第36話

 あまりにも簡素だった明野の言葉は、一切の表情が失われた死んだ顔から紡がれた。もちろん、藤野は彼女に感動的な表情を浮かべてほしいと願っていたわけではない。むしろ、彼女が悲劇的な表情を浮かべたのならば、嫌悪感を覚えざる負えないと彼は考えていた。

 だが、そう考えていたとしても、感情を唾棄した彼女の表情は想像を絶するものであり、人間としてありえざる表情だと彼は捉えたのである。このため、彼は餌を待つ鯉のように口を開けたり閉めたりして、驚きに目を丸くしていた。

 平生の彼からは想像がつかないほどあほらしい表情を前にして、一切の感情を殺していた彼女はクスリと笑った。そして、ベッドから腰を上げるとそっと彼の元まで歩み寄り、再び彼の頬に手を当てがった。

「そんなに驚かないでくれよ。こっちとしては、あんたも知ってるもんだと思ってたんだしさ。思いっきり驚いたような顔をされても、どうやって対応すれば良いのか分からないんだぜ?」

 あどけなさが籠る口調で少女は、艶やかな笑みを浮かべる。彼女の浮かべる笑みは、藤野にとって極めて恐ろしい表情に見えた。内面からにじみ出てくる感情の全てを覆い隠そうとするあまりにも分厚い仮面は、どんな歪な仮面よりも恐ろしいのだ。

 心の芯から震える恐怖に晒された彼は何も言葉を発することが出来なかった。そのため、自分の感情を行動で表す他なかった。したがって、彼は体を身じろぎさせることにより、半歩ほど後退した。

 必死の逃亡、這いずることしかできない芋虫のような抵抗は、運命の女王としての仮面をつけた少女にとっては滑稽なコメディにしか見えなかった。そして、彼女は喜劇を観劇するように、ケラケラと笑いながら自分の手元から遠のいた少年に近づいた。

「逃げてくれるなよ。本題はここからなんだしさ」

 相変わらず心から楽しそうな笑みを浮かべながる明野は、今度は彼が逃げないようにと、彼を抱きしめた。

 恥じらいを感じていない少女の体温は、ただただ暖かい。人肌以上の熱は一切帯びていない。

「さて、じゃあここで質問をしようかな、アキラ君。どうして私があんたの母親が死んでいるのかを知ったのか、そしてどうして私があんたに接近したのか。答えてもらえるかな?」

 湿っぽく生暖かい吐息混じりの明野の声に、藤野はぶるりと体を震わせる。その振動は彼女の体にも当然伝わり、彼女は笑みを浮かべる。その笑みは、悪魔の笑みであった。

 ただし、彼が彼女の表情を見ることは物理的に不可能なことである。そのため、彼女の口から微かに漏れた微笑から彼女が浮かべているであろう表情を、彼は予想した。そして、この予想によって生み出された彼女の虚像を脳裏に投影しながら、彼女の問いに対する回答を頭の中で紡ぎ始めた。

 これまで自分が体験してきたこと、これまで彼女が発してきたこと、これまで自分が感じてきたこと、それら全ての経験という横糸を、不安だとか恐怖だとか、苛立ちだとかの感情の縦糸によって織り、ある一つのタペストリーを作る作業を黙々と彼は行った。彼の眉間には深い深い皴が作られ、理性によって制御してきた心は感性によって震えていたが、それでも彼は一つの真実の像を作ることに躍起になった。

 もちろん、全てが順調に進むわけではない。生暖かくて、くすぐったくて、粘性のある甘さを持ち合わせる彼女の含み笑いは、彼の思考を乱し、ノイズを解の中に含ませようとしてくる。しかし、彼は未だ崩れ切っていない理性の柱に体を預けることによってこれを乗り越えた。冬を迎えた精神に絶え間なく降りかかってくる吹雪の冷たさを、彼は乗り越えようと必死にもがいたのだ。

 そして、彼は最終的に一つのタペストリーを完成させた。

 だが、彼は自らが作り上げたその像を、一枚の真実を真実として受け入れたくはなかった。不断の努力と壊れかけた理性をもってして作り上げた会心の作品であろうとも、彼にとってはおぞましい一つの絵でしかなかった。

 ただ、運命の女王が奴隷の身勝手な行為を許してくれるはずがない。

「それで、答えは見つかった?」

 全身が粟立つような根源的恐怖を生暖かい吐息に載せ、明野は微笑みながら呟いた。

 慄く藤野は、その比喩表現を体現し、全身を震わせた。したがって、彼女は彼が自分なりの回答を見つけられたということを認知した。

「なら、教えてよ。ほらほら」

 解の存在を確認できるや否や、明野は人には見せられないほど口角を高く上げた笑みを浮かべた。無邪気な言葉遣いからは想像が出来ないほど醜い彼女の笑顔は、前述の通り、彼の目には映らなかった。

 その代わり、彼は見えない彼女にブルブルと震えた。捨てられた子犬のように、引っ込み思案な子供のように。そして、彼の聡明な脳は一つの推論を導き出した。それは口外したくないタペストリーの情景を紡げば、精神に訪れた冬は過ぎ去り、安寧の春が訪れるのではないかという楽観的で、自己中心的な推論である。普段の彼であれば、このような推論に縋ることは決してしなかったであろう。

 だが、今の彼は普段の彼ではないし、もう二度との今までの日常が彼に帰ってくることは無い。もはや、彼は永遠の停滞の中に放り込まれてしまったのだ。そして、澱んだ空間に漂う彼の性根は腐っており、プライドは完全に放棄されていた。したがって、彼は一縷の望みをかけ、その推論に縋ることとしたのだ。

「……後者はお前が俺を愚行から救ってやりたいっていう、単なる善意だと思う」

「思う?」

「ああ、あくまでも『思う』だ。絶対そうだとは言い切れない。俺の頭はそこまで良くないからな。俺が導き出せるのは、あくまでも仮説だ。だから、『思う』でしか無いんだ。でも、お前の精神性だけは真実だ」

「まっ、そうだね。それは正解だよ。それ以外は?」

 含みのある笑みを浮かべる明野に、藤野の口はためらいを覚えなかった。

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