第31話

 強烈な苛立ちを覚え、この感情に従って暴力的な行為を行った明野の顔は歪んでいた。どこか、見えないところに傷を負っているかのように。藤野はこの歪んだ表情を朧げな視界の中で見つめると、どういう訳か心に余裕が出来た。生命にかかわる逼迫した状況であることは間違いないが、命の他の点、つまり精神的な面において彼女のよりも優位に立っていることを確認したために産まれた余裕である。そして、ここに彼の内に生じた余裕というのは、彼が今まで追求してきた立場を逆転させるための一手の結果として捉えることも出来た。もちろん、彼が得た余裕が彼の手によって生み出された人工的な立場ではないことは明らかである。また、彼自身、いま自分が取得している余裕が自分の手によって授かったものではないことも理解していた。しかしながら、偶然による結果だとしても彼は自由を得たのである。破れかぶれで、見せかけで、とても目の当てられない制限付きの自由を彼は得たのだ。

 王権にも匹敵する自由、自身を束縛する女王の呪縛に一定の妥協を与えられる自由を得た彼は安堵の笑みを浮かべた。その笑みは彼女をさらに苛立たせ、首にかかる力をさらに同大させ、より自分を苦しませることとなったが、それでも彼はしてやったと、夢見心地の気分を勝ち得た。空虚な諦めの先には、望んでいた権利が歪んだ価値を持ちながら存在していたのだ。しかし、初めから歪んでいる奴隷からすれば、その権利が見合っていたのだ。

 解放奴隷の身分を獲得したような清々しい気分を味わう彼の安らかな表情に、彼女はさらに苛立ち、込める力を強めて行く。彼は気道が圧迫され、徐々に視界が狭まって行くこと感じながらも、この暴力に抵抗しなかった。それは自由な権利を行使した結果であり、自己を確立させるプライドが崩れ去った人間の諦めである。それまで積み上げ、隙が一切ないように作り上げた唯一縋ることの出来る自我が崩れ去った時、人は自分を嘲笑し、そしてその肉体と精神の死を願うのだ。

 生きていても自分のしてきたことの愚かさだけを突きつけられる阿鼻地獄に放り込まれるだけだということは、彼にとって公然の事実であった。したがって、彼は遠のく意識に身を任せて、このまま息絶えようとした。女の手の中で息絶えるということは彼にとって屈辱的なことであったが、それでも崩れたプライドを再建するよりかはマシな気分であったため、彼が女性に対して抱いてきたコンプレックスもこの際、問題にはならなかった。

 何かに縛り付けられるかのように強烈な笑みを浮かべる彼女を嗤いながら、自由で愚かな放蕩人はゆっくりと瞼を閉じた。

「姉さん、居るの?」

 だが、自由になった人間が自らの魂を犠牲にすることは許されなかった。何せ、藤野は、いやすべての人間は運命の奴隷なのだから。

「うん、居る居る。けど、ちょっと待ってね」

 自然の成り行きを邪魔されたことに打ちひしがれる藤野は、やはり叔父家族以外に見せたことのない絶望を表情に示した。その表情は明野が望んでいたものであった。ことさら、彼の自我の崩壊を願っていた彼女にとってはそれが証明となっていたのだから、彼女が感じた喜びというのは比類無きものであったはずだ。したがって、来客、彼女の妹、彼が厭悪すべき存在に応える声は嬉しさがにじんでいた。明らかに嬉しそうな声色が、彼の頭に気もち悪く木霊した。

 頭の中で幾度となく繰り返される顔は知らないが、酷く恨めしい少女の声に、彼は慄き、瞼を開けて目を伏せる。明らかに動揺した様子を見せる彼の表情は、彼女に確信を与え、そして失われていた余裕を取り戻させた。

 妖しく笑う女王は彼の喉元から手を離すと、慌てる様子を見せずスクリーンより映像を消し、彼の手足を拘束していたベルトを解いた。しかし、彼は変わらず拘束されたままであった。精神に課せられた枷は、容易に外せないのだ。

 女王の部屋は全て元通りになり、見てくれだけは普通の部屋となりえた。そして、自分の部屋を、心を落ち着かせて、俯瞰的に見て部屋が普通からかけ離れていないことを確認すると、彼女の妹がその先に居るであろう扉を開けた。打ちひしがれている奴隷も、もちろん考慮していた。ただ、その考慮が奴隷にまで達していたわけではない。

「姉さん?」

「うん、アキラの姉さんだよ」

「そんなことは分かり切った事実です。私が言いたいのは、ソファに座ってる白髪の人です。誰なんです?」

 扉が開いて現れたのは、女王とは似ても似つかない可愛らしい少女であった。身長こそ明野と同じ程度ではあるが、その他の点については一切似ていないと言っても過言ではないだろう。柔かな栗色のショートヘア―、疑うことを知らないような純粋に輝く大きな双眸、ふっくらとした上品な暑さの唇、姉よりも小さいが可愛らしさを称えるには十分な胸のふくらみ、私立名門の女子高の清純な制服姿、そして庇護欲を書き立てられるかのような雰囲気。何もかもが彼女とは異なり、アキラという自分自身を、少女は確立させていた。

 華族のお嬢様とでもいうべき雰囲気の少女は、その可愛らしい頬を微かに膨らませ、目を伏せ、頭をもたげる奴隷の正体を姉に問い詰めた。言い寄られる姉は酷くわざとらしい表情で、焦って見せる。白々しい猿芝居は、奴隷の鼻につく苛立たしいものであった。自分ではっきりと言えるくせに、それを誤魔化し、奴隷の口から言わせようとしてくるのだから。そして、この演技は女王の策略に見事当てはまり、アキラは遂に呆れ、藤野の下に歩み寄っていった。可憐な少女の歩み、それは彼にとって悪魔の歩みでもあった。

 好奇心旺盛な少女の純粋な瞳は、負け犬の奴隷の顔を捉えようとした。しかし、捉えるためには無理やりにでも少年の顔を上げなければならず、それせずに奴隷の顔を見るのは不可能である。そして、いくら好奇心が強いと言っても十代も中盤に差し掛かった少女であれば持ち合わせる理性によってアキラは、仕方がなく自らの好奇心を収めた。

 濡れた子犬のような可愛らしい表情をアキラは浮かべた。自分の可愛い可愛い妹が、状況に対して不満足な態度を見せたとしたら、姉はどうするのであろうか。なるほど、これは考えなくとも分かる。

「ちょっと、挨拶しなよ、藤野君」

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