過去 19

 施設はほとんど半壊していて、通り過ぎる場所には生きている大人はいなかった。

 子どもが足を踏み入れることはない区画まで来た時、初めて他の年代の子どもを見つけた。私達と同じ、『超能力』を持っているだろう赤子が、一人一人透明なケースの中に入れられて並べられている。それより上の年代は、あの実験で皆死んでしまったのか痕跡さえも見かけることはなかった。棺のようにも見える透明な保育器の中に守られて、赤子達は息をしていた。結局、この区画にいた赤子達も数人を除きそれから大きくなることはなかったが、施設を壊した人物がこの場所だけ素通りしたことは明らかだった。


「アジャセ、エニシダ」


 呼びかけに応える声はない。まだ機能している監視カメラがあるかはわからなかったが、完全にカメラから隠れずに出歩いているのに、いつもならば麻酔銃を手に駆けつけてくる大人達も誰も来なかった。

 素足で歩く施設の敷地は思っていた以上に広大だった。

 この場所しか世界を知らないのに、その中でさえ小さな檻の中に入れられていたのだとわかる。セキュリティー装置が破壊されたドアをいくつも潜り抜ける中で、大人達の死体はずっと続いていた。いつか絵本の中で見た物語に似ている。歩いた場所にパンくずを落として道を作るように、一様に何かから逃げ惑うように絶命している大人達は点々と続いて道を成している。

 思えば、私達の日々は絵本の暮らしのようだった。

 字面からは伝わらない、淡々とした血なまぐさい残酷と理不尽が、奇妙な形に捻れて時間となったような、子ども向けのグロテスクなファンタジー。『超能力』のような存在が出てくる話は、一般的にはファンタジーよりもSFと呼ぶのだと大人になってから知ったが、この頃の私達の世界にそのような単語は存在しなかった。

 グルルル、と低い獣の唸り声が届いた。

 警戒するように隣に密着して身を寄せていたサラ・ソウジュが、何かに気づいたようだった。立ち止まった獣の視線の先を辿り、私は廊下に並ぶドアの一つの前に立つ。

 他のドアとは異なり、嵐はこの場所をこじ開けることなく通過したのか、ドアの表面には傷がなかった。


「……エニシダ?」


 サラ・ソウジュに止められなかったから、ドアの向こうに危険はないとわかっていた。セキュリティーの死んだ重い鋼鉄を押した先に、見つけた人影に駆け寄る。


「…………ぁ?」

「エニシダ……ここにいたんだね。大丈夫? どこか怪我してるの?」


 ぼんやりとした眼差しを宙に放り投げていたエニシダの目が、こちらを捉えて実像を結ぶ。夢から覚めたばかりのように、自分が見ているものが現実か夢か判断するような沈黙の後、彼はこの現実に戻ってきたようだった。


「……べつに。してない」


 エニシダの様子はどこかおかしかった。そもそもこの状況はすべてが普段と異なったが、この時のエニシダもまた常に纏った刺々しい雰囲気もなく、奇妙に大人しかった。私の問いを無視することなく、そっぽを向きながらも答えた彼に、ようやく私はその周囲に注意を向ける。

 エニシダがいた部屋は、私にも見覚えのある部屋だった。

 同じ部屋というわけではない。施設内にいくつも点在する、子ども達を検査し、実験し、データを取るために使われていた部屋の一つ。

 外のドアには引っ掻き傷一つ見当たらなかった部屋は、普段は目が痛くなるような白一色に染まっている。

 だが、今は、外の廊下と同じように、部屋の中には血の臭いが充満していた。だから真っ先に怪我をしていないかと頭に過ったのか、と私は納得する。白は汚れがとても目立つ。部屋の壁にも床にも、吹き出た血がべったりとついていた。

 よく見れば、エニシダの腰掛けている診察台のベッドの下に、何かが転がっている。

 体のあらゆる方向に力が加わったかのように、体は捻じ曲げられて、首も繋がっていない大人の死体だった。


「エニシダ、なにがあったの?」


 必然の質問だったが、エニシダは億劫そうに、それでいて嫌そうにこちらを一度見返した後はむっつりと口を噤んでしまった。その表情から、これ以上尋ねてもエニシダからは情報を引き出すことは難しそうだと早々に悟る。

 獣が、牙を立てずに袖を引っ張った。ここから出ようとでも言うような仕草に、確かに動物の知覚では部屋に充満した血の気配は苦しいだろうと思う。だが、いつになく無気力なエニシダの手を引いて廊下に出て、そういえばそこまで代わり映えのなかった景色に少し途方に暮れた。


「エニシダ、アジャセを知らない?」


 エニシダからの返事はなかった。だが、握っていた手が少し強張った。

 ぴったりと三人密着をするようにして廊下を行く。曲がり角から今にも何かが飛び出してくるのではないかと思いながら。だが、何かとはなんだろう。絵本で見た、おばけだろうか。生き残った大人だろうか。それとも、きっと目の前の光景を作り上げた張本人であるアジャセ?

 絵本の中の童話のように。既にそこに綴られた物語のように。薬で和らげられて曖昧になった痛覚のように。命の危機という時折降りかかる本能を揺さぶる出来事以外は、漠然と生命の実感が薄い日々を過ごしていたからか。この、どこまでも続く酷い光景を目の当たりにし続けていても、恐怖も麻痺も苦痛も感じることはなかった。ただ、アジャセはどこだろう、ということだけが気になった。

 もしかしたら、私の生の実感と衝動は、あの『実験』ゲームの時に使い果たされてしまったのだろうかと思うほど、感情は現実から乖離していた。だが、それが私の思い込みに過ぎず、落ち着いているように思えたのも他にどうすればいいかわからなかったから、ただそれだけであることを、私はすぐに理解する。

 ヴヴヴ、と獣が唸った。獣の体に前方へ進む足を止められた私達は、視線を上げた先に空を見た。

 先程までいた部屋の、崩落した天井から覗いていたものと同じ空。

 黒い空からは、細い雨が降っていた。半壊したコンクリートの瓦礫の上に座って、それを見上げているアジャセがいた。


「おれにもできないことはあるんだ。雨を止めることとか」

「……そんなことができるのは、神様だけだよ。アジャセは人間でしょう」


 私が返事をすると、アジャセはこちらを見下ろして笑った。無邪気な笑顔だった。そういう表情をしている時、アジャセは年相応に見えた。だが、現実の雨を降らせることはできなくとも、アジャセは血の雨を降らせることはできる。


「バケモン。おまえ、全員殺したのか?」


 不意に、黙っていたエニシダが口を開いた。いつの間にか私と繋がれていた手は解けている。挑むように睨み上げる、険の滲んだエニシダの眼差しを、アジャセはいなすように肩を竦めた。


「ウン。たぶん。全員いる時間帯を見計らったし、外に繋がるセキュリティーは全部壊してダウンさせてからちゃんとやったから、生き残ってる奴はいないんじゃない」


 その時、う、とアジャセの足元の辺りから苦しげな声が聞こえた。皆がそちらを見やると、腹に大きな穴の空いた大人が一人、虫の息で悶え苦しんでいた。エニシダの視線に、アジャセが億劫そうに応える。「もうじき死ぬからノーカン」

 アジャセは能力は破格だが性格が適当だ。信頼できないと思ったのか、それとも単にその返答に気分を害したのかはわからなかったが、エニシダは不愉快そうに端正な顔を歪めると、踵を返した。どこに行くの、とその背に尋ねると「生きてたら困るだろ! 確認してくるんだよ!」と苛立ったような怒鳴り声が返ってきた。咄嗟に返す言葉に窮し、けれど一人で行ってしまうエニシダの遠くなる背に慌てて、密着していたサラ・ソウジュの尻尾に触れる。


「サラ、エニシダを見ていてあげて」


 ガウッウッヴヴ。

 獣は承諾しかねるような不服さを隠しもしなかったが、私が何度目かに尻尾をぎゅうと握ると、やがて渋々とエニシダの後を追っていった。二人の姿が半壊した施設の中に消えても、アジャセの足元にいる大人にはまだ辛うじて息があった。


「そっかそっか。こういうの見ても、うさちゃんの中でおれは人間なんだ」


 足元の大人を見下ろしながら、アジャセが覗き込むように背を屈ませる。


「なあ、おれって人間?」


 大人は、空いた穴の場所が致命傷ではなかったのか、長く苦しんでいるようだった。色のない顔に脂汗を滲ませ、目の焦点も合っていない。意識があるのかも怪しかったが、アジャセの質問は届いたようだった。震える唇を割って、擦れた声が聞こえた。


「いいや……」


 いいや、キミは、超能力者だ。他の人間とは違う。唯一の成功作。

 喘ぐような苦しげな声には、自らに迫り来る死に対してなのか、悔しさのようなものが感じられた。だが、同時に、熱に浮かされたような奇妙な昂奮もあった。まるで、彼の死によって、彼が信じた念願の研究が成就するかのように。


「お前は、我々『人間』とは違う。別の生き物、『新しい人間』なんだ……」


 それきり大人はもう何も言葉を発することなく。事切れた大人から興味を失ったように視線を逸らしたアジャセの、大きく虚ろな黒目が私を見る。

 その時の、アジャセの笑顔を今でもよく覚えている。

 まるで、それでようやく私を殺さないことへの理由を得たかのように次いでアジャセが発した言葉のことも。

 無邪気な子どもそのものの笑みで、アジャセは確かに、あの時喜んでいた。


「ね、うさちゃん。おれといっしょにいこうよ」


 逃げだそう、と最初に言ったのは私だった。口から勢いで飛び出た言葉でも、ひとたび音となって届いた言葉は、その中で認識という形を得る。

 逃げるための手段として私が言った、大人との話し合いで、という言葉がどれほど愚かなことだったのかは私もわかっていた。対等でなければ言葉など聞いてもらえない。そしてここでは、私達は人ではなく、搾取される物に過ぎなかった。そもそも人の土俵にさえ立たせてもらえなかった私達の言うことを、どうして大人達が聞いてくれるというのだろう。

 生きるということは戦いだった。話し合いですべてが解決するのなら、きっと『超能力』なんてものも必要とはされなかった。逃げるなら、死に物狂いで逃げるのではなく、殺す気で逃げなくてはならなかった。アジャセにはその意志と力があった。私には意志も力もなかった。

 だからアジャセはここから去り、私は残り、私達の道は永劫に分かたれたのだ。

 永劫に、分かたれたと思っていた。もう二度と会うことはないだろうと。




 けれど、アジャセは今ここにいる。

 私の目の前に。

 まるで、あの日の続きのように。


「やあ、イム。さっきぶり」


 頭の中で聞こえたのと同じ声が、今度は現実で聞こえた。

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