第30話

 真摯な瞳でそれ自体が自分自身に対する心理であるかのように告げてくる明野に、藤野は肉体的な痛みよりも鋭い痛みを心に覚えた。その痛みは彼の目から零れ落ちようとする涙の中に含まれることとなり、彼の涙は生理的な涙から感情的な涙へと変容した。

 反射的な肉体の作用が感情によるものへと変化したことは、彼の心理に大きく影響し、彼は今まで絶対的な信頼を置いていた信条に綻びさえ覚えた。これ自体が絶対にないと確信していた彼は、この認知に対して並々ならない恐怖を覚えた。それは自分が壊れること、自分が今までなしてきたこと、自分自身のコンプレックスを正すために行ってきたすべてのことを否定するような気がしたためである。このため、彼は自分が抱いたこの綻びを出来るだけ見ないようにした。もはや、彼にとって彼女の紡いだ言葉により心理作用は、推察する対象ではなく、それ自体を観測する対象へと変化していたのだ。

 短い人生をかけて考え、最も恨むべき存在から最も遠い場所に行くために努力してきたこと自体を否定されんとする彼は、彼女の物理的な拘束から逃れるために首を全力で横に振った。しかし、彼のか弱い首の筋肉は彼女の拘束を破るだけの力を持ち合わせていなかった。このため、彼の逃避行はなすすべなく否定され、彼はただ自分を支える最も重要な柱に亀裂が入って行くさまを忌々しい映像と音声と、これらを与えてくる一人の女王の手によって見せられることとなった。

 自我が崩壊しかける彼であったが、その一方で彼にとどめの一撃と言わんばかりの言葉を突き刺した彼女は、彼の情けない表情に嗜虐的な笑みを浮かべていた。女王の笑み、サディスティックで人をなぶることを厭わない絶対的な優位者としての笑みを彼女は浮かべていた。しかし、彼が彼女の恍惚とした表情を捉えることは無かった。彼にとって彼女の笑みなど自我の崩壊に比べればどうということは無かったのだから。

 一種の慣れによって観測の対象を内省的な心象世界に限定した彼であったが、その観測すら否定しようと彼女の双眸を見つめた。涙によって朧げな世界しか彼の目に映らなくなっていたとしても、彼女の目の輪郭は正確に保たれていた。理屈は分からないが、彼女の真っ黒で澱んだ目は彼の視界の中で輪郭を保っていたのだ。

 自分を傷つけようとするすべての存在から逃れれるために、その要因を作り出している女王の双眸を見つめている彼の心情、彼女の慧眼を前にして全て暴かれていた。そして、嗜虐的な女王はこれを要因として自分が奴隷たる彼に対して絶対的な優位を獲得したことを認めた。反逆することさえ考えさせないような絶対的な従属。人権の一切を譲渡させるかのような絶対的な支配を、そしてその配下に置かれる奴隷を彼女は遂に手に入れたのである。

 暴れ馬の手綱を握ったかのような征服感、自分のことを絶対的な優位者だと確信していた者を服従させたことに対する優越感、これらは彼女にこの上ない達成感をもたらした。それは勝負ごとによって勝ち得た達成感というよりかは、マスタベーションによって得られた快感に似ていた。このため、彼女は嗜虐的な表情の中に艶やかな朱色を纏わせた。

 自然に揺れるが、状況にあっていない揺れ方をする彼女の逸楽的な瞳の変化は流石の彼も理解した。そして、この理解をしたがゆえに彼は自分が成すすべなく彼女の支配下に置かれてしまったことを理解した。何せ、この瞳は自分でもよく知っていたから、ことさら征服される立場であった自分がよく見てきた瞳に酷似していたからである。ベッドの上で桑原や牧、その他の自分を抱いてきた男性が絶頂に至るとき見せる瞳だった。だからこそ、彼は自分が支配に置かれてしまったことを理解し、腑に落としてしまったのだ。彼女の粗を探して、自分が支配者に回ろうとなど考えたくもないように。

 屈辱的な敗北感であったが、彼は今感じている敗北感に感謝を覚えていた。これは何よりも自分の内面にて生じている自分自身の瓦解から目を逸らすことが出来たためである。このため、彼は現実から逃避するための行動を止め、瞼を閉じると胸の奥で酷い痛みと冷気と共に広がって行く敗北を味わった。信条に生じた亀裂さえ忘れさてくれるような酷い感覚に彼は身を任せたのである。

 心身に浸透する痛みの中で安堵を抱く彼の表情は、妙に安らかなものであった。誰にも邪魔されない乳が溢れ、蜜で満ちる地で憩うような一切のストレスを受けていないかのような表情を彼は浮かべていた。

 人を虐げることに悦楽を覚える女王にとって奴隷が浮かべる安息の表情は、気に食わないものであった。痛みを与えれば与えるほど、その痛みに酔いしれ、自分自身を形成しているものが崩れる様を直視しない奴隷は女王の嗜虐心を満たさないのだから。

「それで? お前に俺はこれ以上何を捧げればいいんだ?」

 加えて奴隷は開き直ったかのように、かすれた声で女王に問いかけてくる。その境地に至った余裕は、彼女にとって酷く鼻にかかるものだった。凡庸で、典型的な体裁はつまらないことこの上ないことなのだ。したがって、嗜虐的な女王は大きな溜息を吐くと、興ざめしたように冷めた視線を奴隷に向けた。

「何も。いや、たった一つだけあるけど、いますることじゃないしね」

「嘘吐け。お前は俺に何か残してるはずだ。じゃなかったら、もっと余裕そうな顔をするはずだ」

 そして、女王は自分の知らない自分を奴隷に指摘されたことに、極めて強烈な苛立ちを覚えた。

「無知蒙昧な馬鹿な癖に、意外と鋭い奴だ」

 大きな負の刺激を受けた明野は、藤野の首を握りしめるように掴むと暴力的な笑みを浮かべた。今まで彼女が浮かべてきたような知的で飄々とした笑みではなく、明確な敵意が含まれた投げやりな笑みである。

 意外な笑みを向けられた彼は息苦しさと重苦しい声に反して、にたりと余裕が含まれた笑みを浮かべた。彼と彼女の立場は打って変わって逆転してしまった。絶対にありえないと思っていた状況が生じたことは彼女をさらに苛立たせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る