第34話

 ついつい漏れてしまった藤野の言葉に、明野は普通に首を傾げて見せる。

 極めて普通に。

 特異な性格が彼女から奪われたことに、彼は疑問を抱いた。そして、彼は好奇心のままに首を傾げ、訝しく目を細めた。会話から逃れるために言葉を濁したのにもかかわらず、会話の中で問えば良かったことを再び紡ごうとするのだ。

「お前は誰だ?」

 突飛な問いかけに明野は目を丸くした。そして、暫しの沈黙の後、噴き出すように笑い始めた。藤野自身、脈絡のないことを突飛に問いかけられれば、そうなるであろうことを理解してた。このため、彼は驚きもせず、ごく自然な笑い声を上げる彼女を見つめていた。

「何、いきなりどうしたのさ。あんたらしくないよ?」

 腹を抱えながら大げさに笑って見せた明野は、笑いの波紋に揺れながらも、楽し気な声で藤野に問いを返した。

「確かに。けど、お前があんまりにも自然だからさ」

「自然?」

「ああ、まるで普通の女子高生だ。歪んだ思想も無ければ、凝った美徳も無い。ある一つの話題に踊らされるような女の子にしか見えない」

 静かな声音で藤野は真顔のまま、淡々と今の明野に対する印象を語った。彼としては今さっき語った印象によって、彼女が少しでも動揺してくれることを望んだ。せめてもの復讐のためである。

 しかし、彼女は動揺するどころか取り繕っていたものの全てを脱ぎ去ったかのようなさっぱりとした笑みを浮かべた。それが意図することは、彼にもなんとなくわかった。自分のすべきことを大体やり終えたのであろうということを。もしくは、最後の山場に彼女は直面しているのだろうことを。

「そう?」

「分からないのか?」

「自分のことなんて自分じゃ分からないよ。もし、自分のことを自分が一番分かってるって思ってたらそれは傲慢だよ。馬鹿で、阿呆で、どうしようも無い愚かな人間。あんたみたいね」

 可愛くない皮肉を純粋な笑みに混ぜながら、ビシッと藤野を指さして明野は笑う。あまりにも子供らしく、あまりにもあどけない少女の顔は、やはり彼が今まで見てきた印象からかけ離れている。

「……」

 記憶と現在の乖離は、冷めやった藤野の頭に火花を散らした。件の砕けた彼の自尊心によって生み出された火種と同じものが、彼の頭の中にも宿ったのである。そして、彼はジッと彼女の顔を見つめる。美しい双眸を、美しい少女に向け続けるのであった。

 覗き込んだのにもかかわらず、今度は自分の瞳の中を覗き込んで来ようとする彼に、彼女は微かな恥ずかしさを覚えた。絶対的に人間としての位が下だと認識している少年の瞳であったとしても、彼女の人間の心は刺激されるらしい。そして、刺激された人間の心は普遍的な情動を起こして見せ、彼女の顔に熱い血を集めるのである。

 妙に顔を赤らめながらも、動揺を伝えないためかジッとこちらを見つめ返してくる愛らしい少女の中に、彼は疑問符を抱く。淫靡で浮世離れした馬鹿々々しい行為をしている最中に見せるべき表情を、どうして今更見せているのかという疑問である。彼の抱いたこの疑問は、こちらを覗き込んできたとき、彼が覚えた疑問にも直結する事柄であった。

 心変わりとでも言うべき変化を遂げた彼女を、彼は分からなかった。彼は直感的に、彼女が今現在、どういった位置に居るのかを感じ取っていた。しかし、この感じ取ったというのはあくまでも彼女の心理的な位置を認知しただけであり、彼女が立っている場所を認知したわけではない。つまり、彼は彼女がいかなる場所に立って、いかなるものを臨んでいるのかを理解できていないという訳である。

 本来は分かっていなければならないはずの精神的な地盤を、彼は認知することが出来ていない。したがって、彼は彼女のことをなにも理解できていないということになる。暴論となるのかもしれない。しかしながら、人と人が関わり合うとき、各人は各人のアイデンティティ、つまり自分の根底を成すもの、自我を自立させるために重要な地盤を知っておかなければならない。知っておかなければ、人のアイデンティティを冒してしまうことになるかもしれないし、その人にとって永遠に治癒されることのない深い傷を負わせてしまうことになると予想できるためである。したがって、多くの人間は自らの境界線を、自らを形成する一種の特徴を、自らが所属しているであろう階級を、言葉や雰囲気、表情によって示すはずなのである。

 だが、彼女は自らの地盤を自らで示すことはしなかった。彼女は彼と顔を合わせるとき、いや他人と顔を合わせるとき、いつも自らを偽る仮面を被っているのだから。自らの一片も漏らさない完璧な仮面、そしてこの存在を引き立たせる千両役者の所作、それらによって彼女の素性は完璧に隠匿されている。

 見事と言わざる負えない彼女のセンス、これによって彼は彼女の目的すら察知することが出来なかった。彼女はヒントを大いに与えているというが、全くつかめない。見えたと思っても幻影でしかなく、実体のある像を手に取ることは出来なかった。

「黙ってないで、なんか言えば」

 押し黙って双眸を見つめる藤野に飽きれた明野は、赤らみを引っ込めると溜息を吐き、くるり彼に背中を向けた。そして、疲れた体を柔らかなベッドに預けるのであった。

「なんで黙ってるの?」

「さっきも言っただろ。変わり過ぎなんだ。グレゴールみたいに」

「虫扱いって酷いね。せめて、人形の家のノラって言ってよ」

「お前が俺に純粋な愛を持っていたら、そう言ってたかもしれない。だから、今までの自分の行動を恨めよ」

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