7章

現在 16

 部屋の中に舞台装置のように置かれた椅子。その背もたれに肘を置いて、後ろ向きに行儀悪く跨がっていた。あの頃と何一つ変わらない、15歳の少年のような姿で。


「どうして」

「うさちゃんの頭ン中。扉に触れると発動するようにしといたんだよね」


 何が起こったかわからず動揺する私に、アジャセはなんてことのない口振りでとんでもないことを言った。私の頭の中。ここが。私は部屋の中に立っている。もう今はない施設の一室。白く、清潔で、四角く、窒息しそうな部屋。

 不意に自分の足元が崩れ落ちていくような錯覚に陥った。アジャセ。アジャセ。喘ぐように呼吸をして、やっとのことで彼を見やる。


「アジャ、セ」


 どうして、と口から零れ落ちかけた言葉は、一体全体何に対しての『どうして』だったのか自分自身でさえわからなかったから、結局喉奥に留まった。何も言えずに立ち竦む私と比べて、アジャセはまるで流れた時など何一つなかったかのような顔で話しかけてくる。


「うさちゃんは元気そうだね。アイツは元気?」

「……アイツ?」

「おまえのワンちゃんだろぉ。うさちゃんと一緒で6年前からどうしてるのか知らねーけど、飼い主の傍から引き離されて今頃吠えまくってそうだね」


 おまえさっきまでアイツのこと考えてただろ、名前が浮かんだからおれも久しぶりに思い出したな。

 アジャセの面白そうな声音がぐわんぐわんと耳の奥でこだましているような気がする。頭の中をぐちゃぐちゃにする。ふと、先程まで思い出していた記憶を引っ張り出す。そういえばアジャセは人の頭の中を覗けたのだった。


「大好きなうさちゃんがこうしておれと顔を合わせてるって知ったら、余計発狂しそうだ。アイツはおまえの傍にあるもの全部嫌いだったし」


 エニシダも同じようなことを言っていた。もしかしたら、私が知らないところで何かあったのかもしれない。彼らはあの頃からずっと小さなものから大きなものまで喧嘩ばかりだったから、驚くようなことではなかったけど。


「アジャセ」

「ウン?」

「聞かないの。なんでここにいるのって」

「おまえの頭の中にいるのに?」


 かわいいね、うさちゃん。相変わらず。

 アジャセが目を細める。それは私の見たことのない仕草だった。掌の中に収まる小さくて握りつぶせてしまいそうな温かいものを見るような眼差しだった。それで本当に、ああこれは本物の今のアジャセなのだ、と理解してしまった。私が知っているアジャセなど、元々そう多くはなかったはずなのに。


「ねぇ、うさちゃん。良い機会だし見せてよ」

「……なにを」

「さっきうさちゃんがアイツのこと考えてたからさ、思い出したんだよね。おれ知りたかったんだ。うさちゃんとワンちゃんの出会いってやつ。どうしてあんなふうにべったりだったのか、アイツは俺には唸るばっかで教えてくれなかったし」


 アジャセが立ち上がる。不意に、いつの間にか私はアジャセの背を超えてしまったことに気がついた。それと同時に、いつの間にか部屋に人影が増えていることにも気づく。私達の他に、子どもがいた。10人程の子ども達が、膝を抱えて部屋の隅で蹲っている。子ども達は皆怯えていた。

 外から鍵をかけられた金庫の中のような部屋は、実際には檻なのだ。私はこの光景を覚えていた。鉄格子の代わりに重たい鉄の扉があって押しても引いても大人達が持っている電子キーを使わなければ開かない。恐怖に小刻みに震える子ども達の、か細い呼吸音と衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。

 ゴンッと大きな音がした。見ると、子どもの一人が自分が出してしまった物音に恐怖で固まっていた。床に溜まった血溜まりに、ついた手を滑らせて体勢を崩し、後ろの壁に頭をぶつけた音だった。息を凝らして存在感を消していた子ども達もまた恐慌状態に陥る。その中に、幼い『わたし』がいた。


「これ、なんの場面?」


 アジャセが小首を傾げた。目の前の光景のことを問われているとはわかったが、かつての記憶の蓋の底にあった生々しい光景が急激に引きずり出されている衝撃に、私は何も答えることができない。

 不意に、低い唸り声が聞こえた。記憶の中の子ども達が、途端に震え上がる。愕然と見開かれた瞳に映っているのは、本能的な死への恐怖と、そして一匹の獣の姿だった。

 そうだ、獣だ。ここは檻だ。外からしか開かない檻の中。そこには獣が一匹閉じ込められている。


 記憶の中のその獣は、血と体液で汚れていた。毛並みさえ手入れすれば、神話に出てくる聖獣を彷彿とさせる姿に変わるが、この頃の彼はいつもこのような姿だった。

 ぐるう、ウウ、ウァ。獣の唸り声には、まるで赤子が悲鳴を上げて何かを訴えるような響きがあった。自分のものかも他人のものかもわからない血と体液に浸りながら、暗闇に身を沈めている獣は苦しんでいる。それを今この部屋の中で理解しているのは、過去の記憶に土足で踏み入ってしまった今の私だけだ。


「あれっ」


 一瞬その存在を忘れかけるほどかつての記憶に動揺した私の意識を、意外そうな声が引き戻す。目の前の視界の良くない暗闇に向かって目を凝らしていたらしいアジャセが、もしかして、と私を見る。


「あのボロ雑巾の毛玉みたいなのがサラ・ソウジュ?」


 そうだ、とも、そうでない、とも私は言えなかった。この頃のサラ・ソウジュは、まだ『サラ・ソウジュ』ではない。彼の前に引き出された『使い物にならない』能力しか持っていなかった子どもの一人だった『わたし』が、まだ『イム』ではなかったように。しかし、アジャセの言う通りだ。あの獣はかつてのサラ・ソウジュだった。サラ・ソウジュになる前の獣。私と友達になる前の彼。自分の『超能力』のコントロールがつかず、獣に変ずる度に身を引き裂くような精神と肉体の苦しみに悶えていた。薬で意識を朦朧とされている時しか安全ではなかった、自我さえまともに保っていられなかった頃の、幼い少年。

 突如子ども達の中から悲鳴が上がって、それをきっかけに暗闇に血飛沫が飛び散った。子ども達の金切り声。服を引き裂き、肉を貪る濡れた音。


「うさちゃん、コレは?」


 アジャセはこんなものに興味があるのだろうか。そうは見えない彼の黒い眼を見返して、私は暗澹たる気持ちになった。いや、だが、違うのだろう。アジャセは言った。私とサラ・ソウジュの出会いに興味があると。

 それならば、確かにこの場面以外にない。


「……小さい頃のサラ・ソウジュは自分の『超能力』を制御できなかった。昔アジャセが言っていた通り。強い能力を持っている子ほど、暴走の反動も大きい」


 サラ・ソウジュの『超能力』は規格外だった。アジャセの能力が他に類を見ないものだとしたら、サラ・ソウジュのそれは本来あり得るはずのない突然変異と言えた。

 『超能力』は脳機能の変形により本来内的に留まる神経回路を一部外部化するものである。未解明の部分も多いが、あくまで人間の持ち得る能力を大幅に強化しているだけなのだ。

 だが、サラ・ソウジュの持つ『超能力』は、その人間の持ち得る能力の粋を大幅に逸脱していた。人間の姿形が一瞬のうちにその骨格ごと作り変わるなど、どうして出来るというのだろうか。しかし、その『超能力』はアジャセのように他に類を見ないわけではなかった。ただ、変身能力を発現した子どもも大抵は変身はその体の一部分のみに留まる中で、サラ・ソウジュは体を丸ごと作り替える力を持っていた。


「普通なら生きていけない。体の変身の割合が大きな能力者は、大抵暴走して早くに死ぬ。だけど、サラ・ソウジュは比較的長く保っていた。ほとんど鎮静剤とかで薬漬けにされていたから、あんまり昔のことは覚えていないと言っていたけど」


 だが、昔のことを覚えていないのは、あの施設にいた私達の多かれ少なかれが同じだった。理由もまた似たり寄ったりな形で。それについてはアジャセにも覚えるがあったのか「ああ、」と昔のことを思い出すように呟いた。


「でも、大人達はサラ・ソウジュを生かしたかった」

「変身能力が珍しいから?」

「そう。『超能力者』を育てるには時間もコストもかかる上に、能力が発現するのにも、さらにその能力が使い物になるかどうかも、試行回数を多量に積み上げた上での確率の上での実験だったから」

「コレが『使い物』になる能力?」


 肩を竦めたアジャセの言葉には嫌味はない。彼が純粋に不思議がっていることは伝わってきた。確かに、目の前の理性を失った『獣』が子ども達を食い散らかしていく光景からは、およそ何らかの生産性は感じられない。


「……あっ、戦争屋に貸し出す系の能力か」


 だが、アジャセは不意に自分で考え出したようだった。

 私は暗い部屋の光景から視線を落として、首を横に振る。今更だが、アジャセが入り込んだ私のこの記憶の中はどういった仕組みで動いているのだろう。夢を見ている時のように自分や周囲を認識はできても、どこか足が浮いたような感覚がある。どこからどこまでが今で、どこからどこまでが昔なのか、ふと現実離れした感覚に囚われて、アジャセと話をしていることも疑問に思わなくなってくる。


「わからない。けど、そうかもしれない。施設が壊滅した後も、結局いろいろな利権が絡んで私達に施設のスポンサーや目的が明かされることはなかったから」

「へぇ、カワイソ。ちったぁマシな暮らしになったかと思えば、飼い殺しは変わらないんだ。逃げちゃえばよかったのに」

「残念ながら、多くの場合、安全と自由は等価交換なんだよ、アジャセ。少なくとも『超能力』なんて持たない人の世界では、何かの枠組みの中にいないと権利は保障されない」

「おまえは能力持ってんじゃん」

「私は普通の人間だよ。少なくとも、きみよりはずっと。世界の枠組みから外れても生きていけるほどの力はない。でも、本当はサラ・ソウジュも、エニシダも、アジャセも普通の人間だと私は思ってるよ」


 昔の私も言っていたことだった。アジャセにとっては特に珍しい言葉でもなかっただろう。アジャセにしてはかなり珍しく――と言っても、それは私の知っているアジャセの話に過ぎなかったが――少し虚を突かれたような後に「まだ言ってんだ。そんなこと」とびっくりしたように少年の声が呟いた。

 私達の会話の間にも、目の前の惨劇は続いている。現実に――仮にここを現実だとするならば――引き戻す悲鳴に、私は話を戻した。なんて頭がおかしくなりそうな空間なのだろう。


「大人達はサラ・ソウジュをなるべくならば処分したくなかった。だけど、他の子ども達に対してと同じで、『超能力者』として役に立たないならば処分もやむなしという考えだった。『超能力者』として活かしておくための大前提は、自我を失わずに、理性を保っていられること。こうして暴走しては、人を貪らないと収まらない獣性を抑えて、変身能力のコントロールができること」


 ―――いつの間にか、部屋の中に動いている子どもはほとんどいなくなっていた。


 私は無意識に逸らしていた目を、そちらへと向ける。まだ生き残っている、かつての幼い『わたし』のもとへと。

 それと同時に、獣の視線も僅かに残った獲物のほうへと向いた。

 獣が跳躍する。床に引き摺り倒されて、思わず漏れた幼い悲鳴は、すぐ傍に開かれた獣の口の中に吸い込まれた。

 誰がどう見たところで、幼い『わたし』はそのまま声と共に獣の口の中に消える運命だと思っただろう。きっと部屋の外から監視カメラの映像でこの光景を見ていた大人達も、そう思ったに違いない。だが、確かにこの時、誰も思わなかったことが起きたのだ。


「サラ・ソウジュは私を食べなかった」


 だから、私は今ここにいる。単純な話だ。


 幼い『わたし』は、愕然と目を見開いていた。これから起こる、自らの死という絶対的な絶望を受け止めるには、その精神は未熟すぎて何も考えることはできなかった。あの時の私がどのような感情を抱いていたのか、普通に考えれば恐怖に違いないのだろうが、私自身でさえ確信を持って言えない。無意識のうちに発動していた、私の取るに足らないとされた『目を合わせた相手に、自分の感情を同調させる』能力。

 その赤く光った瞳に映っていた感情が恐怖だったのならば、何故サラ・ソウジュがその瞬間に理性を得たのか、私には理解できなかった。


 目の前で、獣の形が崩れていく。

 やがて現れた少年は、ゆっくりと瞳を瞬かせて、そのまま驚いたように目を見開いた。

 『獣』ではない彼は、まるで生まれて初めて人間を見たかの如く、食い入るようにじっと『わたし』の顔を見つめている。子ども特有の大きな目に映し出された『わたし』は、ただ固まっていた。必然的に、二人の少年と少女は見つめ合う形で互いを凝視する。


 先に動きを見せたのは、少年のほうだった。

 この後に起こることを私は知っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る