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 北極圏では、厳しい寒さの影響で土葬しても遺体は腐敗しにくい。

 分解もされないことから、体の中に残された感染症などのウイルスや病原体も残される。

 特に、常に外気から遮断されて常に一定の温度を保つ海中では、死蝋化して限りなく生前の形を留めたままの永久死体となる。


 アジャセが望んだように、私は彼の脳の片鱗さえも渡したくはなかった。

 だから、他の体のパーツはひとまず置いて、頭部だけを抱えて、外へと繋がる緊急用脱出口へと向かった。


「……アジャセ、きみって子は」


 両手で挟んだアジャセの顔を見つめて、私はつい苦言を呈さずにはいられなかった。

 腕の中に視線を落とすと、アジャセの頭部の他に、姿勢を苦労して抱いているおくるみがあった。


 布の中には、まだ生後せいぜい数日程度に見える赤子がいる。


 アジャセが死んだ後、石段の下を探して見つけた子だった。

 先程泣いた赤子は、今は静かになって眠っている。


 ユディトとは違い、男の子で、まだあまりに幼いため顔立ちはわからなかったが、目と髪の色はエニシダに似ていた。


 やっぱり、この子もそうなのだろう。

 アジャセの最期の言葉を思い出して、私は溜息を零さずにはいられなかった。


 人をなんだと思っているのか、という気持ちは、恐らくはまた勝手に自分の知らないうちに血を分けた子どもを作られていたこともそうだが、新しい命を身勝手に生み出したことに対してのものだった。

 だが、そう考えると脳内のアジャセが『世の中の親って皆そうだろ?』といけしゃあしゃあと語りかけてくる気がして、私はもう仕方が無いような気持ちになってしまった。


「……さようなら、アジャセ」


 体の部位と部位を繋げるパーツはほとんどが落ちたが、頭部はこれ以上崩れそうな気配はなかった。

 私は水中へと繋がっている緊急脱出口の淵に立って、もう一度その額に口付けをすると、手を放した。


 アジャセの瞳を連想させる深い海に、アジャセの頭が落ちていく。

 やがてその頭は底に辿り着き、上手くいけば朽ち果てることもないまま、綺麗に残るだろう。



 □




 外に出ると、頬が熱くなるほどの凍った冷気に包まれた。

 待機していたオルシーニが、私に気づいて近づいてくる。


 その姿を視界の端に入れながら、腕に抱いたおくるみを強く抱え直し、私はふと、視線を持ち上げた。

 この地域では、春から夏にかけては白夜となり、秋から冬にかけては極夜となる。

 

 満天の星空にオーロラの幕が下りていた。


 カーテンのように揺らめく眩い色は、真っ白な世界に浮かび上がるようで。

 自然と息を詰めていた私は、ゆっくりと白い吐息を落としながら、ただ世界の果ての景色を見上げていた。


 そうして、次の瞬間、天啓のようにそれは降ってきた。


「え……」


 蘇った記憶に、私は瞳を瞬かせる。


 釘付けにされたように立ち竦んで、やがて、あ、と小さな声が口から漏れた。

 震える手を必死に保つように、腕の中の温もりを強く抱き締める。


 そうして、崩れ落ちると、滂沱の涙を流して泣いた。

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