現在 26
ショックで動かなくなったサラ・ソウジュをこれ幸いにと彼の部屋に送り返した後、私は廊下を歩いていた。
途中、ガラス張りの壁越しに見知った顔を見つける。
「エニシダ」
清潔過ぎるほど清潔なイメージを保つ施設内には、当然喫煙所という不健康的な場所は存在しない。
結果、娯楽として煙草を嗜む職員達は、喫煙をしたい時は各々適当な場所で凍えるような外の空気に触れながら吸うしかなかったのだが、エニシダはそんな暗黙の了解など自らには関係のないことだと思っているようだった。
エニシダの足元。既に終わった一本目の煙草は、そのまま無造作に白い床に投げ捨てられていた。しかもそれに頓着する様子もなく、二本目の煙草を掴んでいた男は、呼びかけられて怠そうに顔を向けた。
「………よお、クソ雑魚イムちゃん。クソ馬鹿アジャセに会ったんだって?」
「酷い呼び方だね、本当に。サラ・ソウジュも会ったよ」
「は、クソ犬野郎のメンタルぐっちゃぐちゃになったろーな。アイツ、アジャセのこと嫌いなくせに、いつもアジャセに負けてンもんな」
「エニシダは? アジャセのことをどう思っていた」
「嫌いに決まってンだろ。とっとと捕まって死刑になるかその辺で野垂れ死ぬかすりゃいいのにな」
来る途中に見たスケジュールの通りなら、エニシダも任務帰りのはずだった。実際、エニシダのいつもの人を嘲るような不機嫌そうな表情はなりを潜め、代わりにどこか疲れたようにぼんやりとその視線は宙に揺れる煙を追っている。
「どこまで聞いたの?」
「極秘捜査、イカレアジャセ、イカレ科学者、子ども」
答えは端的過ぎるほど端的だった。
だが、続いた言葉の補足を聞けば、エニシダが、ある程度どころか今回のあらましのほとんどを既に知っていることがわかった。
「犬野郎との子どもってなると血筋的にもそりゃあ『超能力者』にしやすいだろうなァ。血が濃いと欠陥も出やすい、欠陥が出やすければ『超能力者』にしやすい脳が元々備わってる、そういうワケで意図せず未婚の母、オメデトウ。アジャセの人をおちょくったクイズだけじゃなく、メンヘラ兄貴のメンタルケアに子守りまで追加されて、相も変わらず人気者なこって」
エニシダが床に捨てた煙草を拾うため屈み込んでいた私は、立ち上がりながらゆっくりと口を開いた。
喫煙厳禁なこの施設内で、こうして憚ることなく煙草を吸うのはエニシダ以外にいなかったが、職員の中には誰もエニシダの行動を止める者はいない。華奢な骨格と、女性と見紛うような端正な顔立ちは子どもの頃から変わらず、いよいよもって美しさに磨きがかかっていたが、その言動には隠しきれない凶暴性が常に滲み出ている。
エニシダに近づこうという試みは、本人の完全な無視と、エニシダの本人いわくちょっとした脅しによって彼の念力による骨折者を数人出した辺りで諦められた。口を開けばその容姿の印象が跡形もなくなるほどの罵詈雑言ばかりだが、エニシダは自分から関わる意志がない人間に対しては、喋りさえしない。完全なる拒絶の姿勢で、サラ・ソウジュよりも他者を嫌っているように見えた。
「どうして?」
「あ?」
二本目の煙草が終わり、三本目を取り出そうとしていたエニシダが止まる。
「どうして、エニシダはアジャセのことが嫌いなの」
エニシダは、不可解極まりないことを聞いたというように眉を顰めた。
サラ・ソウジュがアジャセを嫌う理由はわかる。
常に獣性に呑み込まれそうな意識を抑制しなければならないサラ・ソウジュは、長年の刷り込みによって私と一緒にいる時は自我を失うことなく理性を緩められる。だから私に依存している。
サラ・ソウジュが嫌いなのはアジャセというよりも、私を自分から引き剥がす存在なのだろう。
実際、サラ・ソウジュはエニシダに関しては特にコメントもない。お互いに気が合って仲良くしているというわけではなさそうだが、長引けば大抵喧嘩になるとはいえ顔を合わせれば普通に話をすることもあるし、エニシダは私とサラ・ソウジュが共にいる時はあまり傍に寄ってこないことも関係しているのかもしれない。
エニシダに関して言えば、彼が誰に対しても攻撃的なのは今に始まったことでもなかった。
それは最早彼の気性と言えるほど、長年彼の通常状態として認識されている。
元々、共にいた短い期間の中でも、エニシダはアジャセと仲は良くなかった。
だが、あの頃よりも今のほうが遙かに、エニシダはアジャセを嫌っているような気がする。
「正気で言ってンのか? オマエくらいだよ、アジャセを嫌いじゃない奴なんて」
結果的に、今の状況を見ればそうかもしれない。
だが、それは決して真理というわけではない。
アジャセに限らず、それを検討するにはあまりに私達は人間関係が希薄過ぎた。大抵の人にとって、私達の存在に嫌いも好きもない。
新種の人間を創造する、という前施設の掲げた理想は、国連の介入後徹底的に外部に伏せられた。
世界に公表された私達の存在は、人権侵害の犯罪被害に遭った可哀相な人で、自分ではコントロールのつかない危険な力を持っているため一生をどこかの国のどこかの施設で研究に協力しながら余生を静かに過ごしている、くらいの認識だ。
実際にその力を使って世界の中心を混乱に陥れたアジャセによって、その実態が白日の下に曝された『超能力者』達を、国連は元々検討していた温情的手段としての強制処分の処置の保留を余儀なくされた。
情報統制は行われたが、アジャセが施設を壊して出奔した直後、おまけのように施設内の機密情報の一部を漏洩させていったことが発覚し、ダークウェブに流れたそれらデータの完全回収は困難を極めた。その後すぐにアジャセがウォール街を瓦礫の山に変えたため、隠蔽は実質不可能となった。
「いろいろな人と関わっていれば、アジャセのことを好きだと思う人もいることがわかる。私達の世界が狭いだけで」
そう、とにかく私達の世界は狭すぎる。私達が結局離れられることのなかったこの施設も、視界は見渡す限りの白、白、白で埋め尽くされている。
だが、それでも、私達には少なくともこの施設の中に世界があった。
それはきっとアジャセの世界よりは広い。
私達の中で、誰よりも広い世界に一人でアジャセは行ったけど、誰からも追われて生きる日々のどれだけの時間に、彼以外の人間が存在したのだろうか。
「もう一度聞くよ。エニシダ、どうしてアジャセが嫌いなの?」
「なァ、オマエもよく考えろよ。質問はホントにソレでいいのか」
私は一度口を噤んだ。エニシダの突き刺すような視線が痛い。
エニシダの力は思考を読むものではないはずなのに、どうしてか、彼は私が言い淀んでいる言葉を察しているようだった。
だから、私は観念して口を開いた。
きっとこれを言えば、今までの罵詈雑言で隙間が埋められていた会話が、それでもまだマシな内容だったと思うようなものに変貌することを悟りながら。
「エニシダ、どうしてアジャセと連絡を取っていたことを伏せていたの?」
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