10章

過去 29


 最初、その見覚えのある子どもが誰だったのか、すぐに思い出すことはできなかった。

 顔を思い出せなかったわけではない。

 ただ、過ぎ去った在りし日の過去の記憶が、すぐには現実と結び付かなかっただけだ。


 エニシダ。

 呟いた声は音にはならなかった。


 箱の中のような密閉された白い部屋。

 窓一つない息苦しい閉塞感のある殺風景な部屋には、中心に一つの手術台のようなベッドだけが置かれており、やはり手術台を連想させるスポットライトが上から当たっていた。

 そこに、少年が一人座っている。

 私が思わず口にしたように、彼はエニシダに見えたが、現在のエニシダではない。

 6年前の、まだ少年だった頃のエニシダだ。


 少年のエニシダは、仄暗い炎が立っているような眼をこちらへ向けていた。

 身が竦むような憎悪と嫌悪。

 それから、決して私達の前では見せなかった恐怖と絶望の感情が、微かに、だが確かにその瞳に沈殿していて、私は息を呑む。


『さてと』


 それが正確には私に向けられた眼差しではなく、私を貫通した背後に向けられたものであったことに、聞こえてきた声によって気づく。

 振り向くと、白衣を着た男性が立っていた。

 三十代半ば程だろうか。エニシダとは違い、こちらの姿に記憶はなかった。

 顔立ちが朧気で、声と雰囲気程度しか伝わってこない。

 首から識別コードを提げているため、施設―――つまり、私達が子どもの頃いた、前施設の職員だということは見て取れた。


『何をしている? 時間がないんだから、さっさとしろ』


 威圧的な声。

 この調子は、幼い頃によく聞いた見知ったものだった。

 こうした命じる声をしている時の大人達は、従おうと従うまいと結局酷いことをする。大抵はとても耐えられないように苦しい新薬の臨床実験や、『超能力』の限界値を計るために限界まで能力を使わせられるなど、苦しいことばかりだった。

 未だに思い出せば骨が軋むような痛みが蘇る記憶に、我知れず体が冷えていく。目の前の光景は、私を置き去りにしたまま進む。


『いつも通りだ。服を脱いで、仰向けに寝なさい』


 エニシダは返事をしなかったが、その小さな体は全身で拒絶を示していた。

 その言葉と、この場の空気に、私は嫌な予感を覚えた。

 動かないエニシダに溜息を吐いた男が、黙ってエニシダにのし掛かり一発二発と殴った後、その服の下に手を入れた辺りで、その予感が現実であることを理解した。


『大人しくしないか。いつまで経っても慣れないな』


 大人の力で容赦なく何度も腹を殴りつけられ、エニシダは咳き込むこともできなかった。

 殴られながらも、幼い頃から辛辣を舐め尽くして憎悪を知った瞳は、爛々とした光を発して男を射殺さんばかりに睨みつけている。

 私は目の前の光景に呆然としながら、何故この男が『超能力』を使える子どもにこのような蛮行を働くことができるのかと疑問に思った。

 これは明らかに実験目的のない行為だ。

 この場所には人間的な倫理も子ども達の人権への配慮もなかったが、これは一職員としては越権行為に当たる。

 エニシダは攻撃系の『超能力者』だ。職員を傷つければその分だけ自分の待遇に跳ね返ってはきたが、それを踏まえて反撃を躊躇するような性格ではないことは知っていた。


 何故、と呆然と思う私は、男が発した言葉を理解するまでに数秒かかった。


『お前は顔は良いが手間がかかる。こんなんじゃ、あの大人しい女の子に頼んだほうがいいかね。あの子どもは能力面での期待値は低いが、お前達の中じゃ唯一の女だしなあ』


 その瞬間、奇妙にもエニシダは、途端に動きを止めた。


 エニシダは念力を使う。

 彼の前では、錠も手枷も意味を成さない。

 エニシダの行動を封じるのに、物理的な拘束は意味がなく、だからこその言葉だったのだろう。

 そうして私は、男の慣れた行動に、静かに理解する。

 これは一度目ではない。

 恐らく、何度も繰り返し起こったことで、それこそ男の言うように『日常茶飯事』であったのだと。


 どうして。


 目の前の光景に、私は介入できない。これが、既に起こった過去の、恐らくはエニシダの記憶だからだろう。

 触れた手は彼らの間をすり抜けた。声も届くことはない。それでも口から言葉は零れ落ちた。

 女の子。

 ゲームと称した実験後、まだ赤子であった子達を除けば、生き残った『超能力者』の中で女は私だけだった。


 エニシダが過去、私に特別優しかった記憶はない。

 暴力は振るわなかったが、それは私がアジャセやサラ・ソウジュとは違い、非力で役に立たない能力であるため眼中にもないのかと思っていた。

 だが、先程の静止は、明らかに私を庇ったものだ。

 エニシダの身にこんなことが行われていたなんて、私は少しも知らなかった。


『お前がオモチャになってくれて助かってるよ。今までは廃棄予定品のヤツらで遊んでたんだけど、これくらいの子どもはゲーム後には4人しか残らなかったろう? 『N/A』の個体には手を出すには流石に命が惜しいし、獣も理性を失くして変身されたら大惨事だ。あの女の子でも良いんだが、お前が相手をしてくれれば事足りる』


 この、言葉にできない、感情はなんだろう。

 この、胸を掻き毟りたくなるような、焼けたような痛み。


 呆然と、ただ呆然と立ち竦む私の前で、徐々に視界が暗くなる。

 自分が気絶したのかと思ったが、次に視界が明るくなった時、見えた光景は先程とは異なっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る