エピローグ
『きみは、ウサギが好きなの?』
かつて、問いかけた私にアジャセは難しい顔で応えた。
最期の問答で答えたように、アジャセは彼が私の眼を気に入るようになった、その根幹の理由を思い出せなかったのだろう。
あの時の困惑も同じだったのだ。
『……なんで好きなのかなって……』
あの時、私達の歳は十四だった。
私は、アジャセと初めて会ったのは、あの私達の運命を決めた実験の日だと思っていた。
施設の子ども達の中には、定期的な投薬の副作用によって、過去の記憶が曖昧な子も多かった。子ども達が里心をつかないように、子ども達同士で親しい仲を作らないように、情を持たせないようにすることは管理する大人達の側からしても都合が良かったのだろう。
私もまた、施設に来る以前のことは何も覚えていない。
そして、きっと、施設に来てからの記憶にも失っているものがあったのだ。
すべてを思い出せたわけではない。
けれどきっと、十にはなっていない頃の記憶。
私がまだ『わたし』であり、サラ・ソウジュにもまだ名前はなかった頃だ。
既にその頃から、私は常にサラ・ソウジュと一緒だった。
私の力がサラ・ソウジュの抑制になると判断した大人達によって、なるべくサラ・ソウジュの傍から離されずに過ごしていた私は、サラ・ソウジュが能力を暴走させて変身後の姿から戻れなくなった際も、同じ部屋に入れられた。
施設には能力が暴走して他者に危害を加えそうな子どもを閉じ込めておくための独房染みた部屋がいくつかあり、サラ・ソウジュが暴走を起こすと、決まって私達はその中に一月程入れられた。
成長するにつれサラ・ソウジュが能力の手綱を握れるようになるとその機会は減ったが、幼い頃は私も共に入れられるのは珍しいことではなかった。
灯りのない独房の中は、まるで土の中のように真っ暗だった。
時間が経つのがとても遅く感じられる。
同じ部屋に入れられていたサラ・ソウジュが、久し振りに人の姿に戻れたため、検査のために連れて行かれてしばらく戻って来なかったから、余計にそう感じた。
独房の中にずっといると時間感覚を失い、寝る前が昨日だったのか、それともほんの少し前なのかもわからなくなる。
冷えた床から伝わってくるひんやりとした感覚だけが、今いる場所が現実なのだと教えてくれる。
眠るか、考えるか、それかやることがない中で、私はぼんやりとしていた。
その時、ふと後ろから音が聞こえた。
『……だれ……?』
問いかけても、返事は返らない。
後ろは壁だった。他にも独房があるはずだから、その中に入れられている誰かが出した音なのではないかと思った。
私は背後の壁に近づいた。
『だれかいるの?』
返事はない。
だが、呼びかけると、聞こえ続けていた重い物を打ち付けるような音が途絶えた。
その音に、今は不在のサラ・ソウジュがよく付けられている拘束具の鎖を思い出した私は、それが向こう側にいる誰かが拘束されている状態で暴れているのではないかと思った。
拘束も程度によるが、暴走時のサラ・ソウジュは指一本動かせないほど雁字搦めにされている。
身動きが取れずにいる体勢が苦しいのか、なんとか身を捩ろうともがく、その時の音とよく似ていた。
壁の向こうの相手は、誰なのだろう。
自分と同じ子どもなのだろうが、どうして拘束されているのだろう。
そんなふうに疑問に思ったことの答えは当然わかるはずもなく、私は思考に沈む代わりに、向こう側の子に話しかけることにした。
『どうしたの? いたいの?』
返事は返ってこない。
壁のせいで向こうの様子を見ることはできないから、起きているのかもわからなかった。
だが、なんとなく、壁の向こうの相手がじっと耳を澄ませているような気がした。もがく音が途絶えたからかもしれない。
実際のところはわからなかったが、そんなような気がしたから、私は壁の向こうの誰かに話しかけ続けた。
言葉が返らない会話は、とどのつまりはただの独り言だ。
サラ・ソウジュが理性を失っている間にそうして話しかけていると、彼は決まって少し落ち着いた。
慣れていたから、返事がないこともさほど気にならなかった。
ぽつぽつと、とりとめもないような話をした。
他愛のない、どうでもいい話をしている間、音はずっと止んでいた。
壁の向こうの気配は、つまらなさそうに、退屈そうに、私を無視していて、だけどやはり何故か聞いていることはわかった。
私は話した。友達のサラ・ソウジュにいつも話していたように。
最近覚えた文字のこと。
薬の味の違いがわかるようになってきたこと。
近い識別番号だったから覚えていた子どもを最近見ないということ。
大人達の話している難しくてわからない言葉。
出される固形物の食事の中で好きなもの。
ウサギの話。
『ウサギの目はね、赤いんだって。この前、絵本で読んだんだ』
それから続けて、私の目も赤くなるのだと言おうか少し迷ってやめた。
『超能力』の話は、この場所で一番に自分を自分たらしめているものだったが、なんとなく、あまりその話はしたくなかった。考えて、楽しい気持ちになれることを話したかった。
『ウサギって、小さくて、ふわふわしてて、あったかくて、かわいいんだって。いつか、外に出られたら、本物を見てみたいな。きっと、そんな生き物を触れたら、幸せな気持ちになるよね』
ここから出る。外の世界。
それはまさしく夜眠る前に想像するような夢物語だったけれど、考えると注射の痛みも投薬の副作用も少し遠のいて、その時だけは想像の中で生きられた。
『いつか、ウサギ、見てみたいな。きみもそう思う?』
返事はやはり返ってこない。
だが、問いかけるだけで満足して私もやはり気にしなかった。
赤い目をしたウサギ。私と同じ赤い目。壁越しの気配は依然としてそこにある。
何も言わず、けれどそうしていると何故か背中を合わせて座っているような心地になった。
私は瞼を閉じて、その裏で夢を見る。
扉は開かない。返事は返らない。外の世界も知らない。
それでも今、この眼の中に、赤く光を発する感情がある。
次に開いた時、暗闇を抉り取るような耀きであれるように。
この眼の中に、今はまだひとり、淡い光を温めた。
この眼の中に。 回向 @yukineko825
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