現在 04
アジャセ。
アジャセ。
アジャセ。
この6年、胸の中でのみひっそりと呼ばれてきた名前。
彼を見知った私以外の2人のどちらも、あれから彼の名を口にすることはなかった。6年前に出奔した彼が起こした事件は、まだその頃は国連に保護という名の管理をされていなかった私達は当時知る由もなかったし、知った後も互いに感想を言い合うような和やかな話題でもなかったから、まるで不文律のように私達は彼のことについて口を噤んだ。アジャセについて、厳重な聞き取り調査という名の尋問の中でも当たり障りのないことを答えた覚えしかない。他の2人がどうだったのかはわからないが、私に関しては、その理由はきっと、罪悪感からだった。
あの日、アジャセの手を取らなかった、その罪悪感。
『うさちゃん、いっしょに行かない』
半壊した瓦礫の山の上。鉄筋コンクリートの壁をぶち抜いて構造を剥き出しにしたアジャセの後ろから、沈みかけの夕陽が見えた。逆光になったアジャセの表情もよく見えず、ただその声の響きを覚えている。
うさぎの、うさちゃん。赤いお目々のうさぎちゃん。
超能力を発動する際、一瞬赤く煌めく私の瞳から、アジャセは私をそう呼んだ。
施設を出て行方知れずとなった彼が、大量に人を殺したと聞いた時も、驚きはしなかった。アジャセは昔から誰よりも強い暴君で、気紛れで身勝手、浅薄で快楽主義、何かあればすぐその有り余った力で瞬き一つせずに人を平伏させる、文字通りの問題児だった。流石に彼からしたら葉っぱみたいに吹けば飛んでいく程度の力しかなかった私には何もしなかったが、エニシダやサラ・ソウジュなどは喧嘩をして何度骨を折られたかもしらない。
『自由に生きようよ』
施設という箱を破壊して、自由に。
あの時の言葉そのままに、一人消えたアジャセは自由を手にして世界を踏み躙った。
『生きるっていうことは何かを犠牲にするってことで、おれが生きるには他人よりも少し犠牲が多く必要なだけだよ。何も悪いことなんてしてないだろ。おれの存在が悪ならば、人の命自体が悪なんだから』
世の中の物事はすべて大きな“人”という存在の主観による天秤の問題だ、と言ったアジャセ。自分を正当化するための暴論ならばすらすらと吐いて、数秒後にはそんなことを言ったことさえ忘れていた。罪悪のない子ども。手の付けられない王様。深淵に空いた穴のような虚ろな黒目。
アジャセが生きるために犠牲にした大量の命。私やサラ・ソウジュやエニシダは、間接的に彼のその行いの結果として今の日々を得た。彼のしたことを是とは言えずとも、彼がいなければ私達は、少なくとも私は、恐らく今はこの世にいないだろう。それが6年前、彼が施設を破壊して皆殺しにした職員達や、頭上で崩壊させられたビルの中にいた数百人の人々の命と天秤に賭けた時に、割に合う命の取引だったかどうかは置いておいても。
「アジャセは生きていたんですか」
ようやく口を開いた私が質問したのが、そもそもの前提条件についてだったので、僅かに拍子抜けしたようにオルシーニは肩を竦めた。
「死んだと思っていたんですか?」
「歩いた場所が全部瓦礫の山になるような子どもでした。6年間もの間、彼について聞こえてくることがなければもうこの世にいないのではとも思います」
なるほど、とオルシーニは特有の忍び笑いをした。特に面白いことを言ったわけではなかったはずだが、そういう性分なのか、彼は愉快犯的な笑みを絶やさない。
「生きていますよ。先程も少し言いましたが、彼の起こしたものと思われる事件もそれなりに報告されています。目撃情報はそれほどありませんが」
「なぜ?」
「実際に彼と会った人間は、皆死んでいるので」
なるほど、と今度は私が頷く番だった。何も意外性はない。組んだ足に肘をつき、額に手を当てた私はしばらく黙り込んだ。
「……アジャセを捕まえる?」
「ええ、上の命令です」
「殺すほうがまだ楽な気がします。いえ、実際はどうなのかわかりませんが」
「やむを得ない場合はその許可も出ています。できるだけ、体は回収するようにとのことですが。特に頭部に関しては絶対に」
『超能力』は脳神経の欠陥から起きる。アジャセは私達が元々研究されていた施設の中で、最も強大な『超能力』を発現した子どもだった。超能力者の存在が公になり、その悲惨な収容状況に世論が震撼した結果として国連に保護されている現状、残っている希少な超能力者にメスを入れることはできない。確かにアジャセはこれ以上ないほど素晴らしい実験体ではある。
「なるほど。ではアジャセの居場所に当たりをつけて核弾頭を打ち込むみたいなこともできないんですね」
「あくまで極秘任務ですから、そこまで派手なのはちょっと。市街地の場合、後始末の問題もありますし。何より核攻撃じゃ骨も残らないじゃないですか」
「アジャセを無効化するとなったらそれくらいしか思いつきません」
最も、アジャセは
「いえ、アジャセを捕まえることはできます。あ、いや、言い切ると言い過ぎだな。でも、少なくとも接触は可能でしょう」
「どうやって」
「二つあるカードのうち、貴方という交渉人の存在が一つ」
彼の口振りを聞いていると交渉人というよりもむしろアジャセに対する脅しとして連れてこられたのではないかと予想したが、私は黙って続きを聞くことにした。実際、アジャセは6年前の出奔時、私達3人を殺さなかった。正確には、施設に残されていたまだ赤子だった他の超能力者も殺さなかったが、それを根拠に同じ『超能力者』に同胞としての意識があると判断するのはおかしなことではない。ただし、アジャセの気紛れで自分本位な性格を知っている私としては、あまり確証のある賭けとは思えなかったが。
「もう一つが、今回我々が掴んだ手掛かりになります」
オルシーニに促されて、手元のファイルに目を通す。革製の黒手袋をつけた指が画面をスライドし、あるページの一箇所を指し示した。
そこに映し出された写真に、私は微かに眉根を寄せる。
「現行法では新しい『超能力者』が増やせないことはご存知ですよね?」
もちろん知っている。
6年前に『超能力者』を研究する極秘施設の内情が全世界に晒されたことをきっかけに国連の人権委員会が動き、年月を経て国連の下で今の形になったのが私達が先程までいた施設である。
『超能力』とは、先天的に脳の神経回路の一部が普通とは異なる変形をした者にしか発現しない。国連に保護されるまで、当事者である私達も正確な情報は知らなかったが、これは事実である一方で致命的に抜けのある情報でもあった。
『超能力』は素質のある者にしか発現しない。同時に、その素質は胎児の時点で遺伝子操作を行うことによってある程度恣意的に生み出すことができる。つまり、過去の施設で生み出され、現在残っている両手の数に満たない『超能力者』達は、皆ある種のデザイナーズベイビーということである。
言ってしまえば要は人体実験だ。外聞の悪さもさることながら、どこが秘密裏に施設に出資していたのか探り合いを封じるためにも、人権先進国を掲げる国々はこぞってこの所業に批判の声明を上げた。人権委員会を介入させるその裏で、各国が情報工作と隠蔽に走ったことは言うまでもない。お陰で当時は『超能力』の実在と都市伝説さながらの事態に一躍センセーショナルなニュースとなったが、今では施設も『超能力者』も悲惨な事件の被害者として半ば世界から忘れ去られていた。人間の世界は忙しない。6年前から音沙汰のないニュースなど「そんなこともあった」程度の記憶へと変わっていく。最も、世界が私達のことを忘れても、当時未曾有のテロ事件で世界をどん底に突き落としたアジャセの所業は忘れられるものではないので、副次的に時折思い出されるわけだ。
「こちらの写真を見てください」
写真は複数枚あった。どれも公道に設置された監視カメラなどの映像を拡大しているのか、あまり鮮明とは言い難い。だが、少なくとも何が映っているかは見て取れた。子どもだ。皆服装も年代もバラバラに見えた。
「見えづらいですが、この子達、額に何か……描いていますか」
「流石、目敏いですね。この落書きみたいな二重の黒丸ですね」
男の指先によって画面が拡大される。不鮮明な画質は自動調整されてもそれなりの見栄えだったが、先程よりもはっきりと確認できた。子ども達の前髪に隠されて視認しづらいが、小さな額にマークがついている。黒のスタンプを押したようなマークだった。
「これ、刺青です」
「え?」
「何かに似ていると思いませんか、このマーク」
額に刺青。二重の黒丸。
不意に脳裏にある単語が過った。
冬場はほとんど外に出ることのできない立地上、職員や子ども達への福利厚生の一貫として、施設内部にはスポーツなどの娯楽に興じられるスペースが備え付けられている。子ども達は禁制だが、職員のためのエリアにはビリヤード台やダーツが置かれた談話室もある。ダーツ。そう、ダーツの的だ。
まさかという気持ちで私が答えると、否定してほしいという気持ちとは裏腹に「正解です」とオルシーニから肯定される。
「的の刺青らしいですよ、これ。元々は処置済みの子どもに目印をつける目的だったようですが、廃棄時は壁に並べられて拳銃の的にされるんですって」
「……処置済みって、まさか……」
「ご察しの通り、脳神経の回路を弄くり回す処置のことです。『超能力』を発現させることを目的とした」
「『超能力』は先天的な遺伝子欠陥に起因した能力です。手を入れるのも胎児の時が限界です。後天的にそんなことをしても、下手をしたら廃人になるだけじゃ」
「かの悪名高いロボトミーのようにね。まったくもって仰る通り。しかしこれをやった連中も独自のアプローチで脳の神秘に挑戦して、それなりに『っぽい』結果は出せたそうですよ。彼らが施した手術によって、『超能力』らしき力に目覚めた子どもも数人は確認されています。ただ、術後があまり良くなかったらしく、いずれも長く保った例は多くないらしいです」
「これは一体何の話ですか?」
私の厳しい声音に、流れる水のように話していたオルシーニが口を噤む。
あまりに痛ましい話だった。子どもを道具として使い捨てにする行いは、嫌でも過去の自分達の境遇が脳裏に蘇る。自分達『超能力者』の存在が公になったことで、『超能力者』を人為的に作り出そうとする試みは、今までにも何度か露見してきた。しかし、私達の元いた研究所の記録が全滅時にあらかた失われ、当時所属していた研究員達も全員死んでいることから、いずれも不完全な試みに終わっていた。
私は話の展開が嫌な方向に流れていっていることを察し始めていた。最初から愉快な話になるとは思っていなかったが、予想を遙かに超えて嫌な方向へと向かっている。
「―――この組織は主に依頼で後天的に『超能力者』らしき者を作っていたらしいですが、まぁ、研究者や学者崩れがいても所詮は素人の付け焼き刃。先程も言ったように、上手くできた例はなかったようです。依頼をする顧客側も、大体はまぁ余興程度の気持ちでたいした期待はしていなかったみたいですね。このいかがわしい生体販売をしていた組織団体には先日国連の強制捜査が入って強制解散となったのですが、その際に押収した販売リストに、興味深い売買ケースがありました」
「……」
「こういう犯罪組織がまがい物の後天性『超能力者』を作ろうとするのは、そのほうが断然安上がりだからです。成果も不安定ですし、いくら富豪のパトロンがついていても時間も金も割に合わない。ただ、一件だけね、実験の手順から経過から何から何まで相手の指定に沿って納品されていたケースがありました。当時のことを連中に吐かせたところによると、その『3年前』の納品は、胎児の状態からの遺伝子操作を経て出産された赤ん坊が商品として引き取られていったそうです。よく印象に残っていたそうですよ。なにせ本物の『超能力者』を作れたわけですから。その赤ん坊の超能力、なんだったか知りたいですか?」
そういえば、イムさんの能力と少し似ているかもしれません。
貴方は『超能力』を使う時、瞳が赤く光るんでしたよね。
「『宝石の瞳』を持っているらしいですよ。肝心の『超能力』の詳細のほうは明らかではないですが、無事に成長しているならば今は三歳になっているはずです」
その子が一体今までの話に何の関係があるのか、当然の疑問のはずなのに私は口にできなかった。
第六感とも言うべき感覚が、事態を把握しないままにこの先の嫌な予感を訴えていた。それが『超能力者』特有の直感なのか、それとも人ならば誰しも覚えのある感覚なのかはわからないけれど。
「そのデザイナーズベイビーの依頼主は、『アジャセ』と名乗ったそうです」
依頼を受けた組織のほうは直接の面識はなかったようですが、幼い子どもを連れて姿を隠すには彼一人よりも手間がかかる。『妙な子ども』を連れた『男』についての噂をさらってみたところ、点々といくつかの情報が集まりました。
滔々と語るオルシーニに私は口を挟めない。ただ黙って、阿呆のように瞳を見開きながら、彼の話を右から左へと聞いている。タブレットに世界地図を示したオルシーニがある地域の一点を指して発した言葉が、かろうじて耳に残る。
「それによると、『アジャセ』は現在インドに潜伏している可能性が高い」
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