8章
過去 18
その日は最初からおかしかった。
裏を返せば、その日以前には予兆の一つもなく、その日は突然降って湧いたような唐突さでやってきた。
「アジャセとエニシダは?」
朝目覚めて採血や投薬を受けて検査を終わらせた後、空白のスケジュールの間に留め置かれる待機場所。厳重に外からロックをかけられるその分厚いガラス戸の向こうに入って、その日はもう随分経っていた。子ども達は皆、朝は同じような手順を踏んだ後にこの部屋で着替えや食事などを済ませる。だが、この日はいつまで経ってもアジャセとエニシダの二人が姿を現わさなかった。
「さあ。知らない。どうでもいい」
「何かあったのかな」
何度目かもわからない私の呟きに、少しも興味を引かれなさそうなサラ・ソウジュがそれでも律儀に答える。そんなやり取りを幾度繰り返しても、一向にアジャセとエニシダがいつものように大人に連れてこられることはなく、なんとなく居心地の悪い感じがしていた。
「アジャセはともかく、エニシダまで来ないなんて……」
「うるさいのがいなくていい」
サラ・ソウジュがぼそりと毒を吐く。アジャセに対してもエニシダに対してもサラ・ソウジュが心を許していないことは普段から明らかだったので、私は今更気にすることはなかった。気紛れに人に冷たくも優しくもするアジャセはともかく、エニシダのほうもそう変わらない態度でもあったし、仲良くしなければ殺されるという状況でもないのだから。
「そうかな。でも、私は二人といるのが好きだよ」
「……なぜ」
「サラ・ソウジュはお喋りが好きじゃないし、私一人じゃお喋りにならないから」
案の定、私がそう答えるとサラ・ソウジュは黙り込んだ。サラ・ソウジュはあまり喋らず、大人達の言うことにもあまり答えない。反抗的というよりも無気力な様子で、思考が舌の上まで落ちてくるのに時間がかかる。これでも昔と比べれば格段に喋るようにはなっていたが、彼自身、喋ることはあまり好きではなさそうだと私も気づいていた。
「念のため、無理して喋ってって言ってるわけじゃないよ」
「……わかってる」
そう言いながらも、いつもの無表情をほんの僅かに固くしたサラ・ソウジュは、部屋の隅に積んである本の中から分厚い辞書を持ってきて読み始めた。話すことが得意になるには、まず言葉を知らなくてはならない。アジャセのように人の頭を覗けない私達にとって、言葉を知るほとんど唯一の手段が本だった。
結局、アジャセとエニシダはそれからも姿を現わさなかった。私とサラ・ソウジュは膝を並べて二人で辞書の言葉を代わる代わる音読しながら時を潰した。全面のガラス戸は外側からは中の様子を窺えるが、中からは一切の光景が見えない。水槽のような部屋を見下ろす位置に大人達がいることは知っていたが、部屋の中からそちら側にいる大人達が見えたことはなかった。この時までは、ただの一度も。
突然バンッという音がした。随分後になって、新しい外の世界にある程度馴染んできた頃に知った知識から適切な言葉を探すとしたら、鳥がガラス戸に叩きつけられたような音だった。
「……いまの」
私とサラ・ソウジュは同時にそちらを見上げた。いつもは向こう側が見えないガラスが透明に変化していた。様々な機械や椅子や机などが、ガラスの向こうに見える。そして、そのガラスには真っ赤な飛沫が飛び散っていた。
私にもサラ・ソウジュにもすぐにわかった。
その色は、毎日の採血の時はもちろん、あの実験時に目に焼き付くほど見た色だった。
「きみ」
サラ・ソウジュが厳しい声音で短く呼んだ。彼と共にいた私には、その短い音が警戒を促していることがわかった。何が起こっているのか。私もサラ・ソウジュも理解しないまま、しかし、何かが起こったことを理解していた。
その警戒の感情は、すぐさま報われることになる。
唐突に、耳障りな低い音が鳴り響いた。今まで一度も聞いたことのなかったそれを警報と呼ぶのだと知ったのも後のことだ。部屋が真っ赤に点滅する灯りで照らされて、低い音がどんどん強くなって部屋を震わす。
「きみ!」
長年呼んできた呼称が抜けずに、サラ・ソウジュは私の名を滅多に呼ばない。言葉が得意ではない彼だから、特に咄嗟の時はそうだった。
ばりん、と粉々に砕けたガラスが降ってきた瞬間、叫んだサラ・ソウジュの腕の中に抱え込まれる。私を覆ったその体が一瞬で膨張し、獣へと変じた。
音の洪水だった。サラ・ソウジュに抱え込まれて視界が塞がれていたせいで、私には音しか聞こえなかった。
「サラ・ソウジュ。サラ。サラ」
抱き込まれながら、何度もサラ・ソウジュの名を呼んだ。獣となるとサラ・ソウジュの聴覚は非常に鋭くなる。身を張って守られている立場であるのと同時に、私は自分が無事であるということをサラ・ソウジュに教え続けることで、獣の時に特に不安定になる彼の精神の安定を計っていた。
「……サラ・ソウジュ、サラ、周りは静かになったよ」
どれくらいの時間が経ったのか。しばらくして雪崩の如き音の奔流が止まると、私は獣の腕の中で身動ぐ。だが、サラ・ソウジュはすぐさま人の姿に戻ることはせず、喉の奥で低く唸り声を上げた。なんと言っているのかはわからなかったが、感覚的に伝わるものはある。獣の毛は逆立って、激しい警戒を発していた。
「サラ、サラ、離して、お願い」
何度かもがいて、やっとのことで拘束から抜け出る。人の姿をしている時は私とほとんど背丈が変わらないのに、獣に変じた時は体長が優に三メートルを超えるサラ・ソウジュを振り解くには時間がかかった。本気で拘束しようとすればその体躯で押し潰すことも可能だっただろうが、サラ・ソウジュはそこまではせずに、やがて諦めたように私を解放する。そうして視界が開けた私が見たのは、大量の瓦礫の山と、高い天井が一部崩落して空が見えている光景だった。
その時見た空は、真っ黒だったことを覚えている。まるでアジャセの瞳のように、今にも天気が急変しそうな危うさのある空だった。
「なにがあったの」
呆然とした私の呟きが虚しく落ちただけで、誰も答えられるものはいなかった。
私達のいた部屋は完全に壊れていた。かろうじてバラバラになった分厚いガラスが瓦礫の山の間に散乱している様子が見て取れる。部屋の枠組み自体は残っていたが、鉄骨が剥き出しになって、肉を剥がされた鳥の骨のようになっていた。
「――――アジャセ、エニシダ」
我に返ったのはここにいない二人のことを思い出した時だった。
咄嗟に動こうとした私の服を獣が噛んで止める。振り返った私が「二人を探さないと、」と訴えると、獣は喉の奥で唸った後に隣に並んだ。昔よりはコントロールが利くようになったとはいえ、サラ・ソウジュの変身能力は彼への負担が大きい。一度獣に変ずると、彼の精神が張り詰めている時などはすぐに戻れないこともあった。今はどちらなのだろうかと瓦礫の山を裸足で踏み越えながら考える。意志で戻らないのか、それとも、警戒しているから戻らないのか。問おうにも獣の姿のサラ・ソウジュは言葉を持たない。私もまた、明らかな異常事態を前にして、そんな呑気な言葉を口に出す気にはなれなかった。
崩れ落ちたガラスを越えて廊下に出ると、まず最初に壁に散った血が見えた。
視線を落とすと、床には黒と赤の中間のような色に混じって、柔らかそうな肉片が落ちていた。辺りに散乱している布の切れ端と、奇跡的に残っていたIDカードから、施設の大人だったものだと理解する。
顔を上げて、私は廊下の先を見る。同じような光景が、ずっと先まで続いていた。
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