現在 28
エニシダと別れた後、私はしばらくぼんやりと、立ち上がることもせずに床の上に座り込んでいた。
話をするにあたり、監視カメラや録音機器のない閑散とした区画にエニシダがいる時を見計らったため、近くに人の気配はない。だが、あまり長時間こうしていると、いずれ誰かしらが探しに来る可能性があったため、早めに戻らなくてはならなかった。
「……戻らないと」
動かない自分の体に言い聞かせる意味合いで呟いて、やっと体が動いた。
立ち上がり、軽く服と髪を払い、一度目を閉じてから、方向を転換して歩き出そうとする。
振り返った先に、子どもがいた。
思わず驚きのあまり言葉を失った私に、子ども――ユディトは、宝石の瞳を開いて、瞬き一つせずに一人で立ち、その大きな瞳で私を見つめた。
「どうしてここに」
我に返り、慌てて近寄る。
ユディトは近づいてくる大人の姿に怯えるでも逃げるでもなく、ただただ私を見つめており、近くまで来てもやはり無言でこちらを見上げていた。
目線を合わせためにしゃがみ込むと、小さな手が私の袖を掴んだ。そのまま離すことなく掴んでいるので、またもや動くことができなくなった私は、少し考えた後、ユディトの腕の下に手を入れて抱き上げる。
「目が覚めたの? 誰も傍にいなかったのかな。どうしたの?」
ユディトは問いかけに対しても、ただ大きな瞳で見上げることで応えた。
生育環境のせいもあるのか、口数が少なく、施設に着いてから発した単語はまだ「メシ」「トイレ」「ネル」だけだ。
アジャセ以外に参考にする相手がいなかった上に、まだ幼いこともあってか、何か生理的な要望がある時以外はほとんど口を開かない。それ以外にも、目覚めてから一変していた景色や、消えたアジャセに混乱する様子さえなかった。
「……エニシダは……放置して行っちゃったのか」
ユディトが立っていたのはエニシダが歩き去った方向だった。
いくら鍵が掛かっていない場所には危険物どころか物の少ない施設内とはいえ、幼子を一人で放っておくのは危険ではないかと思うが、普段のエニシダに言っても梨の礫だろうに今の気の立ったエニシダには期待するべくもなかった。
つい一つ溜息を落とす。
その間も、ユディトはじっと私の顔を見つめていた。
「……どうかした?」
微笑みかけても、何も言わずにじっと見つめている。
そうして間近で目を合わせていると、成る程、確かにその大きな瞳は宝石の如し煌めきを持っていた。
息を呑むような、見つめているうちに吸い込まれるような瞳は、光の加減と角度によって様々な色合いの透き通った宝石へと変化する。
何も知らない者が見れば、ユディト自身を精巧な人形だと思うだろう。
ビスクドールに嵌め込まれたペーパーウェイトグラスアイよりもむしろ人工的染みた瞳は、虹彩にはラウンドブリリアントカットを施された宝石のようだった。
ユディトが目を逸らさなかったため、自ずと見つめ合う形になる。
次の瞬間、瞳に熱さを感じた。
「え……」
瞳に、静電気のような火花が散ったようだった。
目眩に似た感覚に襲われ、ユディトを抱えていたため焦ったが、予想に反して私の体は一歩も動くことはなかった。
突然、目の前の景色が歪んだ。
自分が依然として金縛りにあったかのように立ち尽くしていることはわかる。だが、明滅した視界に意識だけが唐突に落ちた。
眼前に、いや、眼の中に――――その景色は広がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます