35



 北極圏では、春から夏にかけては太陽が沈むことのない白夜となる。

 秋から冬にかけては、太陽が沈んだままである極夜。


 常に寒々しい白い景色の中に埋もれた施設のある場所よりも、流石に最北端となるとこちらの寒さのほうが冴え冴えとして凍るような寒さがある。

 ずっと冬の中にいるようだったからほとんど希薄になっていた季節感は、ここでは空を見上げることで取り戻せる。

 呼吸一つに痛みが伴うほどの冷気。

 唐突に凍った湖に突き落とされたような感覚によって、神経が研ぎ澄まされ、意識が冴えていく。


 オルシーニは、中にはついてこなかった。

 鍵を解錠した後、「それじゃあここで待ってます」と言って手を振った。

 あらかじめ頼んでいたのは私自身だったが、律儀に本当に付いてこないとは思わなかった。


「後ろからバンとするのはやめてくださいね」

「麻酔銃は利くんでしたっけ。でも普通の銃弾と一緒で、避けられちゃあ意味がないんじゃね。心配しなくとも、こっちはどうしたら捕まってくれるのかアイデアが尽きかけてるんで、この場は貴方にお任せしますよ」


 確かに目の前で遠隔転送なんていうSF小説の世界観を見せられたら投げやりな気持ちにもなる。どこまでが本気かはわからなかったが、とりあえずはついてこないことを確かめると、私はゆっくりと地下へ降りていった。



 □



 氷河の中に穿たれた大きな穴。

 海の底へと沈むように下へ下へと降りながら、私は考える。

 自分がここにいる意義を。

 きっと、私が行かなくても何の問題も起こらない。

 私がやらなければ、誰かが必ずやる。

 これはそういう問題だった。


 私でなくとも構わない。

 アジャセを捕まえたい人間も、殺したい人間も、この世にはごまんといる。

 そうして、私は必ずしもそうしたいわけではなかった。

 たとえそれが避け難い運命で、世界のすべてがアジャセに指を指しても、私がアジャセを憎むことにはならない。


 だからこそ、私は行きたいと思った。

 もう一度この目で、アジャセを見たいと思った。


「あ、やっときたんだ」


 階段を降りきった先の最下層。その最奥に足をつけた瞬間、声が聞こえた。

 そちらへ視線を向けると、まったく想像していた通りに、アジャセがいた。


 地下だというのに氷の反射のせいか、青く、静かな明るさに満ちた部屋。

 想像と違ったのは、そこにいたアジャセが棺桶のような石段の上に、死体のように寝そべっていたことだった。


「遅いよ。うさちゃん。ノロマ」


 私は我知れず、息を呑む。


 最後にインドで顔を合わせた時から、アジャセの姿は一見すると変わってはいなかった。

 だが。大きすぎるほど大きなその真っ黒な瞳は、どこか茫洋としてより一層深淵を覗き込むような感覚を覚えた。

 まるで、死体が動いているようだと思った。

 そう自然と思ったことに、悲しい気持ちになった。


「…………アジャセ」


 もう一度会ったら、言いたいことや聞きたいことはたくさんあった。


 この6年間どうしていたのか、どのように暮らしていたのか、どのように感じることがあったのか、どんな些細なことでもアジャセの痕跡を知りたかった。

 勝手に人の子どもを作って、多くの人を犠牲にして、その意図がなんだったのか、それでアジャセに得るものはあったのか、聞きたかった。

 だが、いざアジャセを目の前にすると、すべての思考が消えて、真っ先に泣きそうな声が落ちた。


「アジャセ、もう、体がダメなの?」


 私の唐突な問いに、アジャセは特徴的な黒目をこちらへ向けた。


「なんだ。気づいてたんだ」


 そうして、あっさりと肯定した。


 ――――何故、今なのか。

 6年間、何の音沙汰もなく、久方振りの再会はまったくの唐突だった。

 アジャセは昔から常に衝動的だったから、脈絡のない唐突さも、気紛れを感じさせる読めなさも、今に始まったことではない。

 けれど、最初からずっと気になっていた。


 どうして今なのか。

 どうして今、私達の前に姿を現わして、呼び寄せたのか。


「………体に、ガタがきてるの」

「ソ。おれたちの中じゃサラ・ソウジュが一番早いかと思ってたんだけど、この前見たらアイツかなりピンピンしてたね。ムカつく。まあ、おれが一番強かったってことだよな」

「無茶をずっとしてたからだよ」


 眉を寄せながらつぶやいた私に、アジャセはべっと舌を出した。


 アジャセの傍に近寄って、私は何故アジャセが起き上がらないままなのか理解する。

 生贄を捧げる祭壇のような石段の上、投げ出されたアジャセの脚はほとんど黒ずんで腐り落ちていた。


「これは、いつから」

「インドで会った時にはまだ膝辺りまでだったんだけど、一気に進行してさあ。もしかしたらうさちゃんがこないまま死ぬのかなって思い始めてたトコだったよ」


 他人事みたいな口振りでアジャセは言う。

 深刻な気配が欠けた口調とは裏腹に、ドス黒く偏食した脚の見た目は凄惨だった。


 『超能力者』は、先天的な脳の欠損に後天的に人為的な手を入れて出来上がる。

 ヤクモ・アキグサの言っていた通り、それは確かに、能力というよりは病気か障害に違い。


 生活をする上で、能力を安定させ、痛みを緩和させ、情緒を安定させ、破壊衝動を抑制させるための大量の投薬を欠かすことはできない。

 それでも尚、『超能力者』は常に体かあるいは心のどこかに不具合を抱えているのが常だった。

 ずっとアジャセのことを心配していた。

 私達は外に出て、自由に生きられる体ではない。

 薬を切らせば頭蓋が軋むような痛みに苛まれ、絶え間ない吐き気に襲われるような感覚を、アジャセは一人で耐えているのだろうかと考えを巡らせていた。


 そっと触れると、生温かい肉の中にじゅくりと指が沈んでいく。

 痛む、と微かに震えた声で問うと、アジャセは「もう感覚はないからべつに」とどうでも良さそうに言った。


「まあ、でも、うさちゃんがここを知るのは無理かもなとも思ってたから、意外だったよ。こうしてちゃんと来てさ。コレ夢じゃないよね? 死ぬ時ってなんだっけ、幻みるんじゃなかったっけ? ソウマトーってやつ」


 ヤクモ・アキグサの脳の一部分に潜ませたアジャセの居場所は『ある感情』を想起することで思い出す仕掛けになっていた。

 ある感情。

 アジャセが決めたトリガー。

 それを知らなければ、アジャセのもとへは行けない鍵。


「夢じゃないよ。鍵があの感情だったのは、アジャセの意地悪だったの?」

「べつに。ああいう感情をうさちゃんが知らないなら知らないで、そのままでもいいと思ってた。知らないで、おれのところに来られないなら、そっちのほうがおまえにとっては良いんだろうなってことはわかってたし」


 アジャセの隣に腰を降ろした私は、アジャセからそのような言葉を聞くとは予想もしていなかったから驚きに止まった。

 ある感情。

 私が知らなかった、一人では思いつくこともなかった感情。

 私達の中で、私だけがずっと、それを知らないままでいられた。


「……ねえ、アジャセ」


 私はアジャセに話しかける。

 なんてことのないような素振りだったが、アジャセの体からは既に払いきれないほどの色濃い死の気配が漂っていた。

 誰がどう見ても崩れかけの体。

 どのくらいまだ『超能力』を使えるのかは不明だったが、アジャセのこの状態を知れば、オルシーニは殺せると思っただろうか。

 殺すことよりも、その命が尽きる前に、国際機関に身柄の引き渡しをすることを優先したかもしれない。


 どちらにせよ、それを私は望んでいない。

 アジャセも望んでいないから、私を呼んだのだろう。


「どうして、ユディトを作ろうと思ったの」


 アジャセはじきに死ぬだろう。

 それが数分か、数十分か、数時間後かはわからなかったが、いつ死んでもおかしくないようには思えた。

 だからそれまでの間、確信的な話題は避けて、空いていた時間の空白を埋めるように身のない会話をすることもできた。

 けれど私は、知りたかった。

 アジャセの命が尽きる前に、アジャセの話す声を、姿を、この目に焼きつけておきたかった。


「おまえを殺したくなかったから」


 アジャセの声に特別な感情は篭もっていなかった。

 私が知る常のアジャセの声。

 それなのに、私はその音の響きに動けなくなる。


「おまえを感じたかったから」


 アジャセは、億劫そうに頭を倒した。

 光のない吸い込まれそうな黒目が、私を見据える。


「イム。おまえが好きだったから」


 ただそれだけの理由。

 それだけ言って、アジャセは目を逸らし、それ以上は何もないとでも言うようにまた口を閉じた。


 私はしばらく言葉が出てこなかった。

 アジャセの言葉は答えになっているようでなっていない。


「……私と、同じ目を作ろうとしたの?」


 確かに、ヤクモ・アキグサも述べていたように、アジャセの『目』への執着はもとは私の目に端を発しているのだろう。

 私と初めて会った時、アジャセは私の目に興味を惹かれて私を殺さなかった。


「うん。でも、『超能力』なんて偶発的事故みたいなもんだし、ちょっとでも似たような目ができたら良いな程度で、そんなに期待してなかったけどね」

「それならどうして、私に会いに来なかったの」


 簡単に言っているが人を作ることは簡単なことではない。

 かつての施設はそれを組織ぐるみでやっていたが、それは充分なスポンサーと後ろ盾がいたからできたはずのことで、いくら非合法組織を使ったからといって莫大なリスクと手間暇に時間がかかる。

 その癖して、成功するかもわからない。

 求めているのが私の目ならば、本人を連れてくることで簡単に解決できる。

 私の至極もっともな戸惑いに、アジャセは半目を向けた。


「だから、殺したくなかったからだって。会いたかったけど、おれ、あんまりおまえに近づくと殺しちゃう気がしてたんだよね」


 私は今度こそアジャセの言葉を理解して、放心した。


 私の目が欲しかった。

 私を感じたかった。

 私が好きだったから。

 だけど、私に会ったら私を殺しそうだったから、別の目を作ろうとした。


 脳内で一度言葉を整理して、めちゃくちゃだ、と堪らず呆気に取られたような気分になった。


「………アジャセ。どうして、この目を求めていたの。はじめて会った時から、ずっと」


 半ば途方に暮れながら、私はそもそもの発端について尋ねる。

 本人が殺したくなかったと言っているのだから、今は確かに私個人のことも好いているのだろう。

 だが、出会った当初のアジャセは、私を殺すも殺さないも興味がなく、ただ、力を使う時に赤くなるこの目にだけ関心を示した。


 明確な理由があると思って尋ねたわけではない。

 だが、何でもいいから、アジャセの口から彼の答えが聞きたかった。

 気紛れでも、なんとなくでも、気に入った石を拾い上げて宝物にするような子どもの心のようなものであっても、気に入った理由などなんでもいいけれど、何故だか無性に気になった。


「さあ。なんでなんだろ。おれもずっと考えてたけど、思い出せないんだ」


 だが、アジャセの返答はやはりはっきりとしなかった。

 アジャセは息をしているか不安になるほど微動だにしないまま、無機質に言葉を紡ぐ。


「実を言えば、この6年間の記憶も随分虫食いなんだよね。ちょこちょこ忘れてるっていうか、たまに記憶が飛び飛びになっているところがあって、そういう時期にユディトは作った。眼を集めてたのもそう。たまに見覚えのない眼が増えてたりして、まあ結局、意識がちゃんとしたら全部ガラクタに見えて捨ててたんだけどさ。欲しかった物を手に入れたら飽きるってやつかと思ったけど、久しぶりにイムに会って、わかったよ」


 アジャセの表情は先程から少しも変わらない。

 その真っ黒な瞳と口だけを動かして、どのような感情に支えられた言葉であれ、淡々と紡ぐ。まるで人形のように。

 その様子を眺めながら、私は、もしかして、と一つの仮定に行き当たる。


「欲しいのはその眼だけだった」


 感情の篭もらない、静かな声。

 アジャセ、と私は呆然と彼を呼ぶ。


「――――もしかして、もう感情も動かないの」

「人を非人間みたいに言うなよ。おれを人間だって言うのはうさちゃんだけだったのに。べつに、脳にガタがきて、いろんな機能が麻痺して、ちょっと感じづらくなってるだけだよ」


 でも、この状態でもまだほとんど能力は使えるんだ。というよりも、他の脳機能が使えなくなっていくにつれて能力はもっと強くなった。でもこうなったらもう生物としてダメなんだろうな。この体には負荷がかかりすぎるから死ぬっていうのはわかるんだ。


 おれはさあ、とアジャセは滑らかな語り口のまま話を続けたが、その口から落ちたのは、今までの会話とは繋がっていない脈絡のない言葉だった。

 それが私の知るアジャセの気紛れなのか、それともそれも壊れゆく脳がアジャセにそうさせているのか、私にはわからない。


「おまえが一番狂ってると思ってたんだよね」


 なにを、と戸惑う私に説明するように言う。


「うさちゃんくらいだよ。あの場所で、友達とか仲間とか人の痛みとか気にしてたの。あんなとこで、自分以外のためになんかする奴なんて、本気で気が狂ってる」


 何の話かわからずに困惑する私に構わず、そこまで言ったアジャセは、ああ、そっか、だからか、とふと気づいたようにつぶやいた。


「だからきっと、おまえの瞳はおれを抉ったんだね」


 気が狂っていればいるほど強い力を持っている。


 それはアジャセの持論だった。

 一面では正解でもあったその考えをアジャセは今でも持っていたのか、だから一番あの中で異常だったうさちゃんはおれたちに対して強かったのかぁ、と独りごちたアジャセは、まるで新しいことを知った子どものように無邪気だった。


「ちがうよ、アジャセ。私は、そんなに良い人間じゃないよ」


 私は、何と答えればいいのかわからなかった。

 この場でどんな言葉が相応しいのかさえわからないでつまらない返しをした私に、アジャセはやはり淡々と言う。


「でも人間ではあるんだろ。それで、うさちゃんからしたらおれも人間なんだよね。だから頼みたいんだけど、おれがここで死んだ後、おれの脳どっかに捨ててくれねえ?」


 驚愕に目を瞠ると、そもそもそれ頼みたくて呼んだんだよね、と続けざまに衝撃の告白をされてさらに混乱に突き落とされる。


「どういう―――」

「いやおれの脳ってさ。たぶんおれが死んだ後も取り出されてどっかの国とか研究機関とかで利用したい奴がいるだろ。べつに死んだ後ならどうでもいい気もするけど、なんかキショいし、うさちゃんが間に合ったら頼もうと思ってたんだよね」


 自分のことを話しているはずなのに相変わらず世間話でもするような口振りだったが、その内容は私を驚かせた。

 アジャセの言葉を呆然と聞きながら、私は、もしかしてと不意に閃く。


「居場所を知る鍵を、あの感情にしたのは……」


 私のつぶやきをアジャセは至極当然のように肯定した。


「だって、『殺意』を知らない奴に自分を殺すの頼むのは合理的じゃないだろ」


 意味があったのか。

 鍵となる感情が『殺意』であると知った時、アジャセの嫌がらせをちらとでも疑わなかったと言えば嘘になる。

 だが、確かに、そう言われて考えれば、アジャセはそんな迂遠な方法は取らないだろうと思った。


 殺意。

 人を、殺したいと思う感情。


 それを私が知ることが、アジャセの居場所を明かす条件だった。

 確かに、私一人では極めて難しい条件だった。

 私は人を憎んだことがない。

 憎む必要がなかった。自分のことだけならば。


 けれど今、私は知っている。

 私の中には、燻り消えない火種のような殺意が確かにあることを。


 それは本来ならば、人間の中に組み込まれた本能の一部なのだろう。


 ヤクモ・アキグサが言っていたように、攻撃性は必ずしも遺伝子にとって不利益をもたらすものではなく、不合理なものでもない。

 それはれっきとした生存本能に根差した、遺伝子保存の法則の一つだった。

 人の間で生きる以上、内外から抑制を求められる破壊衝動は、しかし、自分の生にとって蔑ろにできない何かを害されそうになる時、とめどなく溢れて現れ出る。

 私の場合、私の同胞達がそれだった。


「アジャセ。私に、きみを殺させるつもりなの」


 今や私は理解していた。アジャセの意図を。それでも問わずにはいられなかった。

 今まさに目の前でアジャセの命の灯火が消えかけているとわかっていても、それはあまりに、私にとって酷な事実だった。

 アジャセがもう、ダメなのかもしれないということを、考えなかったわけではない。

 それでも、こうして目の当たりにするとどうしても信じられない気持ちになる。

 あのアジャセが。

 私達の暴君で、気紛れで、残酷で、無邪気で、子どものままのようなアジャセ。


 そう。アジャセはずっと子どものままだった。

 私達と別れたあの時から変わらない。

 この姿も、能力の弊害だと最初に気づくべきだった。


 だが、気づいたところで一体私に何ができたというのだろう。

 結局、アジャセの望み通りに、私が彼を殺す以外にできることなどなかった。


「アジャセ。私、アジャセに聞きたいことがあった。答えてくれる?」

「いいよ。その代わり、答えたらそろそろ頭撃ち抜いてくれない? おれの体、どうも脳が完全に死なないと上手いこと死ねないっぽいんだよね」


 私は息を呑んだが、一拍置いて。わかった、と了承した。


 自分が今どんな顔をしているのかわからなかったが、いいねもっとそういう顔してよ、とアジャセが無表情でも愉快げなことがわかる言葉を発したので、つい微笑んでしまう。


「アジャセ。ねぇ、本当にこれでよかった? 後悔してない?」


 今から死にゆく人間に、こんなことを聞くのは酷であることはわかっていた。

 今更後悔していると言ったところで、それが本人にとって何になるというのだ。

 自己満足以外の何物でもないと知りながらも、私は聞きたかった。

 アジャセは自由だった。

 気ままで無邪気で残酷で、自分のしたいことのために人を踏み躙ることを厭わなかった。

 そうして今、因果応報という言葉があるように、こうして代償を自らの体で支払っている。


「代償なら、とっくに支払ってたよ。生まれた時にさ。だから、なんとも思わないな。思う脳神経がもう動いてないだけかもしれないけど」


 アジャセの言う通り、最早自分の感情の機微もわからない彼の答えが本当に本心なのか、私には判断する術がない。

 それでも、嘘などつかないアジャセが言い切ったのだから、私はそっかと答えた。

 そうしてアジャセの人形のような手を黙って握った。


「アジャセ」


 銃はオルシーニから預かっていた。

 撃鉄を起こし、引き金に指をかける。

 額に口付けを落とした場所に、銃口を当てる。


「さようならだね」

「うん」


 私は最後に、アジャセと目を合わせた。


 目頭が熱くなる。

 感情をはじめとした感覚のほとんどが既に失われているはずのアジャセが、目を合わせたところで果たして私の感情を感じ取れるかもわからない。

 それでも、少なくとも私の眼球は今、アジャセが好きだと言ったそれに変わっているはずだった。


 すべてを吸い込む黒目を、私は覗き込む。

 仄かに熱を持った目を、一心にアジャセに注ぐ。


 そうして、その頭を撃ち抜く直前。

 すべてがスローモーションのように思えた。

 アジャセの口が象った音さえも。

 

 パン、と乾いた音がして。

 アジャセはそれきり動かなくなった。



 私はしばらく放心したようにアジャセの顔を覗き込んでいた。

 私が引金を引く寸前、ふと思い出したように黒い目を瞬いたアジャセの発言が、呆然とする頭の中で繰り返される。


『そうだ。今度は名前、うさちゃんがつけてやってよ。おまえの子だしさあ』


 答え合せをするように、アジャセの体の下から微かな泣き声が聞こえた。

 はっと我に返って様子を探ると、それはアジャセの寝そべっていた石段の中から響いているように思えた。


 まさか。


 慌ててアジャセの体を抱き上げようとして、そのあまりのい軽さに不意にぽろりと涙が零れ落ちた。

 すると、まるでその涙と連動するように唐突に、ぼろ、とアジャセの身体が崩れた。

 慌ててかき集めようとしてもあっという間にぼろぼろと崩壊して、腕が、脚が、手が、頭が落ちた。

 呆然とかつてアジャセだったものを抱き締めながら、私はなんとか石段を持ち上げた。


 そうして、中から現れたものに目を見開いた。

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