過去 06



 はぐれてしまった。

 そう認識した時にはもう、自分の生存が絶望的であることにも気づいていた。


「はぁッ、は、ぁっ……!」


 鬱蒼と木々が生い茂る中を、風を切るように走る。身体能力の検査時以外に酷使することのない足が、慣れない獣道に何度も躓きかける。息が上がって苦しい。酸素が足りず焼けるように胸が痛い。けれどここで立ち止まれば、あっという間に死んでしまうことはわかりきっていたから、無我夢中で走り続けた。


「そっちに行ったぞ!」

「回り込んで! あの子の能力は戦い向きじゃないはず、追い込めばこっちの勝ち!」

「ちょこまかと……! せっかくあの犬がいないんだ、このチャンスを逃すなよッ」


「っぅ……!」


 ひゅん、と耳のすぐ横に何かが掠めた。誰かの能力だろう。立ち止まっている暇はないが、熱い感覚に血が流れたことを知る。本気で仕留めにきている、という認識が足先から体を昇ってきて、一瞬怯んだ。

 それが不味かった。

 全力で疾走している中で唐突に体が強張り、木の根に足が躓く。あ、と思った時にはもう体は勢いよく地面に打ち付けられていた。運が悪い時はとことん悪い――体勢を崩した体はそのまま斜面を滑り落ちて、次に瞼を開いた時には視界が痛みでちかちかと明滅していた。


「こっちだよ!」

「早く! 今アイツ動けない!」


 怒鳴る声が近付いてくる。早く起き上がって逃げなければと思ったが、転がり落ちた時に受身を取れなかったせいか、まだ満足に呼吸もできなかった。

 悠長にしている時間などない。痛みを堪えてなんとか立ち上がり、逃げ出そうとする。


「っ!? あぁッ……!?」

「悪いね、逃がさないよ」


 目の前の空間が揺らいだ。気づいて身を翻そうとしたが一歩遅く、背後を見せた首を腕が掴む。空間を裂くように何もないところから姿を現わしたのは、何度か検査の際に見たことのある少年だった。私とは違う能力分類の子だから詳しくは知らない――だが、この力を見るに、瞬間移動テレポートの能力の一種なのだろう。


「っく、ぅっ……!」

「そのまま捕まえてて!」


 追いついてきた複数人の子ども達の中で、リーダー格と思しき少女が声の直後、体に殴られたような衝撃を覚える。直接的な感覚ではなく、石の塊を投げつけられたような――恐らく念力サイコキネシスの能力だ――衝撃波を何度も感じる。空気の圧に殴りつけられる。

 そうやって何度か痛めつけられて、ぐったりと動けなくなる。もう逃げられる心配はないと思ったのか、拘束はそのままに首を絞める力が少し緩んだ。

 ゆっくりと近付いてくる複数の足音がして、霞む視界を開くと、やはり何人もの子ども達が目の前に立っている。


「――ホントに殺すの?」


 誰かが戸惑いがちに口を開いた。追い詰めた獲物を前にして、にわかに黙り込んでいた子ども達の中にあったのも、同じ躊躇いだったのだろう。だが、かえってそうして言葉にして表すことで覚悟が決まってしまったらしい。


「当たり前でしょう。さもないと、あたし達が……」

「コイツの能力、精神系だろ? それもすごい弱いって聞いた。失敗作だ。仲間に引き入れたって、役に立たない」

「甘さは捨てないと。この先、生き残れない。今だって監視されてるはずなんだ」


 ――やっぱり。

 やっぱり、殺されてしまうのか。

 逃げていた時はそれどころではなかった胸中に、静かな絶望と恐怖が広がっていく。首を掴まれたまま、命乞いをすることも、何か最後の言葉を発することもできない。彼らの言う通り、私の能力は精神系で、しかも弱い。まさか徒党を組んでいる者がいるとは思わなかったが、彼らにとって仲間内に引き入れるメリットもないだろう。


「でも、この女には、“番犬”がついてるだろ。アイツの力は強い。取り込んだら使えるんじゃ」

「番犬じゃなくて、狂犬だ。強いだけで能はない。コイツっていう首輪がなきゃきっと自滅する」

「そうだよ。それに、あんな言葉の通じない危険な奴……本当なら殺処分でしょ。どうせ一人じゃどうしようもないんだから」


 霞がかっていた意識が、聞こえてきた言葉に明瞭さを取り戻す。

 ――そうだ、わたしはまだ、死ぬわけにはいかないのだ。

 この悪夢のような時間が始まってから、離れずにずっと傍にいた手を、離してしまった瞬間を思い出す。あの瞬間に私の生存は絶望的になったが、姿が見えなくなるまでの刹那、絶望を瞳に浮かべていたのは私のほうではなかった。

 そうだ、死ぬわけにはいかない。今はまだ、置いていくわけには。


「っや、だ……!」

「っ」


 既に逃げることなど不可能だと高をくくっていたのか、こちらへの注意は逸れていた。必死に藻掻くと、首を掴んでいた少年が慌ててこちらを向く。

 ――どうしよう、どうしたらいい、どうすれば、死にたくない、死ぬわけにはいかない、わたしが死んだらあの子は。

 そう、強く思った瞬間、萎えたようになっていた体に力が戻ってきた。藻掻く体に、こちらを囲んだ者達の各々の能力が向けられる殺気があった。殺される。怖い。死にたくない。死にたくない。死にたくない!


「っぁああッ!」

「! しまった、そいつの目を見るな!」


 誰かが焦ったように叫んで、けれど、その忠告は僅かに遅かった。

 首を拘束していた少年は、こちらが暴れ出した時点でさらに手に力を籠めていた。こちらに覆い被さるように体重をかけてきた少年の血走った目。それと、見開いたわたしの目が合う。視界が赤く明滅する。


「……ぁ、れ……?」


 少年は、次の瞬間、戸惑ったように瞳を揺らした。その瞳には困惑がはっきりと浮かんでいる。まるで一瞬、この場がどこなのか、自分が何をしているのかわからなくなったかのように、辺りを見回そうとする。たったそれだけ。たったそれっぽっちの変化だったが、首を掴む手が緩んだ。


「逃がすな!」


 一瞬出来た隙を掻い潜って、押し退けると、彼らと反対側に走り出す。転がるような足取りで数歩走ったところで、体に衝撃波を感じて、木に叩きつけられた。


「っうぁ……っ!」


 後頭部を強かに打ち付ける。頭を打ったせいですぐに動くことができなかった。痛みに悶絶する間もなく、地面に落ちた体を踏みつけられる。


「手間かけさせてやがって……!」

「い、っう……!」


 苛立たしげに髪を掴んで頭を上げさせたのは、先程リーダー格だと認識した少女だった。私と同じくらいだろうか。この場にいる――いや、この場所に解き放たれた――子達は皆子どもだけのはずだったが――なにせある一定まで成長した子ども達は気づけばどこかへ消える――子どもらしからぬ発達の良さがあって、キツく睨み付けられると大人のように感じて恐怖を覚えた。


「っはぁ、失敗作のくせに手間かけさせやがって。大体、前々から気に入らなかったんだよ」


 ぎりぎりと髪を引っ張られて痛みに涙が出てくる。

 よほど苛立っているのか、少女は激昂していた。周囲の子ども達は誰も彼女を止めない。どうせここで殺すのだから止める必要などないのだ。


「あんたさぁ、失敗作で力だって弱くてなんの役にも立たないくせに、たまたまあの犬の前に出されて死ななかったってだけで評価されてさぁ。はっ、ざまあみろだよ。アイツがいなきゃ抵抗もできないくらい、なんの力もないくせに。生き残るべきは、あんたじゃない!」


 彼女のことはよく知らなかった。子ども達の中でも強い攻撃系の力を持っているのか、普段から勝気な態度が目立っていて、でもこの時まで関わりはなかったはずだ。あちらがこちらのことを認識していたのも初めて知った。

 けれど、その言葉はわたしの胸に確かに突き刺さった。彼女の言うことは事実だったからだ。


『離れたらいけない』


 瞼の裏に、状況を把握してすぐにわたしを連れて逃げ出した彼の声が蘇る。わたしといる時以外は唸り声しか発さないあの子は本物の獣のように思われているが、けれど本能的にとても敏かった。


『僕から離れたらいけない』


 繰り返し言い聞かせるような言葉を、結局裏切ってしまった。

 この状況――突然告げられた命をかけた実験の開始時に、誰より早く状況を把握した彼は、その能力で獣に変じるとわたしを連れて離脱した。それから二人きりで行動していたから、他の子ども達がどうしていたのかはわからない。

 だから、徒党を組んで現れた彼らを見た時は驚いた。

 最初から二人一緒にいたわたし達が言えたことではなかったが、最初に告げられた言葉を信じるならば、これは『最後の一人か、その程度の数まで減るまで終わらない』実験だ。誰かと組む者がいるとは予想していなかった。

 だが、甘かったのだ。最終的に生き残るのが一人であっても、それまでは大勢で行動するに越したことはない。彼らはより効率良く生き残る為に組んだのだと、能力を駆使して追い詰められながら悟った。そして、分断させられて。

 そう、そして、今この様だ。

 あの子の言葉は正しかった。離れてはいけなかった。この場所では能力だけがすべてだ。能力に価値がなければ失敗作として容易く廃棄される中で、自分の能力ではなく、他人の能力に依存して生きている者がいれば、反感を抱かれるのも当然だった。


 ――だが、それでも。


 痛みを堪えて必死に瞳を開く。視界は生理的な涙のせいで霞んでいたが、憎々しげにこちらを見下ろす少女の姿は見えた。こちらの力についてある程度知っているからだろう。瞼を開いたわたしと目が合わないようすぐさま逸らした彼女は、ふんと苛立たしげに鼻を鳴らす。


「せいせいするわ。……誰か、あたしが押さえつけてるから、やりなさい」


 彼女の能力は先程までの逃走で理解できた。衝撃波を発する念力。手加減していたのか――いや、私へのこの不快感を見るに恐らくまだそれほどの力はないだけだろう――体に穴を空けるほどのものではなかった。嬲り殺しにはできるかもしれないが、時間もかかるし、命を絶つことには向いていない。

 彼女の命令に、誰かが動く気配があった。ここにいる子ども達の力は千差万別だ。他の子がどのような力を持っているのかはわからない。だから、取れる手も思いつかない。焦りが胸を埋め尽くしていく。だが、死にたくない。死ぬわけにはいかない。わたししか友達のいないあの子を残して、死ぬわけには――。

 だが、いくら焦ろうと、藻掻こうと、状況が変わってくれるわけではなかった。万が一を警戒しているのか、注意深く私の視界に入ろうとしないせいで、力も使えない。もとよりこの場で役に立つ力でもなかったが、それでも本当に、自分は無力だという気持ちが絶望感となって広がる。

 嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない!

 追い詰められた小動物が最後の力を振り絞るように、瞳に強い力を感じた。私の意志から離れたところで、力が勝手に発動する。私の弱い力。失敗作と言われたそれは、力を発揮する瞬間、瞳が赤い燐光を発するのが唯一の他と違う特徴だった。

 誰も視界に入れていないから、それは、意味のない現象になるはずだった。生への強い執着への願いは、神には届かなかったから。

 自分達を見下す神などいなかった。けれど、神に最も近い力を持った何かが見ていたことを私は直後に知る。それは決して、神ではなかったけれど。


「――――赤目だ。うさちゃんじゃん」


 ―――何か、得体の知れないものが現れたのだと、恐らくその場にいる誰もが思った。


 ばちゃんっ、と水が跳ねるような音がした。何の音なのか、気づくよりも先に、遅れてどさりと何かが地面に叩きつけられる音がする。それは丁度、地面に倒れ伏している私の横に落ちた。――死体。

 それが先程まで自分を囲んでいたうちの一人だったということを悟るより先。誰もが状況を理解できないままに、ばちゃん、ばちゃん、と音が立て続けに鳴った。最後の一人がかろうじて悲鳴の一音目を口にできたくらいで、ほとんど声を上げる間もなかった。何が起こったのかわからないくらい、それは素早く、一瞬のうちに起きた。

 私を拘束していた少女の手も、いつの間にか離れていた。見れば、彼女も先程の私と同じように地面に倒れている。その瞳は愕然と見開かれ、頭は半分欠けていた。

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