現在 17
「あっ」
この先を当然知らないアジャセが思わずといったふうに声を上げた。
目の前ではいずれ『サラ・ソウジュ』になる少年が―――『わたし』に噛み付いていた。
牙のような犬歯がぐちっと肉に食い込む音の後、ようやく気づいたように『わたし』が走った激痛に悲鳴を上げた。
「うわ、グロ」
ぽかんと口を開いたアジャセが呑気に感想を述べた。先程まで子ども達が獣に貪られていても、阿鼻叫喚の図を前に無反応だったにもかかわらず奇妙な発言だった。
少年は『わたし』の首筋に噛み付いて離れない。そのまま食い千切りそうな勢いだった。この時の感情は覚えている。痛みの中、私はもう獣の姿ではない彼に対して、自分自身を餌として与えているような奇妙な錯覚を覚えていた。
甘噛みではない。この時、サラ・ソウジュは本気で噛み付いていた。
その証拠に、『わたし』の首筋に赤色が伝い落ちていく。自分の血を見たのは、採血以外ではこの時が初めてだった。
「もういいでしょう」
「まだ終わってないケド」
「後はもう、私が気絶して終わりだよ」
映画でも鑑賞しているかのようなアジャセの口振りに、頭を横に振る。この場面が私の記憶から構築されているものであるならば、どの道この辺でおしまいだ。予想通り、私が言い終わるかどうかというところで唐突に周囲が暗くなった。
かき消えた景色。アジャセの目のような真っ黒な闇。そこに、ぽつんと椅子にもたれかかったアジャセがいる。やはりよく出来た夢のような光景だった。
「つまりー……なに? 獣がうさちゃんを食べなかったから二人は出会ったってこと? ロマンチックだね」
「元々、私はそこまで価値を見出されている検体じゃなかった。処分されずに生き残っていたのは、サラ・ソウジュのおかげだよ」
「アイツが処分されなかったのも、だろ。ナルホドね、うさちゃんの目を見るのがアイツが理性を取り戻すトリガーなんだ?」
先程の光景から答えに辿りついたアジャセがパチンと指を鳴らす。私は今はここにいないサラ・ソウジュのことを頭に浮かべる。
サラ・ソウジュが何故、私の目によって理性を取り戻したのかは、その時の自分の感情を覚えていない私にも大人達から聞き取りをされたところで不明だった。死を前にした幼子の感情など、自分事として想像しても恐怖以外にないように思う。しかし、自分に対する恐怖を同調させられて、何故サラ・ソウジュが止まったのか。未だに私は知らない。サラ・ソウジュが口を噤んでいるから。
なんにせよ、サラ・ソウジュは以来、私が傍にいる時のみに限って徐々に理性を掴んでいった。最初のほうこそ大人達によって四六時中一緒にいさせられたが、サラ・ソウジュが人間の姿でいる時が増え、その精神が安定して、口数が増えるようになるにつれ、必ずしも私が傍にいる必要はなくなった。大人になった今では、サラ・ソウジュはもう私が傍にいなくても何の問題もない。
「ヤだなぁ、アイツ、やっぱ殺しときゃよかったのかなぁ」
アジャセが不意にぼやくように言った。アジャセの軽い声音とは裏腹の物騒な言葉に、けれど私はその内容というよりも、意味が理解できずに眉を寄せる。
「なにを……」
「趣味が一緒って、なんかキショくね? ま、今更かぁ。つーか、これに関してはうさちゃんのせいでもあるし、いっか」
何を言っているのかわからない。私が困惑しているのを気にする素振りもなく、アジャセはこちらを見据えると勝手に話を切り替えた。
「さっき、うさちゃんは世界の枠組みの外で生きてける力はないって言ったよね。でも、おれにはあるよ」
「……知ってるよ」
だから、あれだけ世界をこけにして、世界中の人の怒りと呪いを買ったのに、今日まで笑って逃げおおせている。アジャセにはそれだけの力があった。不可能を可能にするほどの圧倒的な力。誰も敵わなかった。誰もアジャセを思い通りになんてできなかった。
「うん。でも、おまえのは嘘だろ」
「……え」
「世界の枠組みの外で生きてける力がないから、が理由じゃないだろ。自由にならなかったのは」
唐突な眼差しの変化だった。研がれたナイフよりも鋭い視線に見据えられて、私は思わず声を失う。
「嘘つくなよ、わかってんだよ。おまえがあの時、おれの誘いに乗らずにあそこに残ったのは」
『なあ、おれって人間?』
かつての声とまったく同じ。
声変わりさえしていない、あの時のままのアジャセの声。
それが記憶の中の言葉と重なった。
アジャセに質問を投げかけられた大人からの返答も覚えている。いいや、と大人は否定した。アジャセによってもうすぐ自分が殺されるという今際の際のその答えは、もしかしたら、当てつけだったのかもしれない。だが、それがどのような意図の上で発された言葉であっても、大人はそう言ったのだ。
いいや、キミは超能力者だ。他の人間とは違う。唯一の成功作。
お前は、我々『人間』とは違う。別の生き物、『新しい人間』なんだ。
アジャセは、ふぅん、とつまらなさそうに言った。大人の息の根はもう絶えていた。
『じゃ、やっぱりうさちゃんは生かしとかないとね』
そう言って、唐突に振り返ったアジャセは笑顔だった。
その白い頬にべったりと返り血がついていた。施設の大人達をここまでぐるりと一周して殺し回って、パーティーの大目玉のように施設の建物を半壊させた張本人とは思えないほど、無邪気な可愛い子どもの笑顔。
『うさちゃんは、おれのことを―――』
その先が最後まで再生されるより先に、ノイズが入るような頭痛を覚えた。だが、記憶の中の声の声は止まっても、私の脳内に直接息を吹き込んでくるアジャセの声は止まらなかった。
「サラ・ソウジュのせいだろ」
昔の声と、今の声。
混じり合ったその記憶に混乱させられて、アジャセの発した言葉の意味を捉えるまでに時間がかかった。
「……なにを」
「だーかーらー、あの犬を置いてけなかったからおれと来なかったんだろ」
ぎくりとした。頭の中を覗かれたのかと思った。だが、それを言うならば今まさに頭を覗かれている最中だ。一体どこからどこまでの私の記憶が、感情が、脳から読み取れるのだろうか。私達に『超能力』を発させる、大脳皮質から。
「やっぱり? そーなんじゃないかと思った。あの時はイラッときたけどさ、後から考えたらうさちゃんがなんの理由もなく拒絶するのも変な話だったし。うさちゃんは、自分に伸ばされた手を振り払えない奴だもんね」
甘い少年の声には微かな悪意の棘があった。それに私が何かを悟るよりも先に、アジャセはふと思いついたような軽さで言った。
「ねぇ、今もそう? そうだ、一緒に行こうようさちゃん。サラ・ソウジュのことも今はもういいだろ、気にしなくても」
「……アジャセ、私は、君を捕まえにきたんだよ」
私は途方に暮れたような心地を覚える。アジャセがあまりに、昔と何一つ変わらないから。
アジャセは昔からそうだった。気紛れで、横暴で、勘が鋭く、人のことなんて気にしない。今も、私がどう答えたところでアジャセには何の影響ももたらすことはできないのだ。
「それってうさちゃんのしたいこと?」
退屈そうにアジャセが問う声に、私は何も答えられない。答えたところでアジャセに意味をもたらさないと思っているからではなく、アジャセがどこまで私の頭の中を覗けるのかわからなかったから。
束の間、私はまた昔のことを思い出した。
アジャセがいなくなった日のこと。
確かにアジャセの言う通りだった。私があの日、彼の手を取らなかったのは、頭に過った存在がいたからだ。あの頃、サラ・ソウジュには私がいなければダメだった。彼の性格的にも、私に見捨てられたと思えば何をしでかすかわからない。だからといって、自分の選択をサラ・ソウジュの責任にすり替えるのはお門違いだった。後から思い返しても、あの日、アジャセについていくことが正解だったとも思わない。
だけど、心残りがないとも言うことはできない。
あの日、アジャセは施設を壊滅させることで私達の世界を終わらせた。悪夢の終わりだったとも言えるかもしれない。目覚めた先の現実が、いつも必ずしも夢より良いわけではなかったが、それでも日々を実験の苦痛の中で過ごす日々は終わりを告げた。
この6年間、私達の現実に、アジャセはいなかった。ただ夢の中の影のみだった。アジャセが壊した施設は再建されて、サラ・ソウジュもエニシダも私も居場所を得た。その傍らで、アジャセは一人ウォール街のビルを軒並み破壊して、極悪非道の犯罪者として国際指名手配されていた。
『うさちゃんは、おれのことを人間に繋ぎ止めてよ。おまえが俺を人間にして』
血塗れの笑顔で言ったアジャセ。
6年前の言葉が、私の中でつっかえたまま今日まで息をしてきた。
「あ、時間だ」
アジャセ、そう呼びかけようとした時、彼がふと宙を見て言った。
その言葉が終わるや否や、すべてはかき消え、呆気なく消える。
次の瞬間、私は目を開く。
そうして、真っ赤に染まった床を見た。
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