうであったら、きみは必ず行く!」


 サラ・ソウジュの顔色は蒼白だった。

 その色の異なる目は強く私を射貫きながら、同時に縋るように頼りなげに揺れて、彼が今無性に傷ついていることを私に教えた。

 この場に相応しい言葉を探したが、頭の中をひっくり返してもサラ・ソウジュの気持ちを落ち着かせるようなことを言えそうな気はしなかった。彼の言う通り、アジャセが私を呼んでいるなら、私はアジャセを探しに行きたい。逃げる私達のような存在を追いかける存在は、その命を奪うことを目的とした者を覗けば、自分と同じ同胞以外にはいるまいと思えばこそだった。

 私は少し躊躇った。だが、結局、これしかないと思って口を開いた。


「兄さん」

「……」


 サラ・ソウジュの動きが止まった。


「お兄ちゃん」


 白皙の顔は、赤みが差すと非常に目立つ。

 サラ・ソウジュの顔が、僅かな沈黙の後、みるみるうちに赤くなる。その変化は誰が見ても明らかで、ここには私達二人と、この喧嘩のような諍いの中でも眠り続けているユディトの他には誰もいなかったが、恐らく本人も自分の変化には気づいているのだろう。羞恥を誤魔化すように口を閉じて、無言でこちらを睨みつけてきたが、私が見つめ返していると根負けしたように目を逸らした。


「お兄ちゃん、アジャセは貴方と同じで、私にとって大事な家族だよ」

「……同じなんて。君の本当の家族は、僕だけだろう!」

「血の繋がりが家族のすべてなら、サラは、顔を見たこともない、私とサラの産みの両親のことも家族と思える? 私にとっては、サラや、アジャセも含めた、皆が私にとって家族だよ」


 ――――私とサラ・ソウジュが、血の繋がった兄妹。

 その事実を知ったのは、半壊した施設に外部の人間が訪れて、しばらく経ってからのことだった。元あった場所に再び立て直された真新しい施設の一室で、私とサラ・ソウジュは同時にそれを知らされた。

 施設の残骸から回収された僅かなデータの中には、それが決して珍しいケースではないことを示す子どもの売買の記録が残されていたのだという。

 孤児や売られた子ども。いなくなっても誰も探さない、足のつかない場所から連れてこられた子ども達は時には兄妹まとめてということもあった。

 この施設に数多くいた子ども達は、多くが幼い頃に連れてこられ、度重なる実験と投薬によって記憶に混濁が見られることも珍しくなかった。私もサラ・ソウジュも施設に来る以前のことは覚えておらず、だから、国連の保護下に入った後の検査結果として知らされたそれは、私達にとっても寝耳に水のものだった。

 そのことを知ってからも、知る前も、私とサラ・ソウジュの関係は変わらなかった。

 普段は気に留めることもほとんどない。そうした事実があろうとなかろうと、私とサラ・ソウジュは互いを必要としていた。


「……それでも、きみ、お願いだ」


 私の決意の固さを見て取って絶望したように呻いた後、サラ・ソウジュは絞り出すように言った。


「お願い、いかないで」


 私はふと、昔のことを思い出した。

 施設の部屋で、苦手な会話を覚えるために辞書を広げていたサラ・ソウジュ。あの頃と同じようでいて、主に私に対してのみではあるが、あの頃よりもサラ・ソウジュは話すようになった。はっきりと言葉でもって主張するようになった。私はそれが嬉しかったが、同時に、衝動のまま暴れて駄々を捏ねるよりもそのほうが私には効くと彼が理解していることも察していたから、なんとも言えない気持ちになった。


「きみ、お願いだ……僕を捨てないで。僕を見捨てないで。きみがいなければ生きていけない。きみだけがいればいいんだ。イムって名前になるより前、イムがイムになる前から、アイツらにイムって呼ばれるより前のように、僕だけのきみがほしい。僕は、きみにだけは酷いことはしない。毎日酷くなっていく、殺したい衝動だってちゃんと我慢してきた。我慢できていただろう? 僕はちゃんと、きみのことだけは、」


 それでも、その懇願は本物なのだろう。

 過去のサラ・ソウジュ。放り出された森の中で、はぐれた私をずっと探してくれていただろうサラ・ソウジュ。まだ私の兄とも知らない頃、ただ互いだけが友達だった。

 私は、あの森の中でアジャセと行動を共にしている間に何度か見かけた、ぐちゃぐちゃになった死体の光景を思い出す。獣の爪に引き裂かれた上に食い散らかされた死体は、アジャセの能力で殺されたどの子ども達よりも、もっと酷い状態だった。

 私はその記憶を、殺された者と殺した者、両者の計り知れない苦痛を思いながらも、墓場まで持っていくだろう。


「きみも、僕がいなければ生きていけなければいいのに。どうか、お願いだから、僕にきみを、喰い殺させないでほしい」


 首筋に温かい吐息が触れる。その口から覗く牙は、確かにいつだって、この皮膚の上に突き立てたいのを堪え続けてきたのだろう。私はサラ・ソウジュの言葉を疑わなかった。常に獣性に振り回されている彼は、私達の中でも特に重度の投薬と暗示に重セラピーまで常に欠かせず必要としている。本当は社会生活など不可能に近いところを、必死に彼自身が人間であろうと努力している。私達は普通の人間だが、一般的な社会において普通であるためには、徒労にも近いような多大な労力と消耗を経験する。それは、アジャセも決して例外ではあるまい。


「サラの体が保たなくなって、限界になった時には、私を食べていいよ。こんな薬の味が染み込んでそうな不味い肉で良ければ。だから、今は行かせてほしい」


 長い沈黙があった。


「…………薬の味には慣れている」


 やがて、弱々しく落ちた声に、私はついサラ・ソウジュの体を抱き締めた。

 よしよしとその背を撫でていると、サラ・ソウジュは萎れた花のように肩口に顔を埋めてくる。その状態の彼にこれ以上追い打ちをかけるのは酷にも思えたが、後で他の相手から知らされるよりは今のほうが良いだろうと思って、私はゆっくりと口を開いた。


「それでね、サラ。もう一つきみに言わないといけないことが」


 体を離して、このやり取りの間もずっと眠っていたユディトのベッドに向き直る。

 サラ・ソウジュは私の視線を辿って子どもを見下ろした。その眼には複雑そうな色がある。私の子ならば、生物学上、サラ・ソウジュにとっては姪ということになるので降って湧いた事態にその反応も無理はない。だが、私はその上で、彼を更なる混乱に突き落とすであろう言葉を告げなくてはならなかった。


「この子は確かに、アジャセが作った私の子のようだけど、検査結果の生物学的父親の欄は見た?」

「…………アジャセじゃないのか」


 ヤクモ・アキグサとの話の場の詳細を知らないだろうサラ・ソウジュは、当然アジャセだと思っていたのか、不可解に眉を寄せた。

 口振りからしてそう思っているであろうことは察していたが、やはり、と思いながら私は首を横に振る。

 私は、久し振りに会ったアジャセの奇妙な発言を思い出していた。


『でも、ソイツは完全に父親に似ちまった。おまえのことが好きで、おれのことがだいきらい』


「どうやったのか、私ときみの子らしいよ」


 つまり、オルシーニが機上で私とサラ・ソウジュとユディトを見て『親子のようだ』と評したのは、本当に間違っていなかったということだ。

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