9章

現在 20


 随分と赤い床板だな、と最初に思った。


 次いで、絨毯だろうかと疑問に思った。ようやく意識が目を落としている床の一部分とその横の床の色を見比べるくらいに覚醒して、それが滴る血だと気づいた。


「誰の……」

「―――アジャセッ!」


 咄嗟と口から零れ落ちた小さな声は、感情を露わにした怒鳴り声にかき消された。

 状況を把握するような間はなかった。たった今夢から目覚めたばかりのような意識が、銃声によって文字通り撃ち抜かれる。だが、部屋の中にいたすべての人間をその轟音によって揺さぶったであろう撃ち出された銃弾は、実際には誰の体を貫通することもなかった。


「何度もうっさぁ。部屋ン中でそんなんぶっ放すなよ、ジョーシキないの?」


 耳に指を突っ込みながらのたまったのは、見紛うことなくアジャセだった。アジャセに向けられた銃弾は、その足元に転がっている。単発ではなかった。何発もの銃撃の痕跡の記憶がない私は戸惑ったが、先程まで自分達がいた意識空間に思い至り、理解する。恐らく意識が戻ってくるまでにラグに個人差があったのだろう。あるいは、アジャセは扉に触れたら発動するような仕掛けをしたと言っていたから、私だけ束の間呆けていたのだろうか。正確なところはわからない。アジャセの発言にどれほどの信憑性があるかもわからなかった。

 ただ、今度こそ確固たる現実として目の前に広がる光景に、私は困惑する。視線を動かすと、アジャセに向かって銃を構える男の姿が見えた。オルシーニ、と口の中で呟く。どうやらアジャセに出会い頭発砲したのは彼らしいと理解する。


「これは一体、どういう状況? この血は……」


 そこでようやく、私は前方に倒れている人の存在に気づく。アジャセの足元に倒れ伏している男は、彼の近くにいたため流れ弾に当たったようだった。当たり前だが、見覚えのない男だった。脈を確認するとまだかろうじて生きてはいる。腹から夥しい量の血が出て、床を絨毯の如く深紅に染め上げていた。


「オルシーニ! なにを……」


 アジャセに銃弾など効かないことはわかっていたはずだ。私を連れてきたのもそのための〝交渉人〟としてだと彼自身も言っていた。不意打ちで無効化するつもりだったにしては、あまりに雑な行為だった。


「いやいや……彼にこんなものが役に立たないことくらいわかってますよ。狙ったのは別のです。それも違う奴に当たっちまったが、ソイツについてはアジャセの協力者として名が上がっているのでどの道捕縛対象です」

「協力者……?」


 私の意識が戻ってきたあの時、激昂したように荒げられた声は、確かにオルシーニのものだったはずだ。だが、私の視線を受けたオルシーニは既に私の知る彼の仮面を被り直していた。異なるのは、その目元を覆っていたサングラスが消えていることだけ。露わになった瞳を見て取って、私は疑問を抱く。


「その目は……」

「おっと。俺のことは後にしましょう。それより、貴方には貴方の役目を果たしてもらいたいですね。俺の合図で、この狭苦しい部屋に屈強な男共がぞろぞろ押し入ってくることになっているんですが、こちらも余計な後処理を増やしたくはない。上がうるさいんでね」


 アジャセを前に普通の人間などいくらいても犠牲者が増えるだけだ。特殊な訓練を積んで、軍用の殺戮兵器を持った普通ではない人間でも変わらない。オルシーニの言葉は後になってよくよく考えれば可笑しなものだった。ここに死体を増やされたくなければアジャセと交渉しろとは、どこに向けた脅しだったのだろう。あるいは彼はただ事実を述べただけだったのかもしれない。


「アジャセ」


 言われて私は途方に暮れたように彼の名を呼んだ。

 まさかこれほどあっさりと、と言えば諜報員達の苦労の賜物に対して聞こえは悪いが、流されるままに再会できるとは思っていなかった。アジャセはつまらない茶番を見るような眼差しで逃げ出す素振りも慌てることもなく、ソファに気だるげに腰掛けていたが、私に呼ばれて「ウン?」と笑顔を返してきた。

 私はひとつ溜息をついて、この場の優先事項を整理する。


「……アジャセ、この、倒れている人は」

「あー? ……気にしなくていいよ」

「このままでは死んでしまう。外に待機している人達に預けても?」

「わかりました」


 即座にオルシーニが頷くと、「―――頼むよ」というか細い声と共に腕が上がった。アジャセは興味の欠片も見せなかったが、私とオルシーニは思わず注視する。血みどろで、今も虫の息であるはずの男は、弱々しく、しかし痛覚を感じさせないはっきりとした口振りで「頼むよ、僕は医者だが、この医者の見立てでは高度医療に後二十分以内に繋がれなければ失血多量で死亡する。君、太い血管を撃ってくれたね……」と朗々とした文句を言った。


「マジか。痛覚を遮断させる非合法の薬でもやってたのか? それだけ喋れるなら大丈夫そうだな。心配せずとも、うちのお偉いさん方がお前に聞きたいことはまだたっぷりあるだろうよ」

「はは……命が助かっても長くはなさそうだ……それにしても君、ノーコンだね……僕の実験対象を狙っただろう」


 今は血がべっとりと付着して見る影もないが、血塗れの男はよく見れば彼の言葉通り白衣を身に纏っていた。力なく持ち上げられた指に指されて糾弾されたオルシーニは、無視して外にいる彼の部下達に連絡を取る。私は不可解に眉を寄せた。


「実験対象?」

「……おや……? 君は……いや、そうか……」


 ごぶりと血を噴き出しながら何かを言いかける。本当に痛覚が麻痺しているのかどこから見ても死にかけだというのに男に苦痛の色はなかった。私を見て興味深そうに瞬いた瞳は焦点が合っていないが、その奥には好奇心と昂奮の混じり合った色が見えた。私はその瞳を知っている。かつて子どもだった頃、大人達が私達に向けていたものとよく似ていた。

 流石に命の危機は本当だったのだろう、連れ出されようとする頃には男の意識はなかった。血の跡の残った私の掌に、こんな時だというのに紳士的にオルシーニがハンカチを差し出してくる。断って、私は変わらず気が抜けたように表情でいるアジャセに向き直った。


「アジャセ、さっきの男とはどういう付き合い? 協力者って?」

「なに。うさちゃんなんも知らされないで連れてこられたの? 相変わらずだね」


 彼のほうこそ何一つ、子どもがとっくに大人になるほどの時間を経ても姿形の一つさえ変わっていないアジャセが笑う。


「そっちのぉ……さっきおれに怒鳴りながら撃ってきた奴に聞けばぁ?」


 銃など意味がないと目の当たりにしても、オルシーニは油断なく撃鉄に指を引っかけていた。その目を見て、私は口を噤む。アジャセの言うようにオルシーニに尋ねることはせず、そこでようやく一息つくように、顔を上げて周囲を見た。

 私達がいるのは、土壁をくり抜いて作ったような小部屋だった。横の広さがない代わりに、縦にも横にも奥行きがある。天井は高く、モザイク画のような装飾が施され、精緻な文様が見えた。

 アジャセに視線を戻す。隠れ教会のような小さな部屋の中で、アジャセは神様のようにそこにいた。


「―――アジャセ、さっきのはなに?」

「さっきのって? 連れてかれた奴のこと? 久しぶりに会ったのにまーた違うオトコのことかよ。妬けるなあ」

「さっきの、頭の中での記憶のこと」


 夢と紛うような先程の体験について、半信半疑の気持ちは拭えなかった。あれは何かと尋ねて通じなければ、無理矢理な考えではあるが、アジャセとの再会に気を昂ぶらせた私の白昼夢だったと結論づけたかもしれない。

 だが、アジャセはあっさりと答えた。


「ああ。あれね。扉越しに目を合わせたんだよ。目が合ったというか、目を合わせたと錯覚させたというか、まあ、なんでもいいけどそれで目が合った全員に意識を潜り込ませた。テレパスで脳内に干渉しただけだけど、脳のモジュールの中の、夢とか幻覚を司る部分に話しかけて擬似的空間を形成するような感じ。脳内メールをまとめて送信してるようなもん」


 そんなことが、と私はつぶやいた。できるんだよ、とアジャセはなんてことのないようなつまらなそうな口振りで返した。


「脳をいじくって時限爆弾みたいに時間差で発動する記憶を仕込んでおくことも、何かをトリガーにしてスイッチが入って再生する記憶も作れる。どう作れるかは説明できないけどさ。うさちゃん達と一緒だった頃はやらなかったっけ。必要なかったからやらなかったかもな? 外って面倒なんだよ、こうやってたまに突然発砲かましてくる不審者もいるしさあ」


 言葉を失って黙り込む私をアジャセが見ている。そのぽっかりと穴の空いたような真っ黒な目で。まるで愛しいものでも見るかのような慈愛の眼差しで。


「でも今回はよかったな。はじめて当たったよ」


 愉快そうな声音に気を取られて、言葉が入ってくるのに一拍かかった。銃弾は彼には当たらなかったはずだ、と怪訝に見返すと、アジャセは相変わらず笑顔だった。眼差しもまた愛に溢れている。私が他人の中に見たことのある愛とは、おしなべて自分の物に対する所有欲に近い。


「ようやく、うさちゃんがかかった。サラ・ソウジュでもエニシダでもない。大当たりだろ? 犬も花もおれは好きじゃないけど、うさぎはうまい」


 私はそこで遅ればせながらようやく気がつく。やけに多弁であったアジャセのその訳が、彼が少なからず昂奮しているせいだということに。


「ほんと、久しぶりだねぇ、うさちゃん。会いたくて、会いたくなかった。でも気が狂うほど会いたかったよ!」


 急激な語調の変化に、隣にあるオルシーニの体に緊張が漲ったのがわかった。傍から見たら奇妙な光景だろう。アジャセはどこからどう見ても、十代半ばの細身の少年で、こちらは銃まで持っている大人なのに、この場の主導権を握っているのはすべてアジャセだった。


「うさちゃんはおれに会いたかった?」


 オルシーニは黙っている。確かな緊張を漲らせながらも動かない彼の態度から、私はこの場で自分に求められていることを察して口を開いた。


「アジャセ。私がここにいる理由がわかる?」

「無視かよ。さあ? おれに会いたかったんだろ?」

「……彼らに要請を受けて、交渉人として呼ばれたんだよ。アジャセの犯した罪のために、たくさんの人がアジャセを狙っている。それはわかっているでしょう」

「ウン? ああ、ウン。そうみたいだね」

「今回、アジャセに繋がる情報として、『宝石の瞳を持つ女の子』の存在が確認されていると聞いたよ。アジャセ、その子については何か知っている?」

「ああ。さっきそっちの奴が撃ち殺そうとしてたし」

「……え?」


 宝石の瞳を持つ子ども。

 最初の話では、その存在を足がかりにアジャセの尻尾を掴んだということだった。ここにくるまでに、私は具体的にアジャセと何を交渉しろとも命じられていない。わざわざ連れてこられはしたが、最初からそういった面で役に立つとは期待されていないのだろうと早々に察していた。どころか、彼らは最初から私を協力者ではなく、ある種の道具として利用しようとしていることがわかっていたからこそ、私も何も言わずにここまできたのだ。言ったところでどうしようもなかったから。

 だから、私に与えられていた情報は実質件の子どものことだけで、他には何もない。何年もの間離れていた幼馴染みとの久しぶりの再会にそう話題が思いつくわけもなく、とっかかりとして口にした話を、アジャセは予想もしなかった角度から返してきた。


「余計な話はされなくて結構ですよ。その子ども、こちらに引き渡していただけませんか」

「あれ、おまえはおれを捕まえにきたんじゃなかったの? アレなら寝てるよ、そろそろくるだろうと思ってたから邪魔にならないように。うさちゃん、知ってる? 子どもってすげーうろちょろするんだぜ。ま、流れ弾どころかふつーに狙われてたらどっちにしろだけどさ」

「貴方が大人しく捕まってくれるとは、誰も思っていませんよ。今回は事前準備も足りませんでした、何せ急なことだったので。……わざと尻尾を掴ませたんですか?」


 待って、と会話に割って入って制止する。


「撃ち殺そうとした? その子どもを?」


 オルシーニは答えない。私は素早く視線を周囲へと走らせた。狭い部屋の中、すぐにその場所は目に付いた。重たい天幕のような布が下がった場所。カーテンを開くように布を掻き分けて、小さく息を呑む。


「……この子が……」

「イムさん。その子どもは保護対象です。こちらへ」

「保護対象を撃ったの?」


 現行犯を押さえられているのだ。流石にそのような白々しいにも程がある詭弁は通じないとわかっているだろうに、オルシーニはひたとこちらを見据えている。その、不可思議な鈍い輝きを放つ瞳。


「Mr.オルシーニ、貴方も特殊な目をお持ちのようですね」

「その子どもに比べたら、俺なんかまったく。ただの見えづらいだけの目ですよ。正真正銘、眼孔に宝石が埋まっている子どもなんて」


 オルシーニの平坦な声。その言葉に、やはり『宝石の瞳』は比喩ではないのかと眉根を寄せる。そして、オルシーニの声に潜む感情について考えを巡らせながら、銃口から庇うように彼に背を向けた。覆い被さるように、子どもを見下ろす。

 天幕の奥。小さな革張りの椅子の上に、子どもが座っていた。

 事前に聞いていた通り、まだ三歳程の子どもだ。眠らせているというアジャセの言葉通り、目は閉じられていて、肝心の瞳は確認できない。だが、直感のように、この目の前にいる人形のような子どもが『宝石の瞳の女の子』なのだと理解できた。


「……この子が……」


 何故か、妙に神聖な、感慨深いような奇妙な感覚に囚われた。

 落ちた私の呟きを、アジャセが拾う。


「ウン。そー。でも、ソイツは完全に父親に似ちまった。おまえのことが好きで、おれのことがだいきらい」

「………え?」

「『ユディト』って付けたんだ。名前をつけるなんて、自分以来だから慣れないね。そのまんまの意味になった」


 ユディト。アジャセの言葉に意識を取られながらも、目を閉じた子どもから視線が逸らせない。けれど流石に、次いで聞こえてきた言葉にはその視線も引き剥がされた。


が特別な奴は他にもいろいろ探したんだけど、結局、納得できるのもいなくてさ。だから仕方なく、作ってもらって、それがソイツ、『ユディト』。でも、よく考えたら、目がギラギラしててもなあ。そうなっちゃったもんは仕方ないけど、おれが欲しかったは、やっぱり一つだけなんだってわかったよ。……あ、二つか?」


 二つある眼球を、片手で作ったピースで指差す。アジャセの言っていることは相変わらずめちゃくちゃだった。彼の頭の中で完結して、こちらにわかってもらおうとか、わかりやすく説明しようとか、そういう気が一切ない。いつだって自分を中心に考えていたアジャセが、6年の時を経ても、誰にわかってもらう必要もなかった世界に生きていたことを知る。

 それを目の当たりにして、私はまた、途方に暮れたような感覚を覚える。


「いろんなを見たよ。でも、おまえの目ほど綺麗なのはなかったよ」


 その言葉で、やはり『宝石の瞳の女の子』はアジャセが彼自身の意志で生み出したのだと理解させられた。わかりきっていたことだったとしても、本人の口から聞くまでは何も言えないと思っていたのに、改めてその口から聞くと「なぜ」の問いの一つも出てこない。ただ、アジャセのいなかった6年間の時間が、今の私と彼を隔てていることだけをやけに鮮明に感じた。


「うさちゃん、赤いおめめのうさぎちゃん。今はどんな感情でいる?」


 私は口を開いた。アジャセの名か、さもなくば言葉に迷った呼気の音か、どちらが口から出るはずだったのかはわからない。

 私が何かを言うよりも先に、アジャセが天井を見上げた。


「わんちゃん」


 その呼称が耳に届いた直後、反射的に同じように視線を上げてしまった。

 そうして、次の刹那までのほんの僅かな間――――その間に、天井に施されたモザイク画が意識に入ってきた。

 モザイク画は薔薇の花を象っている。部屋に入る前、意匠について言及していたオルシーニは、後になってから言った。天井にある薔薇は、〝under the rose(アンダー・ザ・ローズ)〟、あるいは〝sub rosa(スブ・ロサ)〟、即ち、薔薇の下の秘密。ギリシャ神話における、沈黙の神ハルポクラテスの花。ここで話された一歳について、沈黙への恭順を求める証。

 精緻な文様に彩られたその花が、凄まじい轟音を立てて天井ごと崩落した。

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