第32話

 端的な言葉を誠実で真面目な姉としての仮面をつけながら女王は紡いだ。サーカスの道化を楽しむかのような女王の内面を知り得ている奴隷は、彼女に憎しみを抱いた。極めて深く、極めて重々しい憎悪を。

 心の内側に堆積する憎悪であったが、これを唾棄する権利を彼は持ち合わせていなかった。何せ、その権利自体を彼は既に唾棄してしまっているのだから。このため、奴隷たる彼は女王の命令に従って顔を上げなければならなかった。そして、その目で、微かに潤む瞳で、アキラの姿を捉えなければならなかった。

 精神的な隷属によって強制される行動を奴隷は徹底して行った。本来、その衝動は自己によって解決できるはずなのだが、彼はこれをしようとせずに空気に流されることとした。したがって、彼が嫌々顔を上げて、アキラの顔を捉えたというのは受動的な愚行だと言える。そして、その瞳に絶望の色を宿しているのもまた愚行なのだ。

「こ、こんばんは」

 明らかに日常から乖離している態度を取る藤野に、アキラは引きつった愛想笑いを浮かべた。

「ああ、こんばんは」

「……姉さんとはどういった関係で?」

「友達。いや、それ以下の……」

「それ以下?」

 顔を青白くしながら藤野はたどたどしい言葉遣いで、女王と奴隷の関係性を伝えようとする。もっとも、自分たちの関係を適切に伝えられる言葉を彼が発することは不可能であった。彼が紡げるのは情報の断片でしかないのだから。

 主と下僕の関係性を述べることの出来ない彼は、瞳をキョロキョロと不審げに動かす。そして、彼を見下ろすアキラは、彼の瞳を追う。すなわち、彼はアキラの真実を求めようとする瞳から逃れることが出来ないということである。これに彼は恐怖を覚えた。時間や環境によって解決されることのない問題は彼の精神を圧迫するのだ。

 遠回しな脅迫を受け、彼の顔色はより青くなった。その上で、彼は玉のような脂汗を額に浮かべた。そして、彼は徐々に息が上がって行くのを覚えた。全力で運動をした後のような感覚、肺が活発に動き器官に熱を覚えるようなあの息苦しさを彼は覚えたのである。

 体調に関する直接的な変化を目の前した優しき少女は、その心配を表情に宿して姉を見つめ返した。動揺と不安によって揺れる瞳は、千両役者の仮面を身に着けた姉を捉えた。

「姉さん!」

「アキラ、どうしたんだい!?」

 奴隷の耳からすれば虚言であり、アキラの耳からすれば真実、裏表のはっきりとした感情が籠った絶叫に似た声を女王は上げた。そして彼女は、奴隷に近づくとアキラが彼の頬に添えていた手をどかし、今度は彼女が自身の手を彼にあてがった。極めて冷たいその掌に、奴隷は恐怖を覚えた。

「藤野君、大丈夫!?」

「……問題ない」

「本当に?」

「ああ、本当だ。体調は確かに悪いけど、心配されるほどのことじゃない……」

 甘ったるい道化の声で言葉を紡ぐ少女に、藤野は極めて強い嫌悪感を覚える。ほっそりとした彼女の首に向かって両手を伸ばして、その首をへし折ってやりたいとすら考えた。

 だが、明確な殺意を彼は閉じ込めておくことしかできなかった。別の感情に変換することは、彼には許されなかったのだ。女王の瞳に籠る絶対的な命令、殺意を強要してくる真っ黒な澱み、それが彼の心持を固定させたのである。

 タールのような黒さが籠った瞳を細め、女王は奴隷の健康を案じた笑みを浮かべた。甘ったるくて、気持ちの悪い。けれど、青春において発展する初々しい恋心すら感じさせるような爽やかささえ籠っている笑みを。

「まさか、姉さんと藤野さんってそういう関係?」

 桜色に染まった両頬に手をあてがう初心な少女は、自身の予想を確定させるために随分とくっきりした声音で問いかけた。

「そう、そういう関係だよ」

 逸楽の女王である少女は、奴隷にだけ真理を伝えるよう、頬を微かに染めて口角を上げて、妹が抱いた疑問符を確定させた。

 度を越えた享楽。これは少年が抱いていた殺意を破裂させ、彼は唖然とし、その表情も極めて阿保らしいものとなりえた。額に浮かべた脂汗、背中に不快感を覚えさせる冷や汗、それらはすべて彼の認知の他に置かれた。破裂した感情は彼から認知を奪ったのである。

「あの姉さんに……」

「失礼な妹だな。私にだって恋人の一人くらい出来るよ」

 自信満々に、けれども少女の初々しい恥じらいを浮かべながら逸楽の女王は、真っ赤な嘘を紡いだ。けろりと笑いながら発した少女の言葉に、奴隷は眉をしかめた。

「……違う」

「違う?」

 そして、藤野は押し付けられようとする関係性を拒絶しようと、か細い声で否定した。彼の声に込められた必死な感情、命令によって押し殺されそうになった殺意、これらの意思は確かに彼の言葉に込められた。

 どれだけ日和見な人間であっても、抵抗の意思が込められたか弱い言葉と現状との乖離には気付ける。したがって、アキラは可愛らしく首を傾げて姉を見つめた。

 一切の抵抗を見せないだろうと高を括っていた少女は、目を微かに見開くと今度は強烈な敵意を彼に落とした。彼の心を粉砕する死を予見させるような冷たい視線を一瞬だけ、女王は奴隷に送ったのである。

 既に精神的な支柱を失い自分自身に対する尊厳を放棄していた彼は、雷霆が如き一撃に耐えることは出来なかった。亀裂が深く大きく入り、崩れかかった彼の精神では、宇宙すら凍えさせるような明確な意図を持った強烈な視線に耐えることは出来なかった。したがって、彼は路傍に打ち捨てられた老犬のように、くすんだ目を伏せて、自らが精一杯発した言葉を否定するように首を横に振った。

 明らかに不自然な彼の言動は、純朴なアキラの頭の上に疑問符を浮かばせた。そして、アキラは持ち前の好奇心から姉に真実を問いただそうとした。聡明な双眸は姉を捉えたのだ。しかし、その純粋な行動は奴隷の弱々しい自尊心に警戒を生じさせ、本来してほしい行動なのにもかかわらず、彼は掠れた声で「違う」と言ってしまった。

 無理やりその言葉を発したであろうことは明らかである。苦悶と憎悪、そして誰彼に対する恐れが込められた表情を見れば、そんなこと探らなくとも分かるのである。

「分かりました……」

 明瞭な拒絶と言えるが、内実に何かの事件性を孕んでいることをアキラは看破していたが、その弱々しさに目を瞑り、かすれた言葉を受け入れた。そして、少女は情けなさ過ぎる人、虐げられる人を見るような慈愛の表情で、藤野の歪んだ顔を見つめた。

 優しすぎる眼差しは、地の底を這う人間にとっては眩しすぎる。暗い地底の中でうごめくことが精一杯の生物に、強すぎる太陽光は毒になりえる。このため、弱々しい顔を窺う優しい少女の視線から逃れようと、女王の手を振り払い、不貞腐れるように俯いたのであった。

 親切心からの行動を邪険に扱われたアキラであったが、彼が見せた態度についてどうこう思うことは無かった。無償の愛を提供できるほど、アキラは優しく、暖かいのだ。

「まっ、そう言うことだよ。アキラ」

「どういうことですか、姉さん?」

 奴隷と妹のやり取りをまるで意図していたかのような千両役者は、胸を張りながら、得意げな笑みを浮かべた。

 ただし、彼女の言葉は足りず、自身の自信を妹に伝えるためには不十分であった。このため、アキラは可愛らしい顔に似合わない皴を眉間に寄せ、彼女に問いかけた。ありえ得るであろう事象を全て予期しているのかどうかは定かではないが、彼女はやはり含みのある得意げな笑みを浮かべながら、彼の頭の上に手を乗せた。さらさらとした彼の美しい銀糸は、彼女の手を心地よくくすぐる。

「藤野君との関係性だよ」

「まさか、それだけを伝えるために呼んだの?」

「そうだとしたら、どうする?」

「むかつく」

「どうして?」

「だって、友達と遊ぶ約束してたし」

「なあんだ。でも、別にそれくらい許してくれよ。だって、アキラには暖かい家庭があるじゃないか?」

 皮肉をたっぷり含んだ明野の言葉は、藤野を身震いさせ、アキラを怒らせる。

「一人暮らししたいって言い始めたのは、姉さんじゃない。なのに、その言い方は無いんじゃないの? 生活費だって、全部父さんから出してもらってるくせにさ」

「確かにアキラの言う通りだ。けど、藤野君は私の味方だよね?」

 自分の味方を作るというために、いや、それ以外の目的があった上で、明野は藤野の顎を指で持ち上げる。そして、彼の目に否が応でもアキラの姿を認知させるようにした。

「……」

 ほんの一瞬間前まで覚えていた恐怖と、突発的な強制によって彼の思考は停止してしまった。優秀な思考回路も、至極単純な故障の前では役に立たなくなってしまう。ただし、ある衝撃が加われば、その回路は再び動き出す。

「……ああ、多分、明野さんが正しいよ」

「どっちのです?」

「姉の方。アキラさんじゃなくて、トオルさんの」

 真っ白になって真っ白になって、仕舞いには透き通ってしまった藤野は、二人のとても似ていない姉妹を客観的に見比べた。それは二人の顔立ち、二人の身長、二人の性格、そして二人の服装。ことさら、服装に関しては強烈な違和感、明野の言った皮肉が皮肉ではなく事実であるという点を見出した。

 何せ、アキラの纏っている制服は、前述したとおり中高一貫の名門私立女子高なのだから。その上で、アキラと交わした短い言葉の応酬と、今まで見てきた明野の姿と話の内容、二人の髪や肌の手入れ具合から、彼は自らの回答を紡いだ。

 つまり、彼女はアキラに比べて酷く劣ったように扱われていると、彼は判断したのである。極めて短い時間であるし、証拠も酷く少ない。加えて、彼の判断には、彼が抱くコンプレックスと偏見が大いに作用している。したがって、彼の下した判断というのは早計過ぎる上に、信憑性は一切ない無責任なものでしかない。

 だが、無責任だという事実だとしても彼は自分の判断に絶対的な自信を持っていた。少なからず彼は崩壊しかける自我の中でも、自分という圧倒的な我は持っているのだから。

 親切にしてあげたのにもかかわらず、自分に牙を剥いてきた少年に純朴な少女は怒りの火花を散らした。といっても、それは子犬が吠えてくるようなものであり、彼の精神に回答を変化させるほどの脅威を与えることは無い。彼の目からすれば、ただ可愛らしい少女が、慣れない睨みを利かせているだけなのだ。

「藤野さんがそんな人だとは思いませんでしたよ」

 怒りを持つこと自体に慣れていないアキラは、顔に加えた不細工な皴と体に与えられた強張りを解き放つと、肩をがっくりと落とした。そして、ぼそっと文句を紡いだ。

「まあ、藤野君は私の永遠の味方だからね。それこそ、産まれた時からずっとね」

「気でも触れたの?」

「随分と酷いことを言うようになったね」

 自室を舞台に繰り広げられるやり取りが、全て掌握で来ていると言わんばかりの自信にわざとらしい悲しみを明野は張り着ける。何時までも顎を持ち上げられる藤野は、彼女の表情に畏れを抱いた。

 ただ、人が苛立つポイントをよく捉えた演技に、アキラは彼女が狙っていようにムッと頬を膨らませる。そして、可愛らしく、いとおしく、分かりやすすぎる怒りは彼女の笑いのツボを押さえた。

 道化はケラケラと軽く笑い、純朴な少女はこれに対してさらに怒りを示し、奴隷は二人の相反性をありありと見出す。そして、奴隷は二人の公的な立場は逆転している方が世のためだと考えた。これは彼がアキラを侮っているからではない。単に自分の女王の、不当な扱いを受けている少女の能力を評価しているためである。

「まあまあ、そんなに怒らないでよ。私だってアキラと離れて暮らすのは、結構悲しいんだよ。家に帰っても『ただいま』って言ってくれる人は居ないし、一緒にご飯を食べてくれる人も居ないしさ。それにアキラを一人にさせるのも、心が痛むんだよ」

 軽い笑い声と真剣な声音が混ざり合わさった明野の言葉は、藤野の耳にすんなりと入り込んで、脳に刻み込まれた。

「最近、お母さんが早く帰ってくるようになったから一人じゃないし、私は寂しくないよ」

「ふーん、そっか。それならお姉ちゃんが居なくても、問題ないか」

「問題ないよ、だってお母さんが居るもん」

 腰に手を当てて、可愛らしく自身の現状をアキラは告げた。

 藤野からすれば純朴な妹が告げた言葉も衝撃的な事実であったが、それ以上に彼の集中を奪ったのは明野の表情であった。今まで見たことの無いような寂しくて、遠くの世界を見ているような浮世離れした澄んだ瞳と、平坦になった口角、それらが彼の意識を奪った。

「母親離れは早くした方が良いよ。姉から忠告」

 そして、浮世離れした表情に現実を貼り付けた少女は、苦笑いに似たような笑みを浮かべて寂し気に言葉を、演技ではない感情が込められた言葉を紡いだ。しかし、久しぶりに抱いた怒りを抱くアキラは、彼女の本音に気付けなかった。

 アキラはただ募る怒りの処理に追われているのだ。

「確かに早くした方が良いのかもしれないけど、姉さんもそうするべきだよ」

「私が?」

「そう、一人暮らしなんて我が儘でしょ」

「確かに。言えてる。けど、止めないよ。だって、まだ子供だもん。無責任なさ。それに親の脛は齧れるときに齧っといた方が得なんだよ。いついなくなるか分からないからね」

 寂しさを込めながらも表面上はコメディ的な笑みを浮かべながら、明野は大人の対応をして見せた。そして、彼女は藤野から手を離した。

「それに……、いや違うか」

「何が?」

「何でもないよ。ただ、今日のことは本当に悪いと思ってるよ。ごめんね」

 役者としての役割を脱ぎ捨てた明野は、理知的で誠実な姉の役割を次いで被ると頭を下げた。謝罪以外の感情を汲み取れないほど誠実な言葉は、アキラの怒りを一瞬で沈めることに成功した。これによって慣れない怒りに身を任せていた少女は、純朴で可愛らしい少女像を取り戻した。

「こっちこそ、変な態度を取っちゃってごめん」

「良いんだよ。とりあえず、もう遅いし、お母さんのためにも帰ってあげな。タクシ―呼んであげるからさ」

「歩いて帰るよ」

「それは駄目。アキラは自分が可愛くて、無防備だってことに気付いた方が良いよ。ねえ、藤野君?」

 優しさと寂しさが籠る明野自身の感情が込められた彼女の表情に、藤野は一瞬困惑した。しかし、彼女が妹を本気で想っていることを汲み取った彼は、その困惑を封じ込めて、柔らかな表情を浮かべた。そして、彼は優男の表情のまま、自分が侮られていると考えているであろう少女に微笑みかけた。

「お姉さんの言う通りだよ。アキラさんはもう少し自分を俯瞰的に見た方が良いよ」

「なっ!?」

 魅力的な微笑を浮かべる端正な藤野の口から紡がれた優しすぎる言葉に、アキラは初心な少女らしく顔を紅潮させ、言葉にならない声を漏らした。この少女漫画のヒロインらしい可愛らしい反応は、年上二人の顔に極めて純粋な笑みを浮かばせた。

「……それなら、タクシーで帰ります」

「素直でよろしい。なら、一緒にフロントまで行こうか。藤野君はここで待っててね」

「分かった」

 妹をエスコートする明野の姿は、艶やかな女王の姿とは似ても似つかなかった。その背中は確かに姉の背中となっていた。だからこそ、藤野は自身で導き出した結論から来る悲しみを彼女に覚えた。

 オカルティズムに溢れる部屋に取り残された一人の少年は、恐れと畏れ、哀願と愛玩を少女たちに覚えながら、自分の中に残されたコンプレックスを解消するために行ってきた堂々巡りの愚行の痕跡を、孤独の中で思い返した。

  

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