第35話

 明野が今までに行ってきたことと、彼女がヒントとして与えてきたであろう情報を反芻させながら紡いだ彼の言葉は、妙に乾いていて素っ気なかった。声を発した張本人は、この事実に気付いていなかった。そして、気にすることでもなかった。何せ、彼女はいつだってこういった態度を適当にあしらっていたのだから。

「酷い奴だね」

 しかし、明野は今までの驕慢な態度からは考えられないほど儚い声音で、藤野の悪態を非難して見せた。彼はそのあまりにも弱々しい彼女に、思索を放棄し、目を見開いて驚いて見せた。そして、彼は再び体に力を入れて、ソファから立ち上がった。

 突発的な彼の言動に際して、彼女もまた起き上がった。しかし、彼女の動きには気だるさが伴っていた。活力的というよりも、彼が空間にまき散らしたであろう活気という概念を吸収することによって無理やり起き上がったという方が正しい。

 丸裸の空虚さだけが内包される瞳を持つ彼女は、体を驚きによってわなわなと震わせる彼に向けて寂し気に微笑みかけた。

「なんなんだ?」

「何って、もうそろそろ最後だって言うことだよ。あんたのあまりにも愚かな行動は正した。多分、これからもあんたは馬鹿な真似をすることは無い。そして、あんたはもう自由の身となった。私の脅迫は水梨さんによって形骸化したしね。だから、そのために産まれた寂しさ? それが私をこうさせているんだよ」

「あれだけ可愛くて、同情を誘うような態度も恥ずかしげなくとれる奴なら、確かにそうなるか」

 会話を成り立たせる気が無いように、藤野はうんうんと頷く。

「あんた、意外と気の利いたことが言えるんだ」

 そして、明野はぼそぼそと聞き取り辛い声で紡いだ藤野の言葉に目を丸くさせる。

「気の利いた? 違う。本音だ」

「そう、それじゃあ、あんたの目に私はどう映ってるの?」

 唐突な心情の変化なのか、少女の気は一瞬にして変わり、先ほどまで見せていた弱さの一切は明野から消え去った。その代わり、彼女に宿ったのは悪戯好きの幼子としての性格であった。そして、この性格によって生み出される悪戯っぽい笑みには、あどけなさが存分に含まれていた。

 今までとは異なる雰囲気を纏う彼女に、藤野は眉をしかめる。疑問なのだ。どうして、彼女がこうも変わってしまったのかが。確かに彼女は奴隷の所有権を失い、これに対して寂しさを覚えるということは彼としても理解できる。大切なものが自分の手元から離れるということは、耐え難い寂しさを覚えるのだから。

 しかし、彼の目測であれば彼女は奴隷の所有に熱を持っていたわけではない。彼女が熱を持っていたのは、彼の人生を左右できる采配権でしかない。そして、実際に彼女は彼の人生を変えてしまった。コンプレックスを解消するために、恨めしい母親という存在に対抗するための行為を彼女は否定し、彼を矯正した。歪んだ美徳を履行することの愚かしさを彼は教えられた。

 これらのことから考えるに彼女は、自分の目的を達成しており、彼から味わえるだけの享楽を味わい終えたとも言えるのだ。だのにもかかわらず、彼女は彼を手放すことに寂しさを見せ、彼を繋ぎとめるためなのか女性らしさと子供らしさを見せる。そして、微かな優しささえも見せる。

「……綺麗だと思う」

 女王の優しさ、絶対的な命令ではなく純粋な少女としての問いかけに、藤野は疑問を抱きながらも正直に答えた。

「思う?」

 ただ、藤野の正直というのは素直だということではない。歪み切った認知の中で生きてきた少年は、自分が本当に想っていることに曖昧な表現を混ぜ込んだ。このため、純粋な感想を求めていた明野は不満げに口を膨らませた。

 冷徹な女王と同じ人物だとは思えない彼女の表情に、彼は溜息を吐いた。そして、左手で顔を覆った。

「いや、普遍的に綺麗で美しい。水梨ミオと違って、お前のそれは美しい造形だよ」

「……へえ、本当に意外だよ」

「お前が望んだんだろ?」

「いや、私は何も望んでないよ。あんたは私の要求を無視することは出来たのに、私の要求を飲んだんだよ」

 冷徹な女王からどこか自分に似たような性格になりえた明野に、藤野は呆れを抱き、顔から左手を外す。それからむず痒そうに顔を歪めて、発したくない言葉を発そうと口をもごもごと動かす。

「違う。飲んだわけじゃない。俺は完全なお前の奴隷となったんだ。だから、お前がそう要求した時点で、俺はお前の願いを叶えなければならなかった。それだから、俺は言ったんだよ」

「へえ……」

 淡々と藤野が初めて紡ぐ奴隷宣言に、明野は少々残念そうな表情を浮かべる。まるで彼が奴隷となることを望んでいないかのような表情を。

 彼の権利を自由に動かすことに熱を帯びていた少女の表情は、彼の意表をついた。この衝撃に当てられた少年は、その余波の中で怒りを帯びた。

「何なんだよ、お前は。意味が分からない。お前のしたいことは何なんだ? 一体、お前は俺をどうしたいんだ?」

「どうどう、そんなに怒ってくれるなよ。私はただあんたを正したかっただけなんだよ。それだけ、そう、それだけなんだよ……」

 怒気を孕みながらも静かに語られる藤野の言葉に、明野はからかいと後悔をそれぞれ半分ずつ混ぜ合わせたような態度を取った。彼女の態度は、もはや彼が彼女に対して抱いていた印象から乖離しており、彼の知らない異なる少女が現れたのである。

 理解できない少女の出現の出現は、彼が抱いた怒りの所在を不明瞭なものにしてしまった。何せ、怒りを向ける矛先がすっかり消えてしまったのだから。したがって、彼の心の中には行き場を失った怒りが籠ることとなり、彼はその自分から生じた熱に混乱することとなったのである。それは精神的にも、肉体的にでもある。

 ぐるぐると混ざり合わさることなく、分離されながら自己の中を回る幾らかの感情に、彼は溜息を吐いた。そして、この精神から影響された一日の疲れが溜まっている体は脱力し、その場に座り込んでしまった。

 突如として力を失い、柔らかな絨毯の上に座り込んだ少年を前にして少女は寂し気にクスリと笑った。そして、ベッドから重い腰を上げると、歪んだの本棚から一冊の写真アルバムを取り出した。

「本当にそれだけだし、そろそろ答えに気付いてくれても良いと思うんだけどね」

 一切のためらいなく、あるページを開いた明野は、嘆息を吐きながら、写真を二枚ほど取り出した。

「これまでの会話の中に答えはあるんだしさ」

「……見当もつかない」

「そう、けど、きっとこの写真を見れば答えは分かるはず。いや、分からなきゃいけない。何せ、あんたのコンプレックスの源なんだから」

 明野は背を向けているため、藤野が現在の彼女の表情を窺うことは出来なかった。

 だが、触れたくないものに触れようとする恐れが籠った声音と二枚の写真を取り出したときに見えた異様に震える手から、彼は彼女の表情と感情を推察し、恐怖に歪み、答えが暴かれることに恐れを抱いている少女の顔を彼は思い浮かべた。ただ、そこまで思い浮かんでも、彼女の目論見はさっぱり分からなかった。

 重要な局面において機転の利かない彼は、ただ黙って彼女の小さな背中を見つめた。アキラが来ていた時は、大人びた一人の女性として君臨していたのにもかかわらず、いきなりしぼんでしまった彼女の態度に、彼は柄にもなく心配を抱いた。

 しかし、この抱いた感情を口外することや表情として発露しようとは全く思わなかった。奴隷は主人の言うことだけを聞いていれば良いのだという、負け犬根性がすっかり彼に根付いていたためである。

 ただし、病的な思想が精神に根差していても彼の知的好奇心を押さえつけるには至らなかった。

「俺のコンプレックスを知ってるのか?」

 藤野は一度も、誰にも口外したことのない自分のコンプレックスを知っているかのように振舞う明野に疑問を抱いた。もはや、奪われてしまった尊厳を守ろうと彼は思っていなかったが、それでも彼女がどうして誰にも漏らしたことのない弱みを握っているのかが、彼には気になって仕方が無かったのである。

「知ってるよ。いや、違うね。知ってる気がするって言った方が正しいかな」

 取り出した写真をまじまじと見つめる明野は、哀愁の漂うゆっくりとした口調で回答をはぐらかそうとした。

「はっきり言ってくれ。知ってるのか、知らないのか、断言してくれ」

 言葉を濁そうとする明野に、藤野はぴしゃりと言い切った。退路を断たれた少女は、乾いた笑い声を漏らした。

「あんたの母親は美しい娼婦だった。いや、普通の会社員をやりながら多くの男と関係をもって、別の収入を得ていたんだよね。だから、そう、娼婦というには失礼だね。その人はプライドの無いただ淫売だ。そして、その人はとある男との間に子供を、双子を作ってしまった。それはその人が公職に就いていて安定した社会的地位と収入があったからだろうね。もっとも、あんたの母親を買った男は、あんたの母親と結婚することを喜んだ。なんたって、あんたの母親は美しかったからね。雪のような白銀の髪に、色素の薄い滑らかな肌、肉付きが良いのにもかかわらずスタイルは抜群、性格も男を立てる奥ゆかしい人だったし。だから、その男はあんたの母親との結婚を喜んで受け付けた」

「……なんで知ってるんだ?」

「どうしてだろうね」

 相変わらずジッと写真を見ながら、明野は回答をはぐらかす。

 しかし、彼女の応対など藤野にとってはどうでも良かった。というのも、彼は内心それどころではなかったためである。知られたくない身の上話を前にして、心臓の鼓動は早まり、背中にはぐっしょりと冷や汗が浮かんでおり、彼はかつてない動揺を露わにしていた。

「けど、子供は別だった。その男にとって子供なんて別に要らなかったんだ。だって、その子供は欲していた子供じゃなかったんだから。所詮、金で出来ちゃった子供に過ぎなかったんだからさ。でも、だからと言って堕胎させられるわけでもなかった。その男は公職に就いていたからね。だから、あんたの母親とある男は、とあることで合意を取った。それは婚外子として双子を扱って、結婚も事実上の結婚ということだけにする。その上で、双子の内、跡継ぎにならない女の子は引き取って、跡継ぎになってしまう男の子はどこかへ預ける。最低な合意だけど、あんたの母親とその男は合意を取った」

「……それで、俺の母親は、あのクズは俺を叔父さんに預けたんだ。叔父さんの奥さんが不妊だってことを知っていたから。喜んで俺を捨てたんだ。それで、俺はここまで生きてきた。あの女の穢れた血を引きながら、母乳の温もりも、無償の愛の暖かさも知らないまま」

 足元をジッと見ながら藤野は、憤怒と激情が混じった言葉をはっきりと紡いだ。体には自然と力が入り、無自覚に手は力強く握られた。だが、それで彼の心にくっきりと残る出生に関するコンプレックスが消えるわけではない。むしろ、今まで愚行によって覆い隠していた分まで明瞭に見えてしまったため、彼が負う痛みは増幅されてしまった。

 精神的な痛みに彼が悶えていると、足音も無く近づいてきた明野はそっとしゃがみこんで彼の頬に手を当てがった。ひんやりとしたしなやかな手は、彼の顔に籠る憤怒の熱を微かに冷ます。

「でも、あんたは愛されてたでしょ?」

「当たり前だ! お母さんはあの人だけだ! 俺を愛してくれた、俺に無償の愛をくれたのはあの人だ! けど、でも、俺は母親を、母親の愛を知りたかったんだ。その上であいつを嫌いになってやりたかった……」

 強い怒りを、今はどこで何をやっているのか分からない人間に向けられた憤怒を、そして極めて強い願望を込めながら、藤野は情けない潤む瞳を明野に向けた。

 憎しみと怒り、そして悲しみが含まれた極めて強い感情をぶつける彼に、彼女は優しく微笑む。聖母マリアのように。

 慈愛に満ちた彼女の笑みは、極めて美しかった。

 だが、彼はその美しさの中に恐怖を覚えた。それは彼女と初めて顔を合わせた時に抱いた根源的な恐怖である。体はどういう訳か震え、座り込んでいる床は硬さを失った。だのにもかかわらず、彼の目は彼女の目に向いてしまった。

「知っても仕方が無いよ。だって、そんなのは無かったんだから」

 魂の絶叫と怯えを見せる藤野を前に、明野は、主は、運命の女王はそっと微笑む。

「あんたの母親はその後どうなったのか。あんたの母親はね、育てることを許された唯一の子供と家庭を置いて、再び淫売に身を投じた」

 藤野の双眸から目を離さず、ジッと見つめながら明野は皮肉に満ちた態度で言葉を紡いだ。

 声帯が満足に震えない彼は、ただ口をパクパクと動かすだけで何も言えず、彼女の双眸を見つめるだけであった。

「理由は簡単。あんたの母親も、その男も結婚生活に飽きたから。それだけ。だから、あんたの母親は刺激的な淫売生活に戻ったし、その男は心から愛せた女との恋に入り浸った。結果、前者は蒸発して、後者は幸せな結婚生活を手に入れた。と言っても、あんたの母親の身元はつい最近、ほんの二週間前に判明したんだけどね」

 冷たい表情を浮かべる少女は、少年から離れると、ベッドの傍らに置かれた髑髏の装飾品掛けの口の中からぐしゃぐしゃ丸められた一枚の紙を取り出した。そして、ベッドに座ると、紙を丁寧に広げた。

「新潟県新潟市、十二月二十五日、信濃川河口付近の岸辺に水死体が打ち上げられた。外傷は見受けられない。検死解剖の結果、致死量の睡眠薬が検出された。これより、警察は自殺と断定。また、財布より運転免許証が発見。故人は藤野アケミと判明」

 そして、少女は淡々とそこに書かれている文字を読み上げた。

「……死んだのか?」

「うん、死んだよ。きっちり、戸籍も確認したし」

 個人的な領域に侵犯することを探るような藤野の問いかけに反して、明野は淡白に答えた。

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