現在 21


 かろうじて咄嗟に飛び退くことができた。無惨に割れたモザイク画が雨あられと降ってきて、大きな塊が床に叩きつけられる。

 椅子を引き倒すようにして回避していた私は、砂埃が上がる中、起き上がると真っ先に少女の安否を確認した。幸いにも、小さな子どもはこの鼓膜を震わすような衝撃の後でも、少しも意識が戻ることなく眠っていた。飛び散ったコンクリートの欠片から舞う白い粉の付着以外、怪我もなさそうだったが、悠長に安堵している余裕はなかった。


「――――アジャセ!」


 天井が崩落した瞬間、いや、アジャセの呟きを拾った瞬間に理解してはいたが、響いた声に焦燥が募った。最も耳慣れた声のうちの一つ、少し前にも聞いたばかりの、ここにいる筈のない青年の声。


「サラ・ソウジュ」


 天井を獣の膂力で突き破ったサラ・ソウジュが、瞬く間に人の形へと戻る。どうしてここに、と口から疑問がこぼれた。

 左右で微妙に色の異なる白金の瞳は、一瞬私を捉えた後、問いかけには答えずに唯一この場で先程から変わらない位置に立っている少年に向いた。


「アジャセ! 彼女を……イムを誘き寄せたな!」


 滅多に感情の起伏を見せないサラ・ソウジュが、激昂していた。

 今にも再び獣の姿に転じそうな様子に、咄嗟に「サラ!」と呼びかける。視界の端で、砂埃を吸って咳をするオルシーニの姿を捉え、この場で優先すべきことを弾き出す。サラ・ソウジュの闖入の経緯は不明だが、十中八九サラ・ソウジュの単独行動だ。崩落した瓦礫が邪魔をしているが、外で待機していたオルシーニの部下達もじきに飛び込んでくるだろう。

 考えるよりも判断は早かった。こうなった時に取るべき行動は最初から決めていた。


「アジャセ、行って!」


 叫びは誤魔化しようもなく端的だった。

 瞳に熱が集まる。恐らく仄かに赤く染まり始めているだろう瞳を、真っ直ぐにアジャセに向けながら、私は必死に念じた。アジャセはここにきて初めてぽかんとしたように目を丸くして、私を見ていた。正確には、食い入るように、私の眼を。

 その姿を見て、不意に泣きたいような気持ちに駆られる。あまりにも6年前と変わらない、時の止まったような懐かしい表情だった。


「は、……きみっ! まだあんな男のことを……ッ」


 愕然としたように言葉を失ったサラ・ソウジュの眼が、怒りによって獣のように瞳孔が開いた。サラ・ソウジュの最も近くにあった私でなくとも、その身体から立ち上るような激昂の気配を感じただろう。本能的に駆け上る悪寒ごとその視線を振り切って、また、オルシーニが部下達に命じる声を掻き消すように再度叫ぶ。


「アジャセ、行って。もう人は殺さないで」

「イム! きみはッ!」


 アジャセはしばらく呆けたように棒立ちになっていた。焦れる気持ちで瞳に熱が集まっていく。アジャセ!と三度目の呼びかけをすると、瞬きの一つも惜しいとばかりにこちらを凝視していたアジャセが、ようやくゆっくりと瞼を瞬かせた。

 深淵に吸い込まれるような瞳が、ふと、まるで邪気のない無垢な眼差しになった。

 驚いて止まった私に、アジャセは子どもが大人に物を尋ねるような澄んだ声音で応えた。


「うさちゃん。人を殺すのと、人を生み出すのは、どっちが罪深いと思う?」


 息を呑む。そのまま、吐くことを忘れた。


 アジャセの雰囲気に呑まれて、思考が止まる。言葉も共に失った私から、アジャセはサラ・ソウジュへと目を向けた。いち早くサラ・ソウジュの接近に気づいていたのはアジャセだったが、まるでたった今その存在に気づいたかのように「ああ」とわざとらしく笑顔を浮かべる。


「久し振りだねぇ、わんちゃん。相変わらず飼い主の尻を追っかけてるんだねぇ」


 サラ・ソウジュが顔を歪めてアジャセを注視した瞬間、そのにこにことした笑顔は最初からなかったかのようにかき消えた。


「犬、おまえはいつも遅いんだよ」


 底冷えのする声。サラ・ソウジュの瞳孔が開く。

 サラ・ソウジュは獣の性を持っている。だから、恐らく行動が思考に先んじることがある。人間の目では捉えきれない瞬発力で跳躍したサラ・ソウジュが、アジャセに向かって腕を振るう。足と同様、身体の手の部分だけを獣のそれに変えて、鋭い爪がアジャセの眼前に迫った。

 だが、サラ・ソウジュの殺意を、アジャセはあっさりと受け流した。

 幾重にもなった斬撃が、瓦礫を舞い上がらせる。雨あられと降ってきた岩やコンクリートの塊は、ちょうどアジャセの立っている場所を囲むようにして地面を抉って落ちた。

 一歩も動かないまま、アジャセは煩わしげに首を傾げる。


「おれ達が選別された実験の時だって、おまえがイムを見つけられたのはおれより後。今だって、お得意の獣の嗅覚と直感で追いかけてきても、どっちみち遅い。久し振りに良い機会だし、教えてやろうかわんちゃん。あの時イムがおれと一緒にこなかったのは、おまえのせいだよ」


 降り注ぐ瓦礫の飛礫も、風を切る爪も、振り上げられた脚も、たたらを踏むこともなくそよ風のように受け流しながらのアジャセの言葉に、サラ・ソウジュは憎々しげに、だが同時に微かな嘲笑の気配をその顔に乗せた。


「彼女はお前ではなく僕を選んだんだ……」

「おまえがうさちゃんがいなけりゃ手当たり次第に喉笛噛み千切りそうな行儀の悪ぃわんちゃんだったからだろ。うさちゃんが手綱を握ってるから人間に戻れてたの、おまえ自身のことなんだからわかるよなあ」


 サラ・ソウジュの肩が動揺したように跳ねた。

 私は、意識の中で交わしたアジャセとの会話を思い出す。

 アジャセの手を取らなかったあの日。アジャセによって、私達が閉じ込められていた施設の壁がすべて崩れ落ち、瓦礫の山の上にいたアジャセ。蟻を潰すような、ナメクジに塩をかけるような、蟷螂の足を千切るような、子ども特有の残酷な無邪気さで大人達を殺して、笑顔で一緒に行こうと行ったアジャセ。

 その手を取らなかった理由には、確かにアジャセに言われた通り、サラ・ソウジュの存在もあった。

 あの頃のサラ・ソウジュは今より遙かに不安定だった。常に人間性と獣性の間に揺れ動かされ、彼の能力を宥めることのできるイム以外の人間に心を許さなかった。この6年間、サラ・ソウジュが常に一定の理性を保ち続けられるようになったのは、ひとえに彼の成長によるものだ。だが、能力と引き換えに他者との相互断絶を得た幼馴染み達を、さしたる能力も持たなかったがゆえに人の世に繋ぎ止める架け橋になった私が、あの時サラ・ソウジュを見捨てていれば、彼は狂い死にしていた可能性は否定できなかった。


『きみが死んだら僕も死ぬ』


 幼い頃からのサラ・ソウジュの口癖だった。

 逆に言えば、私さえ生きて彼の傍にいれば、サラ・ソウジュは抗い難い獣の性を必死に人間としての理性で抑えつけようとしたのである。その結果として今のサラ・ソウジュがあり、だから、彼にとっては私がいなければ人間としての自分などどこにもいないも同然だと思っているのはわかっていた。

 互いに互いを支え合って生きてきた手が、いつの間にか離れないよう縋る手に変わる。この6年間、サラ・ソウジュの私に対する依存をなんとか薄めようとあえて距離を取ってはいたが、サラ・ソウジュの態度は一貫していた。


「おまえがイムを手放せないのは、イムよりも自分のほうが大事だからだ。自分が可愛いんだよ、おまえは。イムに縋り付くのもイムがいなければ自分が崩壊するからだ。理性を繋ぎ止めてくれる手綱がないと、人間じゃなくなるのが怖いんだろ。だからイムの注意が他に向くのをいつまでもガキみたいに嫌がる。イムの周りの奴らを嫌う。本当にイムのことが好きなら、おまえはイムを手放してやるべきなんだよ、わんちゃん。おれが、一緒に行かないって言ったイムを許して殺さなかったように。イムにはおまえなんかがいなくったって、もう生きていけるんだから」


 アジャセの言葉に顔色を失ったのは私だけではなかった。


「……お前に、何が、わかる……ッ」


 サラ・ソウジュの瞳は金色に爛々と光りを放ち、白金の髪は立ち上るような怒気に風もないように揺らめいているかのようだった。それが再びの転化の予兆だという直感に、私はようやく我に返って急いで口を開いた。


「アジャセ!」


 先程オルシーニの銃口は明らかに『宝石の瞳の子ども』を狙っていた。だが、サラ・ソウジュが来たからには、この場の主導権はこちらに渡っていた。子どもが殺される心配はない。私に確信があった。サラ・ソウジュは激昂していたが、私の言葉にはほとんど反射的に従う傾向がある。そして、たかだか小部隊の、銃火器程度の装備力ではアジャセやサラ・ソウジュにはなんの脅しにもならない。

 たったそれだけの短い呼びかけに、既に何度も叫んでいるのと同じ声音は、意図を伝えるには充分だった。アジャセは私を見て、笑顔で「ごめんね。うさちゃん」と何故か謝った。


「おれは衝動を我慢できないんだ。本当だよ。本当にできないんだ。そうしたいと思って、実際にそうできるなら、我慢する前にそうしてしまう」


 夜中だったが、崩落を聞き付けて周囲から人が集まってくる。増え始めた気配に、アジャセの気も逸れたのか、一瞬、そちらへ意識が向いたようだった。その瞬間、サラ・ソウジュの爪がアジャセの胸部を擦って、ばちゃ、と血液が噴き出た。

 目を見開いた先で、傷口から溢れた血は、まるで動画の逆再生のようにアジャセの体に戻った。瞬く間に外傷も消え、しかし今の一撃で内臓が損傷したのか、唇から血が伝い落ちている。それに対してなんの反応も見せずに、アジャセは私を見て言った。


「さっき、そこの男が撃った奴、生きてたら頭の中を覗いてみなよ。特定の感情が喚起された時に、脳の神経に『俺の居場所』を思い出させる記憶を仕込んでおいたから。パスワード式の仕掛けみたいなもんだけど、なんの感情かはいろいろ試して、当ててみて」


 アジャセの周囲の光景がブレる。

 軸が揺らぎ、蜃気楼のように空間が捻れる。


「うさちゃん。また俺を見つけにきてね。今度は一人で。世界の果てで待ってるから」


 そうして、アジャセは消えた。アジャセの持つ超能力の瞬間移動によって、最初から影も形もなかったかのように。後には瓦礫の山と、暗く、深い深淵を思わせる大きな黒目の眼差しだけを残して。


「あんなふうに怪我もなかったことになるとか、本物のバケモノじゃないですか」


 すっかり存在感が消えていたオルシーニの呆れたような呟きは、瓦礫がぱらぱらと落ちてくる音と共に聞こえてきた。

 振り返ると、既に部下達に何か指示を終えた後のオルシーニも、私を見た。その目をじっと見つめ返す私に怪訝そうになったが、すぐに思い出したように予備の物らしいサングラスを取り出すと、こちらからの視線を遮った。


「ところで、これは大問題ですよ。イムさん、貴方さっきアジャセに逃亡を唆しましたね? 最初からそのつもりでご同行くださっていたとは」

「覚えていません」

「いやいや。流石に通りませんて」


 オルシーニはこめかみに指を当てる。頭痛を堪えているような仕草だったが、言葉程に彼の語調に動揺や乱れはなく、先程わずかな間に聞いた、感情を露わにした声は幻聴だったのかと思うほどだ。


「アジャセには6年前の大規模テロ以降、各国政府や財閥がそれぞれ懸賞金を出しています。ようやく出した尻尾……まぁ、正確にはわざと見せられたんでしょうけど、それを掴めるところにいたのにみすみす逃したとあっては、聴聞会で上から吊るし上げにされますよ」

「ご冗談を。上の人達の意向はともかく、あなたにはアジャセを捕まえる意欲は感じられませんでした」

「そりゃあ、楽に捕まる相手とは最初から思っていませんから。以前、とある国が民間軍事会社を使って秘密裏に捕縛した際も、作戦に関わった人材を軒並み殺されながらもなんとか追い詰めたと思ったら、研究目的で脳を狙わないでいたせいで両手両足捥がれていたのにドロンされた前例もあります」

「は、」


 オルシーニは「さっきの怪我の瞬間治癒といい、手足を生やせることといい、便利なもんですね」と肩をすくめて見せた。

 絶句していた私は、ゆっくりと時間をかけて胸の内から怒りが込み上げてくるのを感じた。だが、いまだ腕の中にある子どもの存在と、放心したように俯いているサラ・ソウジュを視界の端に捉えて、自分を抑えつける。


「あれ? 怒らないんですか」

「……最初から、あなた達が誠実に何もかもを情報を開示してくれているとは思っていませんでした。ですが、ここから先の対応は、誠実に行ってもらいます」

「……と、言うと?」


 少し面白そうにオルシーニに続きを促され、私はきっぱりと告げた。


「元いた施設に、ヤースナヤ・ボリャーナ(Yasnaya Polyana)へ私達を護送いただきたい。ここまで連れてきたのだから帰りの便の手配はそちらの義務でしょう」


 私の言葉に、オルシーニが片眉を上げる。


「それは勿論。そちらの……ご協力をお願いしていない超能力者さんもまとめてお送りいたしますよ。貴重な現法における公認の超能力者をみすみす野放しにでもしたほうが国際問題だ」

「この子も、です」


 騒ぎの中、まだ一度も瞳を開いていない少女を抱き抱えて付け足すと、オルシーニは黙った。


「Mr.オルシーニ。あなたの目的はこの子ですね」


 今までの彼の行動を見ていれば何を今更という話でもある。

 あの時見せた激昂から、そこに彼の私的な感情が絡んでいることも窺えた。何より、サングラスの向こう側にある物言わぬ証明を、私は既に見ている。


「あなたはこの子を殺すためにここに来たのかもしれませんが、私はこの子を私達の施設に連れて帰ります。あそこには、少ないけれどこの子と同じ子ども達もいる」

「可哀相だと思わないんですか? 超能力は遺伝子の欠損に手を入れられて発現する力だ。当然、そんなものを持っているからには常に体に異常が生じる。そんないつガタがくるともしれない、常に投薬を欠かせない状態で、生き延びたって未来には研究対象になるだけの日々が待っているだけなのに」

「自分が可哀相かどうか、判断できるのは当人だけです。あなたが可哀相だと思っても、この子がそう思うかはわからない。この子以外の誰にも」


 そして私は、この子が自らそれを判断できるようになるまでは、出来る限りのことをこの子にしたい。

 私のこの感情は、あるいはオルシーニと同じものなのかもしれない。オルシーニは可哀相だと思った。だが、私は生きたかった。恐らくはどちらも、かつての自分自身を重ね合わせての言葉だ。だが、私とオルシーニは違う。そして、この子どもも他の誰とも違うのだ。この子の意志なくして、この子のことを決めつけることはできなかった。


「サラ・ソウジュ、おいで」


 微かに肩を震わせて、放心したように立ち竦んでいたサラ・ソウジュを呼ぶ。

 名を呼んだ途端、弾かれたように顔を上げたサラ・ソウジュが駆け寄ってくる。縋り付くような勢いの男に、思わず苦笑した。


「私のことを知って、心配して追ってきてくれたの?」

「っ……エニシダから聞いて……でも、本当にアイツが、アジャセがいるなんて……」

「……エニシダから?」


 思わぬ名に瞬いたが、しかし、すぐに一旦脇に置く。

 オルシーニに向き直る。彼の部下達は、夜間とはいえ街中での爆発騒ぎの騒動を沈静化させるほうに人員を割いているようでこちらへの注意は逸れている。流石に、オルシーニにまだ子どもを殺す意志があろうと、この状況では手は出せない。ましてや、サラ・ソウジュがいるならば尚更彼にとっては不利だった。


「それに、これはあなたの独断でしょう。新しく超能力者を創ることが現行法で禁止されている中で、未登録の超能力者なんてどこの国も欲しがる。研究対象にもできて、人身売買の市場に流れれば高嶺が付くかもしれない子どもを、みすみすアジャセ捕縛の際のどさくさの流れ弾で殺そうなんて考えるのは、私的な考えとしか思えませんよ」


 オルシーニはお手上げというように、銃を持ったまま両手を上に挙げた。

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