過去 31
『コレって』
アジャセは散歩にでも来たような気軽さで、部屋に入ってきた。
『どういう状況?』
血塗れのエニシダは、予想外のアジャセの登場に咄嗟の行動を忘れたようだった。
昂奮したように朱が上った薔薇色の頬から、ゆっくりと血の気が引いていく。
アジャセを見る眼に力が入り、その肩に緊張感が漲り微かに震えた。
エニシダは混乱していて、同時に、警戒しているようでもあった。
『何、おまえ、舌取られた?』
どうしてアジャセがここに、というのは恐らくエニシダも考えていたことだろう。
だが、少し考えれば自ずと理由に想像はついた。
アジャセは時々、自分に与えられた管理部屋から無断で抜け出し、施設内を勝手に歩き回ることがあった。
現在の施設とは違い、前の施設では至るところに監視カメラとマイクが設置されていたため、アジャセの逃亡は発覚次第すぐに施設内全体に通達されるが、アジャセの『超能力』は機器を騙すこともできた。
アジャセが本当に望み、本当にそう為したいと考えた時、出来ないことはなかった。
少なくとも、私の知る限りでは。
そしてその認識は、他者のアジャセへの評価とも、そこまで食い違いはなかっただろう。
エニシダはアジャセに何も答えなかった。
答えたくなかったのか、答える言葉がわからなかったのか、どちらかはわからない。
だが、返事の代わりにアジャセをキツく睨みつけた。
だた、その結果、瞬きを止めたアジャセの瞳に見据えられて、固まった。
『――――あっ、ふーん。そういうこと』
不意に、アジャセはそう言った。
傍から見ている私には、何が起こったのかわからずに困惑する。
そうしてエニシダを見て、驚愕に目を見開いた。
『……お、まえ……』
エニシダは、震えていた。
頭から血を被ったまま、最早自分の状態も部屋の惨状も何一つ目に入らないかのように、一心にアジャセを見つめて、怒りに打ち震えていた。
『オマエ、オレの、頭を覗いたな……ッ』
エニシダの発した言葉に、私は瞠目する。
そうして、その事実を悟った時のエニシダの様子から、それが彼にとっての地雷であったことを理解した。
そうだ。私も、他の誰も、エニシダがこのような目に遭っていたことを知らなかった。
知らなかったということは、エニシダは誰にも話さなかったということだ。
何故か。
エニシダは、知られたくなかったのだ。
自分が、こんな目に遭ったという事実を。
『おまえが説明しないから……』
流石にアジャセもエニシダの様子から彼の激昂を察知したのだろう。
珍しく若干居心地悪げに言いかけたが、途中で言葉を切った。
アジャセの目の前に、ひしゃげたベッドが飛んできたせいだった。
ベッドはアジャセにぶつかることなく逸れた。壁に衝突し、轟音を立てて落ちる。
眉を顰めたアジャセに対し、エニシダは、肩で息をして怒り狂っていた。
『オ、マエ、オマエ、オマエ、オマエ、アジャセッ! アジャセェッ! テメエ、今見たことを誰かに言ってみろ。殺すッ、絶対に殺すぞッ!』
『今見たのって、それってどっち? そこの肉塊をおまえが殺したこと? それとも……』
『黙れッッッ!!!』
アジャセは片耳に指を突っ込み、煩そうにした。
エニシダの言葉が途切れた一瞬を見計らい、口を開く。
『殺すってどっちを? おれ? 聞いたやつ? って聞いてもおまえじゃおれは殺せないから、聞いたほうを殺すしかないか。……じゃあさぁ、たとえば、おれが喋ったのがイムだったらさ』
エニシダの動きが制止した。
アジャセも静かにエニシダを見ている。
互いの視線が交錯し、やがてエニシダの低い声が聞こえた。
『テメエをぶっ殺してやる。絶対に、どこにいても、その顔ズタズタにして、舌を切り取って、魚の餌にして、生まれてきたことを後悔させて、絶対に、絶対に殺してやるぞ』
べっつにしないけどさ、とアジャセは軽く答えた。
それきり興味を失ったように視線を逸らした。
『――――まぁでも、ついでに良いこと知ったよ』
『アァ゛!?』
『うっせぇなあ。おまえのことじゃねぇよ。その肉塊がべらべら喋ってたことのほう』
エニシダの眼は最早血走っていたが、アジャセの言葉を聞いて、一度我に返ったように口を閉じた。
アジャセはエニシダを見やった。
『ニューヨークって遠い?』
『……テメエ、何する気だ』
エニシダの、警戒するような怪訝そうな眼差しに、アジャセが目線を向ける。
邪気のない笑み。残酷で、我が儘で、気紛れな、アジャセの無邪気な笑み。
べっつに~と軽く言いながら、アジャセは部屋の外に出て行く。
この後、何が起こるのか、私はもう知っている。
エニシダは、アジャセの背を追うか悩むように視線を彷徨わせて、ふと、床に落ちていた煙草の吸い殻を見つけたようだった。
肉塊を見て、血が飛び散った天井と床を見て、それから、部屋の扉を見る。
たった今アジャセが出て行ったばかりの扉はもう閉まっていた。
エニシダは床に降り立った。
ついでとばかりに床に落ちていた煙草の吸い殻を踏み潰した後、少し考える。
そうして、自分で吹き飛ばしたベッドを念力で元の位置に戻すと、その上に座り、血の海のような部屋の中で、扉が開くまで眼を閉じていた。
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