過去 30


 先程と同じ部屋のように思えたが、施設の部屋はどこも似通っているため、移動したのかはわからない。

 だが、先程とは異なる記憶であることは、少し成長したように見えるエニシダの姿を見てわかった。


 手術台のようなベッドの上で、エニシダは仰向けに倒れていた。


 スポットライトに照らされて、細い少年の肢体と、何の表情も浮かんでいない表情が見える。

 部屋の外からは先程の男の声が微かに聞こえてきて、今はその姿が見えないせいか、長い睫に縁取られた眼は憎悪よりも虚無を映していた。


『ああ、……はい……先方の希望は……女? 参ったな、赤ん坊を除けば一匹だけだが……ああ、まあ、その額なら大丈夫だろう。わかっているとは思うがこれは……ああ、機密保持は絶対だ。くれぐれも外に漏らしてくれるなよ。元々これ以上使いどころのない実験体とはいえ、造るのに莫大な金と法を破ってるからな。ああ。じゃあ、そういうことで』


 死体のように投げ出されていたエニシダの指が、ぴくりと動く。


 同時に、電話口に語りかける声も途絶え、しばらくしてあの男が部屋に戻ってきた。

 やれやれ、とでもいうようなわざとらしい溜息を落として、エニシダの体に手を伸ばす。

 その手に持っていた火の付いた煙草の先が、じゅっ、とエニシダの体に痕をつけた。

 肉の焼けるような臭い。横たわったエニシダの眼だけが鮮明に、爛々と燃えて男を睨み据えている。


 私の能力は目を合せた相手に自分の感情を同調させる。

 逆に私が他者の目を見ても、私には人が感じていることはわからない。

 だが、その私にも、今のエニシダの考えはわかった。


 殺してやる。


 目は口ほどにものを言う。

 その言葉が如何に正確であったか、エニシダの憎悪に燃えた暗い瞳が語っていた。


『今度、お前達の内の一人を外に売ることになった』


 エニシダの肌を撫でるともなく触れながら、男が言った。

 目だけを動かしてエニシダがそちらを見ると、男は新しい煙草に火をつけているところだった。


『ああ、安心しろ。お前じゃない。お前にはここ数年世話になってきたからな。金持ち連中のペットにするには忍びない。まあ、先方の希望が女だったからなんだが。やっぱり女のほうがどこでも何かと使い途はあるよなあ』


 男は独り言を言っているつもりなのか、ベッドに腰掛けて煙草の煙をくゆらせている。

 恐らくエニシダは男の会話に返事をしないのが通常なのだろう。

 男の口振りには、返事が返ってこないことにも、聞いているかどうかさえたいして気にした素振りはない。


『どこに売るつもり』


 だから、横たわったままエニシダが口だけ動かした時、男は一瞬人形が返事をしたかのように思ったらしい。

 一拍置いてから、男は意外そうに振り返る。


『気になるのか? お前は知らないところだよ。ウォール街って知らないだろう? アメリカNYウォール街。世界の金融機構が集まるような場所の、高い高いビルの頂上辺りの椅子に座れるようなお偉い人間は、有り余るほど金を持ってるんだよ。ああいうところの人間は、命を金で容易く買えることを知ってるから、こういう施設だって作れる』


 私は動きを止める。今、この元々の施設運営の根幹に携わる部分を男は漏らした。

 それに気づかないのか、知ったところでどうしようもないと思っているのか、恐らくは後者だろう。

 私達を作った施設の出資者。

 それは、施設の崩壊後、私達を保護下に置いた国連の人間達ならば知っていたのかもしれない。

 だが、どちらにせよそれらの情報は当事者である私達にも世界にも伏せられて、結局その全容は不明のままだった。

 つまり、アジャセによる実質的な壊滅後でさえ尚、それだけ影響力を持つ組織か存在が背後にあったのだろう。

 現実社会で力を持たない私達に出来る予想はその程度だった。


 ウォール街。

 かつて、アジャセがビル群を破壊して瓦礫の山を作り、沢山の人が死んだ場所。


 おもむろに白い手が伸びた。エニシダの手。


 花のように広がった五指が、男の顔の前に広げられる。

 一見すると、緩慢とさえ言えるほどゆっくりとした動作だったため、男も、ましてや私もエニシダの意図に気づくのが遅れた。


 エニシダの顔に、綺麗な笑みが浮かんだ。


 一瞬本心から見惚れるように、男の動きが止まる。

 次の瞬間、ぐう、とその喉から奇妙な音が漏れた。


『……っぁ、お……がッ……!』

『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねよ』


 音にすれば小さな声だった。

 だが、万感の思いが込められたような呪詛は、部屋の空気を一変させるほどの気迫があった。

 エニシダの顔からは、既に表情は消えて、ただその仄暗い眼だけが男を見据えていた。

 

 男の顔は、奇妙な形に歪んでいた。

 まるで無理矢理頭を抑えつけられているかのように、無理な角度に捻れていく。

 同時にその首もまるで雑巾を捻るようにぎゅるぎゅると力がかかっていた。

 腕や脚、それから手や足の爪先に至るまでのあらゆる箇所で、内側からぼきりばきりぐちゃりという音が響く。


 まるで、粘度で作った人形のように、男の体は壊されていく。

 エニシダの念力は、簡単に人を殺すことができる。


 そう、とても、簡単なのだ。

 エニシダが何度も何度も『死ね』と繰り返さなければならないほど、難しいことではない。


 だが、エニシダは、すぐに男を殺さなかった。

 一つ一つ、体の部位をすべて壊し尽くした頃には、男の体はおよそ原型を保っておらず、部屋は床にも壁にも血に真っ赤に染められ、その中で。


 エニシダは、ようやく安心したように、恍惚と笑んでいた。


 ――――これは、いつの記憶だ。


 そう、放心したように私が考えた時だった。


『エニシダ?』


 声が聞こえた。

 エニシダと私が、同時に振り返る。

 そうして、私は大きく目を見開いた。


『…………あれ、何ソレ死体?』


 白髪と、大きな黒目をした少年。

 光のない深い闇が凝縮したような瞳が、部屋の中をぐるりと見回した後、首を傾げてエニシダに問いかける。

 アジャセ。

 音にならない声が、私の口から零れ落ちた。

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