第33話
呆然自失と藤野は繰り返し行ってきた淫らな夜を瞼の裏に投影した。
桑原、牧、その他の優秀な男子生徒との間で交わした濃密な時間。組解かれ、枕に顔を密着させ、甘い声を出し続ける自分。濡れる体、濡れる唇、潤む瞳、赤熱する臀部、それらを思い起こすと彼の体は不思議と熱を帯びた。
誰かと繋がっていることの喜び、誰かと別れることの哀愁、そしてこれらの感情を生み出す金銭にてやり取りされる絶対に崩れない一夜という環境。この環境こそが、今までの自分、つまり叔父が海外に出張し、一人暮らしを選択した後の自分が幾回と覚えてきた感覚を作り出してきたものである。彼が愛着を持って接し、一つ一つの夜を終えるたびに覚えた倦怠感に達成感を感じてきたその環境も、今や夢と跡と化してしまった。たった一人の少女によって。
悪魔のように目の前に現れた少女は、少年が積み上げてきたプライドを瞬く間に台無しにしてしまった。これは言わずもがな少年にとっては悲劇であり、先ほどの自信喪失につながることでもあった。もちろん、公的に見れば少女の行ったことは極めて善良なことであり、賞賛されるべき行動でもあった。事実を突きつけることにより、理論によって美化された愚行を看破し、多数の男性と交わることによっていずれ生じるであろう病、風紀の乱れを防いだのだから。
だが、少女はこの公的な評価のために少年の美徳が愚行であるということを指摘したわけではない。少女は好奇心によって、あるいは自身の性的欲求を発露する手段として少年の正しい道に戻したのである。
ただし、少年は少女の偶発的な態度を疑問視していた。
藤野はのらりくらりと自身の目的を隠し通そうとする明野を疑っているのだ。すなわち、彼女は明確な目的を持っており、意図して牧に彼を呼び出すように伝え、そして意図して彼のプライドを粉砕しようと試みたと彼は考えている。なるほど、確かに今までの彼に直面してきた多くの物事を捉えた時、彼女の行ってきたことはあまりにも段取りが上手い。その上、先ほど邂逅したアキラとの会話もあらかじめ準備しているように思えた。
現実に現れた幾らかの疑問と彼が持ちうる純粋な知的好奇心、そして失われたかと思った彼女への対抗心が彼の頭脳を活動的にさせた。
「……知らね」
しかし、藤野は脳に刻み込まれた記憶を用いても明野の目的を掴むことは出来なかった。彼の頭の中には、妖しい笑みを浮かべながら恍惚とした表情を浮かべ、滔々と悪口を紡ぎ出す女王のこと、もしくは夜と真逆の真面目な仮面をつけたクラス委員としての立派な女生徒のこと、これくらいしか分からなかった。その上、彼は彼女の二つの姿を分かったと言っても、理解したという訳ではない。単に彼女には二つの姿があるということ認知しているだけなのだ。したがって、彼は明野トオルという女性に短い間であるが、極めて濃厚な接触をしているのにもかかわらず、一切の理解をしていないのである。
結果だけ見れば、彼は愚かな人間のように見えるであろう。実際、彼は自分の行っていた売春という行為をある特別な価値観を用いて神聖な行為として祭り上げていた。このため、彼は愚人だと言えるだろう。しかしながら、それもまた彼の一側面でしかなく、本性を鑑みれば彼は愚かではない。何せ、愚行を愚行と思わせないような論理を作り出せる程度の知能を持っているのだから。
優秀な思考力とはいえ、記憶と十分な経験があるのにもかかわらず、彼女の目的を察知できない。理性と知性、これを人生の支柱としている彼にとって何も分からなかったという事実は屈辱的なことであった。しかし、だからと言って彼の頭に赤熱する血が巡りはしない。彼の頭は極めて冷たく、それも異常なほど。
一つの自信を木っ端みじんに弾き飛ばされた人間は、もはや自分の誇りを侵犯されようとも、無条件の反発をすることは出来ないのである。苛立ちの起き上がり、精神の怒り、これには極めて大きなエネルギーを必要とするのだ。それも生気を大いに伴う、非常に能率的な。
死んだ目を浮かべながら、ボケっと口を開け、天井を見上げながらだらしなく背中をソファに彼は任せる。腕は背もたれに載せ、足も品なく広げて見せる。美しく、儚げすら覚えるような少年の姿はそこに無かった。そこには、ただ現実と自分に対して諦めのついたうらぶれた活力の無い少年が居るだけであった。
「なんでだ?」
ただし、いくら活力が無くとも、心が死にかけていると言え、藤野は心に消えない炎を宿していた。それは自己の美徳が粉砕された後に散らばった残骸が形成する火の粉であり、彼の冷たくなった頭を動かす動力源となりえる精神的なエネルギーであった。
「何が?」
「……いつから?」
ぼそりと空間に呟いた言葉とこれに伴う原動力となりえる熱は、音を一切立てずに現れた女王によってかき消されてしまった。唯一の反抗のきっかけは、その始まりを前に奪われたのである。しかし、機会が奪われたことに藤野は特別な悔しさを覚えなかった。微かな火の粉は、ほんの微かな熱しか持たないのだから。
「ついさっき」
上から藤野の冷めきった顔を覗く明野は、一般的な少女のように微笑む。二つの強烈な仮面を被っている女性の姿はなく、年頃の少女が何気ない瞬間にふと浮かべるカラッとした笑みを彼女は浮かべた。
少女の笑みに違和感はなかった。だが、女生徒としての違和感がない表情を浮かべているということに、彼は違和感を覚えた。そして、何か、言語化しにくい温い懐かしさも覚えたのである。
「どうして?」
「何が?」
「いや、何でもない……」
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