終章

34



 アジャセがどこにいるのか。

 思えば、アジャセは全部自ら口にしていた。


 アジャセは昔から歯に衣着せない物言いをして、人に対する気遣いもなかったが、嘘はつかなかった。

 嘘をつく人間には大抵、何かしらその嘘によって守りたいものがある。

 見栄やプライド、友情や信頼。

 人間関係を潤滑に保つためのあらゆる気遣いと欺瞞の類いを、アジャセが一切持ち合わせていなかったのは、彼には自分の感情に率直である以上の守るべきことがなかったからだろう。

 私達は何も持たない子どもだった。

 子どもが持つべき、希望や夢や願望も何もない。

 だから、私には皆がすべてだった。




 ノルウェーの北端沿岸部。

 そこを一㎞程度北上した北極圏の狭間に、スヴァールバル諸島という氷が浮かんでいるような群島がある。

 年々温暖化の影響で氷が溶けていることを踏まえても、人が住むにはあまりに過酷な気候のために、今や地球上で徐々に消滅しつつある文明の気配がそこまで色濃くない地域の一つだ。

 スヴァーバル諸島の中で人の住む有人島は一つであり、そこいはノルウェー政府がかつて永久凍土をぶち抜いて地下に作ったスヴァールバル世界種子貯蔵庫がある。


 その場所こそ、アルティマ・トゥーリ(世界の果て)。


 まさしくアジャセの言った通り『世界の果て』にある、世界種子貯蔵庫だという。


「元々は世界の農業の遺伝的多様性を代表する何百万粒もの種子を保存する次世代に向けた貯蔵庫です。確か保存している種子は小麦だけでも6000種近かったと思いますよ。現代の生物多様性を冷凍保存して残すことを目的とした倉庫です。そういったことを目的とした倉庫は他にもありますが、まさにそこからもう少し北上した先、つまり北極圏の公海ですね。どこの国にも属さない地域に、これまた永久凍土をぶち抜いて作られた国連下の研究機関の小型種子貯蔵庫があるそうです。立地が立地なため、まあ、知らなければ行かない場所ですよね」


 まあそこは種子貯蔵庫と言っても、保存しているのは人の種なんかの遺伝子情報ですが。

 ヤクモ・アキグサから場所を聞き出した後、一応はこちらの言い分を聞いて私を含めた極少数で向かうことを了承したオルシーニは、三度目の機上で今から向かう場所の説明をしてくれた。


「お願いしておいてなんですが、よかったんですか? 私達だけで」


 先のインドでの任務も少数部隊に見えたが、あれはあれで私達の見えない裏で多くの人員が割かれていた。

 しかし今回は本当に少数での移動だった。

 機上のこの区画には、オルシーニと私しかいない。

 パイロットを除けばオルシーニの極数人の部下も同乗してはいたが、彼らは特殊部隊の戦闘員ではなかった。

 世界最悪の犯罪者を捕まえに行くことが目的としたら、いくらなんでも用意が足りなさすぎる。

 施設の他の人間に感づかれる前にとオルシーニを急かしたのは他でもない私だというのにどの口がというような質問だったと言ってから思ったが、オルシーニは普通に答えた。


「場所が場所でしたしね。名目上は公海ですから、あんまり大規模に動くとそれはそれで問題になるんですよ。種子貯蔵庫ごと爆破しても良いか一応お伺いも立てたんですが、あれには世界各国の要人のみならず貴重な遺伝病や絶滅した少数民族の遺伝子情報も保存しているらしいんで、とんでもないってことで許可は下りませんでしたし。もうこうなったらイムさんの交渉力にかけるくらいしか手はありません。それよりも、それはこっちの台詞じゃないですか? 本当に良かったんですか。彼らを置いていって」


 無論、良くはないだろう、と私は口に出さずに思った。


 アジャセのもとに向かうことを、私はサラ・ソウジュとエニシダには告げなかった。

 ヤクモ・アキグサから居場所を聞き出した後は、同席していたオルシーニが手配した輸送機に乗ってすぐに施設を離れた。

 仮にも機密任務のために使われる特別軍用輸送機である。

 普通の便とは違い、足取りを辿ることは個人では流石に厳しい。

 いくらサラ・ソウジュの鼻が人間では有り得ないほど利いても、常識的な距離というものはある。


 一応考え得る限りの誤魔化しの対策は打ってきたが、露見するのは時間の問題だ。

 だが、気づいた頃には既に追いかけようがない。

 勿論、無事に帰れたならば、私はとても詰られるだろうことは容易く想像できた。

 多くを連れて行けない以上、オルシーニとしては唯一生身でアジャセと渡り合える可能性のある『超能力者』二人の同行は歓迎だったようだが、私が「アジャセと戦うことにはならない」と強固に反対して押し切った。

 実際にその確信があったわけではない。

 だが、二人を連れてきた時の被害の甚大さのほうには確信があった。


「その、今から行く種子貯蔵庫。そには、私達の情報もあるんですか」


 問いには答えずに話題を変えた私に、オルシーニは苦笑したが、話を元に戻そうとはしなかった。

 あるいはその苦笑は、私の今の質問に対するものだったのかもしれないと、彼の答えを聞いた後に思った。


「まあ。どっちも国連の管理下にある施設ですからね。貴方達がどんなふうに世界に向けて説明されているかを考えれば、あっても可笑しくないんじゃないでしょうか」


 聞くまでもなかったことだ。

 わざわざ答えに手間をかけさせてしまったと思って謝ると「やめてくださいよ。それに関しては、どう考えてもこっちが悪いでしょ」と笑い混じりの声が返ってきた。

 その返事を意外に感じて、そうでしょうか、と私が相槌を打つと「そうですよ」と何故かオルシーニが呆れる。


「普通は本人に無許可で当たり前みたいな顔で精子や卵子を保存したりはしません」

「……ああ、そっか。そうですね」


 自分の体に関わるものは、体調からその日の食事の内容、一日に行った出来事や歩いた歩数まで計測され、常にモニタリングされることが日常だと、自分の体が自分の物だという感覚も薄くなっていく。

 感慨も薄い私のぼんやりとした返事に、オルシーニが冗談混じりに言う。


「それに、もしかして忘れてます? 俺も一応こんな目ですし」

「そうでしたね。私と似ています」


 その言葉にはすぐに返事ができて、微笑むとオルシーニは何故か虚を突かれたような口を閉じた。

 少し待っても返事がなく、私は小首を傾げながらも、思い出したことを口にする。


「でも、Mr.オルシーニ。貴方のせいじゃないですよ」


 オルシーニは怪訝そうな顔になった。

 何の話かと見当が付かない表情に、私は薄らと笑むのみで説明はしなかった。

 それは、先程のオルシーニの、こっちが悪い、という言葉に対してだった。

 こっち、あっち。そんなふうに区別をつけるとしたら、オルシーニの中では私と彼は対岸にいるのだろうか。

 けれど、似ている、と彼が肯定した時点で、私の中で彼はこっち側だった。


「それに、貴方はこうして私に協力してくれましたし」

「……俺と貴方は〝似ている〟んでしょう? 似たもの同士のよしみですよ」


 まるで思考を読んだかのような言葉に、私は思わずまじまじと彼の顔を見つめてしまう。

 なんですか、と少し気まずそうに眉を寄せたオルシーニに「もしかして、貴方の目にも何かしらの力が?」と聞くと「は?」と気の抜けたような返事の後に否定されたので、偶然の一致だったのだろう。


「ありがとうございます」


 少し愉快な気持ちになって微笑みながら礼を言うと、オルシーニはよくわからなさそうな微妙な顔で私を見つめ返した。


 オルシーニがここにいるのは、それが彼の仕事だからだ。


 だが、そうとわかっていても、似たもの同士という軽口は、生まれてから今まで僅かな似たもの同士で肩を寄せ合って生きてきた身に、染みるような優しさに思えた。


 それきり、二人とも何を話すこともなく。

 会話はないまま、やがて輸送機はその場所へと降り立った。

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