現在 27
エニシダは頭が切れる。
いくら平常を装ったとしても、常とは異なる雰囲気を私に感じ取ったのかもしれない。
だから、何を言われるか、予想はしていただろう。
それでもその一瞬、エニシダの表情は消えて無になった。
思えばヒントはあった。
エニシダのほうはどうか知らないが、アジャセにはそもそも隠す気もなかったのだろう。
6年振りの再会をしたあの場で、アジャセは私とサラ・ソウジュについては『久し振り』と言及したが、エニシダのことは触れなかった。
あの状況で、それは流石に奇妙だと気づいたのは機上に戻ってからだ。
サラ・ソウジュはアジャセの件で私が召集されたことを『エニシダから聞いた』と言った。
サラ・ソウジュは獣性からくる発作的な衝動によって感情の抑制が難しいが、これもまた研ぎ澄まされた本能のためか、嘘や欺瞞には敏感だった。
エニシダが嘘をついているか否か見極めるのは容易く、サラ・ソウジュが私に嘘をつくことはない。
オルシーニ達が訪れる直前、エニシダは私を捕まえて『しばらく会うこともないだろうから』と言った。
今のエニシダは確かに任務帰りだったが、予定を確認したところ、オルシーニ達の訪問後の数日はエニシダの予定は空いていた。
私に外での仕事はない。
エニシダが外に出ていなければ、同じ施設にあって全く顔を合わせないということはない。
あの時には既に、エニシダは知っていたのだろう。じきに訪れる国連の人間が、私に同行を求めることを。
ヤクモ・アキグサはそれが誰かは知らされていなかったようだが――彼はそもそも自分の研究以外のことはそこまで関心を払わないタイプのようだから気にしなかったのかもしれない――彼がユディトの生物学上の親について述べた時点で、施設内の内通者の存在は明らかだった。
検査や研究等の諸々のために定期的に採取され保存される『超能力者』達の遺伝子情報は、外部の人間には触れられない。
だが、自らもその検査の対象である人間ならば話は別だ。
ここしばらく、エニシダ自身の存在感が希薄だったせいで異常に気づくのが遅れた。
私達はかつて4人だった。
私とアジャセとサラ・ソウジュが揃って、エニシダだけが関わっていないという状況が既に奇妙なことだったのだ。
エニシダもこのことを本気で隠し通そうという気はなかったはずだ。そうでなくては、わざわざサラ・ソウジュを差し向けたりはしない。
そう、そこが、奇妙なのだ。
「エニシダは、アジャセをどうしたいの? 協力しながら、アジャセの不利益になることもしている」
国際指名手配されているアジャセと連絡を取り、遺伝子情報の提供を行い、その事実を伏せていた。そこだけ切り取ってみればエニシダはアジャセの協力者に違いないが、一方で、アジャセが不利になることもしている。
あれだけこの6年間痕跡の辿れなかったアジャセの目撃情報が今になって浮上したことは、目的はわからないがアジャセ自身の意図が絡んでいるのだろう。
だが、恐らく、あの場にサラ・ソウジュが乱入してくることはアジャセの意志ではなかった。
私達の中では一番底知れない力を持っていたのはアジャセだが、攻撃性ではサラ・ソウジュの力も人知を超える。
以前、獣の状態のサラ・ソウジュが軍事用の対物兵器の耐久試験に駆り出された際、総額数百億の試作品のことごとくを壊して帰ってきたことがあった。
今回は市街地であり、サラ・ソウジュ自身にも動揺があったのか、最悪の事態は避けられたが、アジャセとサラ・ソウジュが本気で衝突すれば被害は大きい。
あの場にサラ・ソウジュを招き寄せるのは、アジャセへの嫌がらせ以外にない。
「どうしたいって?」
エニシダが吐き出した煙草の煙が、ゆっくりと宙に消えていく。
その緩慢さと相反するような、乱暴な仕草でまだ火が付いたままの煙草を握り潰した。
「ぶっ殺してやりたいに決まってンだろ」
嘲るように口端が歪む。
煙草を握り込んだ手の火傷が気になり、その手を取ろうとすると、乱暴にそれを振り払った手でエニシダは私の首を掴んで壁に叩きつけた。
「オマエも、ソレ本気で聞いてンだったらぶち犯してやろうか?」
ぎりぎりと強い力に気道が塞がれる。
耳朶に触れた甘い声には突き刺すような鋭さがある。
私が堪らず苦しげに目元を歪めると、エニシダは微かに溜飲が下がったように目を細めて嗤った。割り開くように脚の間に入ったエニシダの足に引っかけられ転ばされる。
床に打ち付けられながら、首元に手をやり、呼吸を整える。
咳き込む私を見下ろしながら、エニシダの眼は怒りか嫌悪に似た色合いで爛々と光っていた。
「っっとに反吐が出んだよオマエにはァ! 昔昔昔昔っっっからよォ! 一人だけ聖母みたいな顔してお綺麗なままで!」
エニシダの激昂を見るのは久し振りだった。
サラ・ソウジュのように感情によって能力を暴走させることはなかったエニシダには、サラ・ソウジュのように感情抑制に努めなくてはならない必然的な理由はない。だが、それでも口を開けば相手と喧嘩になるエニシダは、ある程度年齢が上がってからは、無用な争いを引き起こすよりは無視という無礼を選んできた。
私やサラ・ソウジュに対しても、昔のような誰に対しても挑発的な態度よりは、皮肉に寄っていたと言える。
だから、感情も露わに怒鳴るエニシダに昔に戻ったかのような錯覚を覚えた。
「ここのヤツらにチクりたきゃ勝手にすりゃァいいだろ! 6年間もご苦労なゴマすりをやってきたんだ、テメエの言うことなら誰も疑わねェだろうよッ!」
「……エニシダ……」
「ああ、6年じゃないか。オマエは6年前もずっとそうだったよなァ?」
エニシダの足が私の髪を踏む。
痛みはないが起き上がることはできなくなり、私はそのままの姿勢で、こちらを見下ろすエニシダを見上げるしかなかった。
「よおく覚えてるぜ。オマエはずうっとそうだ。オマエ以外の全員は皆人殺しで血塗れに薄汚ェ男共の中で、オマエだけは一度も自分で人を殺しちゃいないもんなァ? オマエだけはお綺麗なまま、よくもまァ汚れがない普通の人間みたいな面して生きてるよ。なんでアジャセと連絡を取っていたか? あの野郎を見失わずに殺す機会を逃さないために決まってンだろ」
どうして、と私の口から声が漏れた。
私は混乱していた。エニシダの私への糾弾は理解できた。
それは昔のエニシダも言っていたことだ。
私がアジャセのおかげで、自分ではほとんど何もせずにゲームで生き延びた時、エニシダは私にそう吐き捨てた。
それはわかる、エニシダの気持ちも理解できる。
だから、そのことについては何も思わなかった。だが。
「どうして、アジャセを殺したいの……」
私にはどうしてもわからなかった。
サラ・ソウジュも、エニシダも、どうしてアジャセを嫌うのか。
アジャセは横暴だった。気紛れで、残酷で、無邪気で、なんでも自分の思い通りになると思っているような子どもだった。
共にいたからといって、生き残った同胞だからといって、特段に仲が良かったわけではないことは流石に理解している。
それでも、殺したいと思うほどではないはずだ。
『死んでくれ』と思う消極的な気持ちと、『殺したい』という積極的な殺意には、天と地ほどの差がある。
「オマエにわかるかよ。オマエにだけはわからねェだろうよ。ソレはオマエが知らない感情だろ?」
そうだ。
私は、覚えている限り一度も、人に殺意を抱いたことはない。
だが、だからといって引き下がるわけにはいかなかった。
「私だけが綺麗、なんて、そんなことはない。皆の罪は私の罪だから、それを言うなら私も等しく人殺しだよ」
は、とエニシダは嗤った。心底馬鹿にしたような笑い方だった。
「オマエは6年前からそうだよな。慈悲深くて、甘ちゃんで、誰彼構わず救おうとする。オマエのそういうところ、マジで吐き気がするよ」
エニシダはしばらく、私の髪を踏みつけたまま見下ろしていた。
口元だけを曲げた歪な笑みと、爛々と底光りしているのに暗い眼。
私は起き上がることを諦めて、今の状態のエニシダに何を言っても逆効果に違いないと思い、一旦口を噤んだ。
言葉を発さない代わりに、ただ、エニシダを見上げる。
互いの視線が交錯し、そのまま静止した。
私は能力を使わなかった。
だが、見つめ合い続けていると、やがてエニシダは笑みを消し、どんどん顔を歪め始めた。
エニシダの靴が、髪の上から退かされる。
踏みつけた時の激しさと打って変わって、音もなかった。
「……オマエと同じなワケがない。オマエは誰とも違う。オマエだけが、」
エニシダ、と名を呼ぼうとした声は、囁くような小さな声を拾って、喉の奥で消えた。
そんな声をエニシダから聞いたのは初めてだった。
昔から、いつも嘲笑するような笑みを浮かべて、人に対して舌を出して、その口から出るのは罵詈雑言ばかりのエニシダは、自身の言動に反省を見せたり素直に謝罪をしたこともない。
アジャセがいた頃は、アジャセにさえそうだった。
だが、他者に対して厳しい人間がしばしばそうであるように、エニシダは自分自身に対しても厳しい一面があった。
アジャセに骨を折られ、熱を出した時――そういうことは数回あった――も一言も痛いとも苦しいとも言わなかったし、辛そうな姿を見せることさえ嫌った。
何かしらの弱音の類いは一切エニシダから聞くことはなかった。
極端なまでに、エニシダは弱さを見せることを忌避していた。
その、エニシダの、聞きようによっては弱々しいとさえ表現できるような声に、私は言葉を失ったのだ。
「――――オマエの手は広い。どこまでいってもオマエの指の先に行き当たる。そうやってつまみ上げて惨めにさせる」
「エニシダ―――」
「………アジャセのクソの居場所は知らねェよ。3年前に一回だけアッチが突然任務先に現れたかと思えばこっちの思考をハックして根こそぎ欲しい情報を抜き取っていきやがった。今回の件だって、連絡がついたのもこの間だ。なァ、イムちゃんよ。オマエには期待してるぜ。アジャセはオマエには会いたいんだろ。あのクソヤローがドコにいるかわかったら、オレにも言えよ。連れて行って、オレにアイツを殺させてくれ」
吐き捨てるような静かな言葉の後、踵を返したエニシダの背はそれ以上の言葉を固く拒絶していた。
私は何も言えないまま、ただ、その背を途方に暮れたように見つめ続けていた。
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